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美術部に退部届を提出したとき、先生に理由を聞かれた。
「進学の勉強がしたくて」
そういうと、先生はふうっと息を吐いた。
「まあ、谷口さんは絵画咲さんと違ってそこまで絵に積極的に取り組んでいるわけでもなかったものね」
「はあ?」
「え?」
「えっ……いえ、その」
両手を後ろで組んで、ぎゅううっと右手で左手を掴んだ。赤黒い爪の跡と、突き刺されたようなじわじわとした痛みに気づいたのは、職員室を出た後だった。
「これでよかったんだ」
これでよかったんだ。これでよかったんだ。
才能がない人間は、好きなことを続けていても意味がないんだ。
才能がない人間は、一生懸命何かを取り組んでも意味がないんだ。
そうでしょう?そうだよね?
窓の外は、あたしの心のような薄黒い、消し炭色だった。煙をまいたようなその雲を見て、もう美術部に行かなくていいんだと拳を握った。
胸の前にもっていった拳は震えていて、まるで自分の感覚を失ってしまったかのように足もおぼつかなかった。
歩いているのに、前に進んでいるのに、前に進んでいるのは、私なの?
まるで自分の体じゃないようなふわふわとした感覚。
ぽっかり心の中に穴があくという感覚は、このことなのかもしれない。今まで味わったことのない喪失感と、脱力感。
これは、美術部から、絵から解放された安堵から?それとも……。
*
昼休み、いつメンの友達3人といつものようにお弁当を囲んでいた。ずきずきと痛む胃をこっそり抑えながら全く食事が喉を通っていなかった私は、乾いた笑いを返すだけ。
皆が話をしている内容だけは耳があっさり通り抜けていくのに気づくこともままならないほど、緊張していた。
友達になんて伝えようかと。
もうわざわざ雪と帰る必要ないし、部活行ってなかったらどうしたの?って聞かれる。なんで言ってくれなかったの?とか言われたら面倒だし、いつ言おうかって考えながら過ごすのも心象負荷がかかりすぎる。
聞かれるんだろうな……。
美術部やめた理由は?なんでやめたの?
人間の好奇心はデリカシーと比例しない。人間の触れられたくない琴線に、好奇心から出た手は臆することなく伸びてくる。逆鱗に触れていることにさえ気づかない手の主に激高しても意味がない。
説明するの、だるいな。いやだな、面倒くさいな。部活を辞めた理由を話すと、自分の心の内を少し晒すことになるんじゃないか、うっかり自分の心の闇を話して引かれてしまうんじゃないか。
あたしは、心の中で10数えた。
1,2,3。10まで数え終わったらいう。数え終わったらいう。
喉に卵焼きが詰まっている、ぬるくなったお茶を一口飲んであたしは、また数え始めた。
7,8,笑顔を。笑顔を忘れずに。全然気にしていないように、軽い感じで。へらへらと、自分を偽れ、いつものように。
いつも友達と話すように、笑顔で。
10。
「どしたん?真理。なんか顔色悪くない?」
「え?」
友達の一人があたしの顔を覗き込んできた。いやー実はさ、昨日ね。いきなり切り出すとシリアスな空気になりそうだったから、あたしはこの流れで軽くいってしまおうと心の拳を握りしめた。
「美術部やめたんだー、あはは」
笑顔を張り付けたあたしは、箸を持っていない手で頭をかいた。
「えっ!」
「マジ!?」
友達は3人とも一瞬ぎょっとした。
なんて嘘をつこうかな。説明するのには、結構長くなるし、それにあたしの気持ちなんてこの3人の誰もわかってくれないだろうし。
「あー……」
3人とも、笑顔と真顔の中間みたいな微妙な顔で顔を見合わせた。
はあ、どうやっていおうかな。ちょっと面倒なことになったかも。
「よかったー!やーっと真理、解放されるんだ」
「うんうん、これで一緒に帰れるね」
「真理、絵描くの辛そうだったじゃん?」
「へ?」
友達たちは前からあたしと雪が帰登下校するのをよく思っていなかった。
でも、これはちょっと想定外だった。
「絵を描くの辛そうだったって?えっと、そう見えてたの?あたし」
「そう見えてたって、違うの?3人でよく話してたんだよ。どうしたら解放させてあげられるかなって」
「うんうん、本当は真理、絵を描くの辛いんじゃないかって」
「そうそう、美術部の部長なのにいつも絵画咲さんと比べられててさ」
あたしは、思わず立ち上がりそうになってしまった。
「あ、箸落ちたよ、真理。もー、割りばしある人―」
「あるよ、はい真理」
「真理?」
あたしの顔の前で手を振る友達に、あたしは焦点のあってない目を向けた。
「言っていいのかわからなかったけど、美術部やめたって聞いてやっぱりつらかったんだって思ってたんだよ。真理、お疲れ様。よく頑張ったね」
