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2 北沢 幸春 きたざわ ゆきはる
サークルの新歓にはたくさんの一年生が集まって、垢抜けた女子や黙っていても目立つ男子から、一見すると大人しそうな子もたくさんいる。俺の隣に座った夜矢は、慣れない様子でカルピスサワーを飲んでいた。友達の誘い、という名目でうちのテニスサークルに彼女が体験に来たのは俺が三年生の時で、四月の春が熟している頃だった。
「うちのサークル、飲むやつは勝手に飲んでるけど、三年の女子とかは結構酒飲まない奴も多いよ」
「あ、そうなんですね。テニサーってやっぱりお酒たくさん飲むのかなって勝手に思ってました」
「そのイメージはたぶん今後一生払拭されないんだろうなぁ」
笑ってそう話すと夜矢も遠慮がちに笑った。彼女の友人という藤岡さんと長谷川さんは、新入生ながらなかなか酒がいけるようで、酒に強い二年生たちのテーブルで盛り上がっている。
大学生の始め方についての教科書があったとしたら、きっと第一章は新歓コンパの過ごし方についてだろう。酒に強いかどうかと、酒が好きかどうかで大学時代の友人が決まると言ってもいい。
高校時代からテニス部だった友人たちとは違い、吹奏楽部だった夜矢はもちろんラケットも持っていなかった。今日は新入生が十四人来ていて、その半分以上がテニス未経験者だったのでそういう子もけっこう多い。俺が余分に持ってきたラケットを手に取った夜矢は、なかなか不格好なフォームでそれを振り回していた。大学への入学を機に新しいことを始める人は自分の周りにもたくさんいた。高校時代に他の運動部だった奴もいれば、夜矢のように仲の良い友人に勧められてくる奴や、ただ体を動かしたい奴、友人や恋人を作りたいだけの奴もいるかもしれない。どんな理由であれ、何かを始めるきっかけは人それぞれで、そして新しいことを始める人はみな清々しい顔をしていると思った。
「北沢さんは高校もテニス部ですか?」
「そう。これでも全国出たんだよ」
「え、すごい!」
「運が良かっただけだけど」
「それでもすごいですね」
夜矢のカルピスサワーが空になる。俺は次のビールを注文するついでに彼女にメニューを向けたが、彼女は手のひらをこちらに開いてそれを受け取らなかった。彼女の分のお冷を注文しようとタッチパネルに触れていると、「琴子ちゃんもこっちこっち!」と二年生たちが彼女を連れて行った。俺はお冷の注文をキャンセルして自分のビールだけを注文する。
夜矢さん、結構かわいいよな!
そうかー? 友里恵センパイ一択!
夜矢が席を離れると、誰が言ったのかも分からない言葉が、耳から入ってぼんやりと頭の中を占拠し始める。俺はグラスに残った一口分のビールを一気に飲み干した。夜矢は緩やかにサークルに馴染み始める。ビールはもうぬるくなってて、炭酸はほとんど抜けていた。
*
「頭痛ってぇ……」
大学生(と一括りにすると他の学生に怒られそうだが、)の朝というものは、人生の中で最もゆっくり始まると思う。十一時前にやっと目を覚ました亮介が寝癖のついた頭をガシガシと掻きながら体を起こしながら、隣でまだ横になっている優香の背中を叩く。俺はテーブルに散乱した発泡酒のロング缶と、半分以上残ったつまみを片付け始めた。缶を持ち上げると、缶の底に溜まった昨日のアルコールがゆらゆら揺れて気持ち悪い。
「シャワー、次どーぞ」
先に目を覚ましていた友里恵がシャワーを終えて部屋に戻ってくる。四人で朝日が昇るくらいまで飲んでいたはずが、気が付いたら空高く陽が昇るまで死んだように眠ってしまった。俺の家が溜まり場になるのは、ただ大学から近いというだけの理由だ。
大学生の始め方、第二章。健康的な生活を送るにはまず、大学の近くで一人暮らしはしないこと。
