レンタル細胞殺人事件

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レンタル細胞殺人事件

 階下から地響きのような足音が聞こえてくる。女は三日月を作るように口端を上げて笑った。 「あら、もう終わりね」  築三十年の木造アパートの一室で僕らは向かい合っていた。女と僕の視線が交わる。導かれるまま両手で女の頬を包み、口づけを交わす。不意を突かれた女は大きな目を瞬かせ、僕の二の腕を掴んだ。  強い力で僕を押し返そうとする女。僕は反抗するように舌を侵入させ、口の中で転がしていた錠剤を女の口へと移動させた。そして女の喉が上下したタイミングでようやく唇を離した。  支えを失った女の体が揺れる。揺れは次第に大きくなりコマのように回りだす。コマはずっと回り続けることはない。間もなく軸を失って――倒れた。  倒れた衝撃で机の隅に置いてあった薬が落ちた。子供の細胞を含有しているその薬は女が作った違法な薬だ。この中にあの子のものはないだろう。なにせ十年も前の事なのだから。  けたたましい音を立てて扉が開く。僕は両手を上げて警察に身を委ねた。  ※ ※ ※  今の世は空前の健康ブーム。人々は食事や運動を積極的に行い、健康に悪いとされていることを忌避していた。毎日のように様々な健康法が生まれている中、絶対に健康になれると謳っているものがあった。 『レンタル細胞』  健康な細胞を体内に入れることで悪い細胞を入れ替える技術だ。ちなみに借りた細胞を返す必要はない。レンタルという言葉が使われているのは、発明したばかりの頃に貸した細胞がどうなったか調査するために一旦返すといった事が行われていたからだ。  最初は移植手術で細胞を移していたが、技術の進歩で今は手軽に薬局で買えるようになった。値段は消費税込みで千円。貧乏人でも手が出しやすいお手頃価格だ。しかし入手しやすくなった分、レンタル細胞を悪用した事件の発生件数が増えた。その最たるものが『不良細胞』の売買だ。  不良細胞は健康どころか人を殺す凶器になる。細胞を一つでも体内に取り込んだら徐々に健康な細胞を塗り替え、数ヶ月後には死に至る。故に細胞の製造方法は秘匿されてきた。しかし細胞の製作に関わる人間が増えると必ずどこかで情報が洩れる。僕が所属するレンタル細胞開発部では製造方法流出問題の解決に日々奔走していた。  仕事は忙しくとも人生は充実していた。愛する妻子がおり、人々は細胞の存在を喜んでいる。仕事の問題はあれど順風満帆、素晴らしい人生だろう。この日々がずっと続くものだと思っていた。  ――息子が誘拐されるまでは。  ※ ※ ※  十年前、息子は友達と近くの公園で遊んでくると言って家を出ていった。友達の自転車のベルがチリンチリンと息子を呼び、大きな声で「行ってくる!」と、元気よく駆け出す背中が最後の姿だ。  日が暮れても帰ってこない息子を心配して友達の家に電話をしてみると、こちらも帰宅していないと今にも泣きそうな声が電話越しに聞こえたのをよく覚えている。  両家は警察を頼り、息子達が向かったとされる公園へと行ってみたがそこには誰もいなかった。  誰か目撃してはいないかと近所の人に話を聞いてみると、どうやら息子達は二十五歳ぐらいの女性と歩いていたという情報を得られた。  女性は日よけ用の黒い帽子を目深に被り、これまた黒いTシャツとスキニーパンツという全身真っ黒な出で立ちだったらしい。色を統一させたコーデは珍しいものではない。目撃者はそれ以上の注意を向けなかった。  捜査は難航した。町内で二十五歳前後の女性が住む家を手あたり次第訪問してもそれらしい女性はいない。さらに隣町まで捜査範囲を広げてみても有力な情報は得られなかった。  息子がいなくなってから一ヶ月。妻は息子はもう死んでいると悲しみに暮れるようになり、「まだ一ヶ月だ。諦めるには早すぎる」と慰める日々が続いた。最初は気力を持ち直していたが、徐々に言葉の効力は失われていき、三ヶ月を過ぎる頃には僕の慰めなど微塵も意味をなさなくなった。  それから二ヶ月後の夜に妻も姿を消し、海で目撃されたのが最後だ。  おそらく自殺。  どうしてこんなことになってしまったのだろう。全ての鍵は黒い女性が握っているに違いない。女性が誘拐犯だ。それ以外に考えられない。  やがて警察は別の大きな事件にかかりきりになり期待できなくなってしまった。