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「おう鍋屋。フンドシ返しに来たぞ」
「毎度ありがとうございます」
丁度店先にいた絹が佐吉に気付くと真っ赤な顔をして奥に引っ込んだ。
「上手くいったようですね」
「お、おう! 最高に特別な日になった。ありがとよ」
佐吉は懐から借りていたフンドシを取り出し吉兵衛に渡した。
「洗ってないけどいいのかい?」
「洗濯料も込みの値段ですからお気遣いなく」
長屋住まいの人たちは鍋釜どころか布団、畳、団扇に至るまで、殆どの物を借りて過ごしている。持っている物も大事に使う。茶碗だって割れても専門の修理屋がいて、焼接ぎをしてもらいまた使う。竈で出た灰も洗濯に使う。灰を買い取ってくれる業者もいる。
慎ましくもおおらかに暮らす江戸の庶民たち。そんな江戸に新たな夫婦が誕生しようとしていた。
「祝言の時には衣装借りに来るから、お絹ちゃんに似合いそうな花嫁衣装用意しておいてくれよな」
「お任せください。とっておきの衣装をとっておきの料金でお貸しします」
「ありがとよ。じゃあな、世話になったな」
これからの事を考えると足取りも軽くなる。軽くなるどころか浮いてしまいそうなほど佐吉は舞い上がっていた。鼻の下を延ばし佐吉が店を出ようとした時だった。
「お待ち下さい佐吉さん。請求書です」
吉兵衛は一枚の紙を佐吉に差し出した。
「はあ? フンドシの代金は昨日払っただろ?」
「いえ、それとは別口です」
「……何だこれは? "知恵"? "耳"? "顔"?」
「はい。佐吉さんは昨日うちの下働きである絹の"知恵"を借りました。それから私に"耳"と"顔"を貸せとおっしゃいました。その請求書です」
呆気にとられている佐吉をよそに、吉兵衛は涼しい顔をして呟いた。
「ああ忙しい。猫の手も借りたいくらいだよ」
〈終〉
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