「幸春、シャワー浴びてきたら?」
友里恵がタオルで髪を吹きながら言う。Tシャツがシャワー上がりの彼女のくびれと胸元を強調して、濡れて束になった長い黒髪がくるんと艶やかな曲線を描いている。
時々、友里恵は俺にはもったいないほど美人な彼女だなと思う。付き合い始めていつの間に一年半が経ったけれど、彼女は月日を経るに連れて魅力を増しているようだ。大学生というのは丁度、女の子が女性になっていく時期なのかもしれないと思った。
もう二限も間に合わないかなあ。
シャワーを浴びながらゆっくりと体の中に残ったアルコールを洗い流そうと試みる。頭からかぶったお湯が顔の輪郭を伝って、足元にぼたぼたと音を立てて落ちる。酒を飲んで、夜通し遊んで、バイトをして、セックスして、たまには勉強をして。
俺の大学生活なんて、そんなもんだった。
*
春がその席を夏に譲ろうとしている、六月。新歓のあの飲み会の日以来に、俺は夜矢に会った。
全学部共通の選択科目。楽単で有名な西洋史の講義の教室で俺が座っていると、一席空けて左隣に彼女が座った。リュックサックを机に置いて、中からペットボトルのほうじ茶を取り出して、一口飲む。ほっと、一息をついた彼女はそこでやっと、俺に気が付いた。
彼女は結局うちのサークルには入らなかったので、学年も学部も違う俺と彼女は偶然にキャンパスで会うことも、俺のバイト先に突然彼女が現れることもなかった。なので、彼女が俺の顔を見てすぐに俺だと分かった事に驚いて、ちょっと嬉しかった。
「パソコン苦手で、レポート書くのにすごい時間かかっちゃうんですよね!」
「西洋史の西村は文字数あればB以上貰えるらしいよ」
夜矢は変わらずあどけない様子で等身大の大学生活を教えてくれたので、俺はお礼に単位の取り方を教えてあげる。
「北沢さんもこの講義取ってたんですね!知らなかったです」
「出席取らないから、実は今日初めて来たんだよね」
「ええ! そうなんですか?」
夜矢は小さな口をぱかっと開いてそう言った。新歓に来た時、結局うちのサークルに入った藤岡さんと長谷川さんは同じ学科って言っていたけれど、授業は一人で受けるんだな。
「今日はレポートの範囲が発表されるらしいからさ」
「そういう情報ってどうやって手に入れるんですか?」
「一緒に授業取ってる奴とか、去年この授業取った奴とか、そういう友達いると便利だよ」
おお、と彼女は感心しながら相づちを打つ。
他にも大学生活を楽に、簡単に過ごす技はたくさんある。過去問を手に入れたり、レジュメをコピーさせてもらったり、出席を代わりに切らせたり、そうやってみんな、時間と労力を節約している。
「お友達、いっぱいいるんですね!」
レポートの範囲は産業革命がもたらしたヨーロッパ諸国と植民地への影響についてだった。
九十分の講義で、俺はそれだけ覚えて帰った。
*
大学のキャンパスは都内の割と立地の良いところにあるので、敷地内にテニスコートはない。なので自分たちをはじめ、うちの大学のテニサーはどこも練習のたびにコートを借りるのが通例だ。大学公認のテニサーは八団体もあり、練習もせず飲み会とセックスしかしないサークルも含めたらたぶんその倍くらいある。うちのサークルは大学公認だから、テニスもしっかりするし、飲み会も節度を守ってる、だなんて、世間は思ってくれないんだろうな。
猿江恩賜公園のテニスコートは八面あるので、うちのサークルも良く利用する。新入生の藤岡さんや長谷川さんに加え、今日は久しぶりに友里恵も来ている。
「友里恵さんっていつから北沢さんと付き合ってるんですか~?」
「一年生の秋からだから、一年半くらい前かな~」
友里恵は新歓の飲み会に少し顔を出した以来練習に来れていなかったので、まだ一年生とほとんど面識がない。けれどすぐに打ち解けられるのは彼女の凄さなのか、女子というものの凄さなのか。