息子の友達の親はとうに諦めている。幸いにもレンタル細胞を開発した功績でお金は余ってるほどだ。生活には一生困らないし、でかいことをやるだけの資金も十分にある。  それから約十年。ようやく息子を連れ去ったとされる女性を見つけた。  ※ ※ ※  朝、まだ朝日が昇る前に目が覚めた。二度寝する気になれず、水を飲んで軽く散歩をしようと外に出たときだ。左からザクっと土を踏む音がしてギクリと心臓が高鳴る。悪いことをしていたわけじゃないが、反射的に身を屈めて隠れてしまった。  少しだけ顔を出して音のした方向を見ると、全身真っ黒な女性の背が見えた。彼女は脇に小学二年生くらいの男の子を抱えている。あの男の子はいたずら好きで有名で、親が何度注意してもいたずらばかりする困った子だ。まだ寝ている両親を起こさないように家を出て、子供がいない! と慌てる両親をコソコソと眺めるつもりだったのだろう。  女性の手にはスタンガンが握られていた。あれで男の子を気絶させてどこかに運んでいる――そうだ、後をつけよう。僕は女性と一定の距離を保ちながら尾行した。男の子を助けるという選択肢は終ぞ頭をよぎることはなかった。  女性は築三十年は経つと思しきアパートの前で辺りを警戒している。僕の存在には気づいていない。上手く死角に入り込めたようだ。女性は一分ほど周囲を確認してからアパートに入っていく。あのアパートにはみすぼらしい身なりの老人しか住んでいなかったはずだ。どうしてあんな、二十五歳という若さでこんなボロボロのアパートに入るのか――と考えたところでハッとした。  息子と一緒にいた女性は二十五歳くらい。特徴が一致しているあの女性も二十五歳前後に見えた。レンタル細胞の開発者なら答えに辿り着くのは容易だった。  ここ最近出回っている違法なレンタル細胞――それは全ての細胞を若い細胞に入れ替えるものだ。  ここ十年で人々の健康意識は若さへとシフトしていった。体の健康を得られたのなら次は若さだと多くの人が考えた。しかしそれは簡単に実現できるものではない。若返りは人の理に反すると、権力者たちが異議を唱えたのだ。この件についてはレンタル細胞が販売される前から主張されていたもので、当然多くの反発を生んでいる。  女の目的……それは子供の細胞を摘出して若返りの細胞を作ることだ。不良細胞は若返り細胞開発の副産物だったのだろう。ここ数年で人を死に至らしめる不良細胞が減ったのがその証拠だ。女はどこかでレンタル細胞の製造方法を知り、自らの手で若返りの細胞を作った。最初は短時間しか若くならなかったのだろう。それなら二十五歳前後の女性が住む家のみを訪問しても見つかるはずがない。普段の姿は老婆なのだから。  細胞作製の機器はホームセンターや家電量販店で揃えられる。ただし、用意する機器の数は多いし値段も張る。裕福な家庭なのだろうか。  しかし問題はそこではない。もし、不良細胞の一部の開発者があの女性だとしたら、技術を仲間に流し、多くの人々を殺害したことになる。  やがて細胞作製のコツを掴み、失敗も少なくなった。そして……大量生産するために子供を誘拐したとしたら……。  息子は女の若返りのための犠牲になったのでは?  ※ ※ ※  さて、これからどうするか。警察に事情を話しても良いが証拠がない。妄想として片付けられてしまうだろう。それに自らの手で裁きを下したい。心の奥では息子はすでに死んでいることはわかっていた。息子と妻と僕の人生を狂わせた元凶を他人の手に委ねたくない。  一度決意するととんとん拍子に事は運んだ。  包丁やナイフを購入して襲撃するのは好きではない。レンタル細胞開発者に相応しい方法で殺害したいのだ。  そのためには女の懐に入る必要がある。個人で細胞を作れるほどの技術力、そして不良細胞を出回せるほどの人脈を持っているのなら警戒心は強いはずだ。普通の一般人が接触しても隙は見せないだろう。ならば大きな事件を起こして自分の存在を認知させ、異常性を演出しよう。これは持論だが、異常者は異常者に惹かれるものだ。  次は女を釣る餌の用意をしよう。  レンタル細胞は日々進化をしている。次に発売されるレンタル細胞の特徴は『即効性』だ。製造方法はまだ出回っていない。全ての開発は僕一人に一任されているからだ。この細胞は特に健康診断を控えている女性の関心が高く、一刻も早く発売してほしいとあちらこちらから声が上がっている。