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1 井下 遥 いのした はるか
これまで出会った人の中で一番仲が良かった人は誰だろう。高校生の頃は特に友達がたくさんいたし、付き合っていた男子もいた。クラスの違う子も良く話しかけてくれたりしたし、瑞紀をはじめバスケ部のみんなは特に仲が良かった。けれどもし、一番印象に残っている人を挙げろと言われたら、それは夜矢琴子かもしれない。
*
「おっはよー!」
朝練で汗ばんだ体をシーブリーズのしゃきっとした香りで上書きする。私にとってこれが朝の始まる香りだ。私が教室に入るとそこにはいつも、誰よりも早く、夜ちゃんが席にきっちりと座っている。
「おはよう!」
夜ちゃんは開いていた数学のテキストをわざわざ閉じて挨拶を返してくれる。胸のネクタイをきっちり上まで上げているところを見ると、いかに私が適当にネクタイを結んでいるのかを実感した。
夜ちゃんは毎日八時前には学校に来るから、いつも一番乗りで勉強をしている。バスケ部が朝練で体育館を使えるのは火曜日と金曜日だけだから、週に二日間だけ、この時間は教室で夜ちゃんと二人きりになる。夜ちゃんとはクラスが三年間一緒だけど、教室でみんながいる時よりも、この朝の時間のほうがいろんな話をした。私も人見知りする方ではないし(むしろうるさがられる方かも)、夜ちゃんも普通にクラスの子と話している姿を見るけれど、案外二人きりで話す機会は少なかったりする。彼女の印象を端的に言うのなら、失礼かもしれないけれど、とっても普通の女の子だ。自分からたくさん話すほうではないけれど、彼女を嫌いな人はたぶんそんなにいないと思う。
「数学! 今日あたし当てられるんだよね!」
私も急いで席に着くと、一限目の数学の予習を始める。部活にも勉強にも慌ただしく取り掛かる私を見て、夜ちゃんはいつも優しく微笑んでいた。
*
練習後のミーティングが終わった後は体育館が閉まるまで、納得のいく限りシュートやドリブルの練習をする。私が出したパスを瑞紀は受け取ると、想像上のディフェンスをかわしてジャンプシュート。すぱっ、という音を体育館に響かせるとすぐ、「もう一本」と瑞紀はまた構え直す。三年生になると、何をするにも最後という言葉が顔を出してくる。長い人生を客観的に見たらまだまだ初めの一歩くらいのはずなのに、もうすぐ最後の大会が始まろうとしていた。
瑞紀は額の汗を拭うと、次のパスをキャッチした。右手で細かくドリブルをして、右足をきゅっと切り返す。両手で掴んだボールを柔らかく放つと、めいいっぱい時間をかけて空中に弧を描きながらボールはリングに吸い込まれていく。瑞紀は私たちのチームのキャプテンで、みんなが認めるエースだ。瑞紀はみんなにとても優しくて、自分には厳しくあろうとしている。そういうところが、同い年の私にとってはとても大人に見えるし、私にこの高校に入って、彼女に会えて良かったなと思わせるのだ。三年生は私と瑞紀の他に茉優と千鶴のたった四人で、一二年生を合わせても僅か十二人のバスケ部だ。決して強いチームではないかもしれない。けれど私たちが日本一のチームだと思う、なんて、どこの学校の子も思っているんだろうな。
「もう一本お願い」
「瑞紀」
「なあに」
ボールのざらざらした感触が心地いい。じんわりとシャツを濡らす汗も、シューズが床のワックスと擦れる音も、瑞紀が放つシュートの放物線も、全てがこの三年間にしか味わえないものだと思う。
「大会、楽しみだね!」
「うん」
瑞紀はえくぼを寄せて笑う。どれだけの想いを巡らせたとしても、次の日曜日に、最後の大会が始まる。
*
「おっはよ!」
金曜日の朝は独特だ。一週間の最後の平日なのに、朝練があるからとても充実した始まり方をする。朝練の後の午前中は英語と現代文の眠たい授業が続いて、三限目の数学が始まる頃にはもうお昼に買う購買のパンの事を考えている。そして午後の授業が終われば、残りの時間を噛みしめるようになった部活が始まる。