「天才と部長だからっていっつも比べられて、真理が負担に思っていたんじゃないかって実はずっと思ってたんだよ」
「真理、お疲れ様!」
友達があたしの方を見てにこっとほほ笑んだ。
消し炭色の世界が、なんだか少しずつ色を取り戻し始めた。黄色、赤色、青色、紙を湿らせて、絵筆で少しずつ色をつけていくようなそんな気持ちいい、いや奇妙な感覚だった。
あれ。
「あれ?真理?」
「どうしたの?」
よっぽどつらかったんだねと、泣いているあたしをクラスメイトから隠しながら、皆は大丈夫だよ。と言ってくれた。
号泣する程ではない、ずっと溢れそうだったコップの水が最後の一滴で限界を迎えたように、私の頬を熱い涙がつたった。
「あかり、早紀、春香、ありがとう」
あたしは、いつもの張り付けた笑顔でなく胸から込みあがってきたダイアモンドのような気持ちを丁寧に言葉に乗せて、3人に伝えた。
「ふふっ」
「うん」
「よかったね」
そう、これでよかったんだ。
よかった……「真理!!」
……。
「真理!」
次の日、黙って友達と帰ろうとしたあたしを、聞き覚えのある声が呼び止めた。
いつもの蚊のなくような自信のない声と違って、必死さが声に乗ってあたしの耳に突き刺さった。
「どうしたの絵画咲さん?」
振り返らないあたしの代わりにあかりが振り返って問いかけた。
「えっ、あっ、そ、その」
いつもの雪の自身のない返事がアスファルトに溶けていく。
「真理?」
「真理、今日は私たちと一緒にアイス食べに行くって」
3人が、あたしの方を見つめた。心配そうに、あたしを守るように皆前に立ってくれた。
「絵画咲さん、美術部行かなくていいの?いつもみたいに」
「そうだよ、真理は部活やめたんだから、絵画咲さんにはもう関係ないよ」
「そもそも高校3年生になったんだから、もう部活やめて勉強するのは当たり前だし、絵画咲さんも一人で帰れるでしょ?」
悪いヤツに話しかけられて、か弱いからって守られているみたいだった。3人は、雪があたしのことを美術部に連れ戻そうとしていると思っているのかもしれない。
いいや、実際その可能性がないとはいえないんだけどね。
「雪」
「真理!」
あたしに声をかけられて、雪は心底嬉しそうな顔をした。その希望に満ちた笑顔を、あたしはこれからあえてわかっていて、壊すのだ。
「あたし、美術部やめたから」
目をそらして、あたしは皆と仲間だからというように雪に背を向けたあたしに、雪が近づいてくる気配はなかった。
「……真理、私はやめたと思っていないから!絵をやめるなんて真理が、あ、ありえないよ。あんなに絵を描くのが好きだったのに」
「……っさい」
うるさいよ。あたしのこと、何もわからないくせに。
「また絵画咲さんに何か言われたら言ってね、真理」
「そうそう、真理はもう絵描きたくないんだから。無理しないで」
「さっさと行こう!真理!」
3人は、あたしの肩を抱いて、光へと連れ出してくれるようだった。そうだ、あの空間は。美術部は闇だった、劣等感と自己嫌悪に足をすくわれ、泥沼の中でもがき苦しみながら、美しい空の下、あたしを見下ろしている雪を追いかけなくていい。
都会のカラスは綺麗な湖で育った白鳥にはなれないのだ。
「さようなら、雪」
あたしの声は、夕空に吸い込まれていく。
いつもと違う景色、紫かかっていない茜色の空が、美しい雲彩を描いて私たちを眺めていた。なんだかすがすがしい気分だ。こんな時間に帰れるだなんて、そうだよ、あたしはこれでいいんだ。これで……。
「ね、真理!こっちにする?」
「うん!」
人生は選択の連続だというけれど、自分の選択があっているのか否かというのは誰も教えてくれない。自分に自信のある人間なら、あたしが選んだ選択なのだから、と、これでよかったと納得できるだろう。
しかし、自己肯定感の低い人間は、大嫌いな自分の選択を、これでよかったと納得することができるのだろうか。常にこれでよかったのか、あっちの選択にしていたらどうなっていただろうか、重大な決断になればなるほど、不安に苛まれる。
「ねえ、あかり」
「ん?」
「これで、よかったんだよね」
お揃いのイチゴアイスを食べながら、隣で微笑んでいるあかりに声をかけた。
「うん?これあかりが選んだんじゃん」
「……そうだよね」
あたしの人差し指を、冷たいアイスがつたっていく。
馬鹿じゃないの、あたし。
自分のした選択を他人に肯定してもらって、それで納得しようだなんて。
誰かに肯定してもらって初めてこれでよかったんだと思えるのかもしれない、なんて。なんて愚かで自分勝手なんだろう。
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