いくら健康になったといってもダイエットへの関心は昔と変わっていないようだ。  致死性が高い不良細胞を新しいレンタル細胞の試作品に混ぜる。この試作品を飲む人は運が悪いとしか言いようがない。信頼できる大企業から提供されたレンタル細胞でまさか自分が死ぬなんて誰が思うだろうか。  事件を起こした後の計画はこうだ。  女と接触して自分が事件を起こした張本人だと告白するのだ。女に「なぜ事件を起こしたのか」と問われれば「実は自分には嗜虐性がある」と答えてもいい。  もちろんこれだけでは女の警戒は解けないだろう。そこで出てくる餌が『即効の特性を持つ細胞の作り方』だ。条件は警察が来るまでの間だけ匿ってもらうこと。警察には脅されたと答えてもいいと付け加えよう。  こんな隙だらけの計画なんて上手くいくはずがない――しかし、意外にもすんなりと上手くいってしまった。  ※ ※ ※  目の前で試作品を飲んだ人達が倒れていく。辺りは騒然とし、疑いの目は当然僕に向かった。この試作品は僕が作ったものだ。他の誰の手も借りていない。犯人は一目瞭然。みんな僕の傍を離れ、上司は警察に通報していた。もちろん今は捕まるわけにはいかない。周りに誰もいないのが幸いした。僕は全速力で会社を脱出した。  車に乗って女の住むアパートへ向かう。ラジオから臨時ニュースが流れる。内容は僕が起こした事件のことだ。会社を抜けてから十五分、近くに警察署があるからすぐにやってきたのだろう。おそらく僕の家にも来る。すでに待ち伏せされているかもしれない。残された時間は僅かだ。僕が家に帰らないとなると、目撃情報から向かった先を特定するはずだ。早く女の住むアパートに行かなければ。  アパートの前、事前に調べておいた女の住む部屋のチャイムを鳴らす。女はすぐに出てきた。そして僕の顔を見て「ああ……テレビの」と冷静に呟いた。  事件を起こした犯人だと名乗らずとも、すでにテレビでは僕の顔が全国で晒されているようだ。 「僕は直に逮捕されるだろう。しかしその前に”即効性”のある細胞の作り方を伝授したい。コツも教えよう。あなたを選んだのはただの偶然だ。逃亡中、このアパートが目についたんだ。幸いにもあなたは若い。すぐに細胞の作り方を覚えられるだろう。警察には僕に脅されたと言えばいい。知っているとは思うが僕は細胞の、最初の開発者だ。誰よりも熟知している。瞬時に人を殺せる細胞を作るのも容易いんだ」  早口で捲し立てる。 「ふぅん……じゃあなんであんな事件を起こしたの? 何もしなければ順風満帆の人生を送れたじゃない。奥さん、悲しむわよ?」 「僕は内に嗜虐性を飼っているんだ。実は昔から小動物を虐める癖があってね、大人になるに連れて薄れていったんだが……完全にはなくならなかった。それが今になって爆発してしまったのさ。後悔しているが、もう手遅れだ。だから僕の技術を受け継いでくれる人が必要なんだ。それと……僕に妻はいないよ」  すべて嘘だ。 「そうなの。私は嗜虐性なんてものはないけど、自分のためならなんだってできるの。私たちは気が合うかもね。さ、中に入って。その即効性を持つ細胞の作り方を教えてちょうだい」  女は特に疑うことなく僕を部屋の中に入れた。  室内は死臭に満ちていた。鼻の奥をつく臭いに思わず咳き込む。女は臭いなんてないかのように平然としている。  正直、上手くいきすぎてるとは思う。警戒心が強いと思ったのは僕の完全な思い込みだったのか? いや、女と警察はすでに繋がっていて僕を油断させようとしている? 女の様子を見るにそんな気配は感じないが……誰かが入ってくるような気配があったら無理やりにでも不良細胞を飲ませるしかない。  周囲の物音に耳を傾けつつ女に細胞の作り方を伝授していく。目は常に女の動きを追って隙を伺っていたが、あちらもずっと僕を見つめているから不良細胞を渡せずにいた。女の考えが読めない。  女の部屋に上がってから十五分。外がにわかに騒がしくなってきた。サイレンの音だ。警察がやってきた。残された時間は五分もない。 「あら、もう終わりね」  女の視線が窓に向く。その隙に隠し持っていた不良細胞が含まれた錠剤を口に入れる。少々溶けたところでかまうものか。飲み込まなければいい。  女が再び僕を見たタイミングで距離を詰める。  そして薄く開いた唇に吸い込まれるように口づけた。
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