「おはよう!遥ちゃん、女バス今週末だよね、大会」
「そうだよ!日曜に栄高で、初戦から結構強いんだけどね。」
夜ちゃんたちの吹奏楽部はもう既に最後の大会が終わっている。吹奏楽部は私たちの何倍も部員がいて、夜ちゃんも含めてみんな一生懸命に練習していたけれど、惜しくも全国大会には行けなかったって言っていた。去年の学園祭でコンサートを聞いたときは、素人の私でも分かるくらい色んな楽器の音が調和していて感動した。夜ちゃんはフルートを吹いていて、たくさんいる部員の中でも凄く上手みたい。詳しいことは全然わからなかったけど、夜ちゃんがフルートを吹いている姿はとても綺麗で、美しさとかっこよさと、少しの可愛さを混ぜて溶かしたみたいだった。
「初戦、確か三高とだよね、あそこ吹奏楽部も強いんだよ!」
そうなんだ、と私は夜ちゃんとのおしゃべりにのめり込んでいく。夜ちゃんは性格も真面目で、予習もしっかりしてくる子だけど、自分が好きな音楽の話だといつもより早口になったり、たくさん笑いながら話してくれる。そういう裏表を感じさせないようなところがクラスのみんなに好かれるんだろうな。顔も普通に可愛いし。
バスケ部の私と吹奏楽部の夜ちゃんの共通点を挙げさせてもらうとしたら、最後まで部活を頑張ったことだ。高校生同士がお互いを応援できるのは、きっとそういう姿を間近で見ていたからだ。自分の他にもどこかで何かに必死な人がいるって、こんなに勇気をもらえるのかと思う。
八時を過ぎて五分も経てば、他のクラスメイトもちらほらと登校してくるから、私と夜ちゃんの二人っきりはごく短い。やがて一限目の英語の授業が始まると、夜ちゃんはまた真面目に先生の板書をノートに書き写し始める。夜ちゃんは同じパートの部員とのバランスを取るのが上手らしい。他の吹奏楽部の子にそう聞いたとき、夜ちゃんらしいなと思った。
「次、井下」
私の名前が先生に呼ばれると、ちらっと、夜ちゃんがこっちを見る。夜ちゃんはこの問題もちゃんと予習してたのかな。
「いや、全然分かんないっす!」
私の元気のいい返事が教室に響く。いつもは眠い一限も、今日は乗り越えられそうだ。
*
想像上ではなく、現実に立ちはだかる相手のディフェンスをかいくぐって、瑞紀が鮮やかにジャンプシュートを決める。すぱっ、という音と共に私たちのチームに二点が加わった。相手のポイントガードがパスを出せないように茉優が必死に両手を広げてディフェンスをして、相手のシュートがリングから外れると同時に、千鶴がめいいっぱいジャンプしてボールを奪う。最後の大会も、始まってしまえば練習通りにプレーするだけ、というのはきっとどのスポーツも一緒だ。吹奏楽部の演奏なんかももしかしたら同じかもしれない。練習は嘘をつかないという言葉は誰に対してもとてもフェアで、潔いと思う。けれど、たったシュート一本の差で負けた私たちに対してはとても重くのしかかる言葉だ。
第四クォーターの終了を知らせるブザーが、私たちに高校バスケの終わりを突きつける。瑞紀も、茉優も、千鶴も、みんな汗だくで、涙もいっぱいだった。
「遥、ごめん」
ベンチを振り返れば、後輩たちもみんな泣いている。応援に来てくれているOGの先輩たちやお母さんたちは、泣いていたり、悔しがったり、それでもたくさんの拍手をくれた。顧問の小林先生が茉優の背中をとんとんと叩きながら、よくやった、と言葉を口にする。それを聞いてまた茉優は声をあげて泣いた。三年間で流した汗と同じくらい、茉優はたくさん泣いた。
「ごめんね、遥」
瑞紀もたくさん涙を流しながら、私にそう言った。ぱっちりした目、女子にしては高い身長、いつもとてもかっこよく見える瑞紀が、私の腕の中で泣いている。
「なんで瑞紀が謝るの?」
私は瑞紀を抱きしめながら笑って言った。誰よりも今日の試合に勝ちたいと願って、三年間誰よりも練習して、誰よりも必死に声を出してして、そして誰よりもチームのために頑張ってくれた、瑞紀が何を謝るの? 私はそう言ったけれど、瑞紀は泣き止まない。瑞紀には感謝することはあっても、謝ってもらうことなんてないよ。瑞紀は静かに首を横に振った。
「私が、遥に怪我をさせなかったら」
瑞紀はそこまで口にすると、あとは言葉にならない泣き声を上げた。
一カ月前の練習中、紅白戦で敵チームになった瑞紀と私はプレー中に交錯して、私は右足の腱を切った。私は最後の大会に出られず、瑞紀は今日、必死にコートに立ち続けた。私たちの三年間を出し切って、瑞紀たちは力いっぱい走り続けて、私は声を枯らして応援をして、そうして最後の大会が終わった。
その怪我が原因で試合に負けたわけじゃないし、頑張ってきた瑞紀や他のみんなを否定するようなこともない。負けたことは悔しいけど、みんなは最後までやり切った。大したことないのは、怪我をしちゃった私だけ。それだけ。だから、
「瑞紀が謝ることなんて何もないよ」
まるで瑞紀は、私の分まで泣いてくれているみたいだ。瑞紀がたくさん泣いている分、私は笑ってそう言った。
そうやって、私たちはバスケ部を引退した。
*
月曜日の朝、朝練はない。そして明日からももう朝練に出ることはない。そう思うと寂しくなってしまって、気が付けば朝早くに体育館に足を運んでしまった。月曜日の朝はバレー部とバドミントン部が体育館を半々にして練習をしている。バスケットボールとは異なるバレーボールの弾む音。ジャンプシュートとは異なるシャトルの放物線。月曜日の朝の体育館は、なんだか知らない場所みたいだ。引退した寂しさを紛らわせようと体育館に来たのに、なんだか拍子抜けしてしまう。
体育館を離れると私は夜ちゃんの待っている教室に向かった。前側の扉をがらっと開いて、怪我をしたのに普通に歩く分には何の問題もない右足を踏み出して教室に入る。大きな声で夜ちゃんにおっはよーと言おうと思った。けど、そこに夜ちゃんの姿はなかった。
誰も座っていない夜ちゃんの席の前を横切って、窓際の自分の席にゆっくりと座る。今日の時間割なんだっけ、頭の中に言葉だけが浮かんで、思考は巡らない。窓から差し込む朝日がちょうどカーテンの隙間から私の机に当たる。眩しくて、うつ伏せになって顔を伏せた。今日は朝から暖かい。暑いくらいだ。天気も良くて、空も青くて、グラウンドでは野球部の朝練の声も聞こえてきたりして、金曜日とはまた違った充実感のある朝だけど、なんだか今日は体も心も重い。
頭が働かないのは朝日が心地よくてまだ眠いからであって、昨日試合に負けたからじゃない。気持ちのいい一日なのに何もする気が起きないのは一週間の始まりだからで、私たちの三年間の部活が終わってしまったからじゃない。
朝から泣き出してしまいそうなのも、怪我をして何の役にも立てなかった情けない自分のせいじゃない。きっと、今日という日に限って、夜ちゃんがいないからだ。
夜ちゃん。
どうして今日はいないんだよ。
夜ちゃん。
「呼んだ?」
がたん、と机を鳴らして私が顔を上げると、夜ちゃんが机の前に立っていた。
夜ちゃんの顔を見た瞬間、私の目から、ぼたぼたと、涙が落ち始めた。
「わわっ! どうしたの遥ちゃん!」
「夜ちゃーん!」
驚きながらうろたえる夜ちゃんに抱き着くように、私は塞き止めていた栓を抜いたように泣いた。
「試合、負けちゃったよぉ。みんな頑張ったのに、私、怪我なんてするから、足引っ張っちゃって、たくさん練習したのに、惜しかったのに、あとちょっとだったのに、だけど、夜ちゃん、すっごく悔しいよぉ」
私は泣き続ける。夜ちゃんは私に抱きかかえられたまま、私の背中を優しく擦ってくれた。
もう部活が始まらない、長い一日が始まろうとしている。
みんなより遅れて流した私の涙を、この世界で唯一、夜ちゃんだけが知っている。
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