「へー!」
藤岡さんと長谷川さんは楽しそうにはしゃいでいる。
友里恵は三年生になるとすぐに幾つかのインターンシップに足を運んだり、OBやOGの先輩を訪問したりと忙しくしていた。本来の大学三年生がどういうものなのか分からないが、俺と彼女を比較すればどちらが充実した生活を送っているかは一目瞭然だと思う。彼女が自分の価値を探している間、俺はまだ産業革命で止まっている訳だから。
二班に分かれてサーブの練習が始まる。一方がサーブを打つ側で、もう一方がリターンを返して、続く限りラリーを行う。一年生の拓海がラケットを構えて俺のサーブを待っている。拓海はテニス未経験だったが、高校の時に野球をやっていて運動神経が良かった。俺はボールをとんとんと弾ませる。
「どっちから告白したんですか?」
「私から」
左手に持ったボールを高く上げる。垂直に上がったボールが、自分の重さに負けてそのまま落下してくる。
「テニス上手くて、いかにもテニス馬鹿って感じでさ」
ラケットがボールを捉える。緩く回転したボールはワンバウンドして、拓海の手元に届く。
拓海はまだ慣れない足運びでラケットを後ろに引いて、右手を振りぬいてボールを打ち返した。
「北沢さん、いっつも返しやすい球を打ってくれるんですよね!」
「分かる! めっちゃ優しいよね!」
俺はまたボールを打ち返す。ボールは頭の中で思い描いていた通り、拓海が一番打ち返しやすいところに向かって飛んでいく。
「ほんとにね」
友里恵がこちらを見ている。湿ったような、悟ったような瞳で。
*
「夏大まで出るんでしょ?」
友里恵は布団から出てさっと上だけシャツを着ると、鞄からノートパソコンを取り出した。夏のインターンシップに向けて書類の作成に忙しいらしい。裸で横になったまま、働かない頭で彼女の後ろ姿を眺める。
「私は前期でもう引退するよ」
「そう。忙しそうだもんな」
「大会は応援行ってあげるよ」
彼女は明るくそう言った。三年生の夏になると基本的にうちのサークルは台替わりになって、夏休みにある他サークルと合同の大会をもって引退になる。俺は漠然と大会には出ようと思っていたが、就活に足を踏み入れている友里恵は一足先に引退を考えているらしかった。
「テニサー同士の大会なんて何になるんだろうな。プロになる訳でもあるまいし」
「いいじゃん、たまには必死になってみたら?」
友里恵は笑いながらキーボードを叩き続けている。どう考えても、テニサー同士のちっさな大会で優勝する奴より、必死で自己分析している学生の方が企業のためになると思う。
「いいよ、俺は楽しくやれればそれで」
友里恵は鞄から書類を探している。白いワイシャツの上半身に対して、まだスカートを履いていないので緑色の下着が丸見えになっている。
美人で、スタイルが良くて、頭も良くて、頑張りやな、自慢の彼女。
「大学は適当に卒業してさ、いい感じの会社で楽しくやっていくよ」
友里恵といると、時々、強烈に自分の事を、惨めに感じる。
そういうところを、いつも見ない振りをして、俺は自分に満足しているように、きっとこれからもそうやって生きていくんだろう。
と、くるっと、友里恵が俺の方を振り返った。
「付き合い始めた時は、本気でテニスやってたよね」
「みんな、所詮サークルだし、楽しくやれればいいやって感じでさ、私なんて全然へたっぴだったし。あ、それは今もか。でも幸春はさ、なんか他のサークルにさ、高校の時負けた奴がいるからって馬鹿みたいに一人で言っててさ、初心者に混じってめちゃくちゃ練習しちゃって、ホントにテニス馬鹿って感じだったよ」
「……なんの悪口だよ」
「悪口じゃないよ。かっこ良かったよねって話」
そう言って友里恵は再びパソコンに向き直した。
俺はまだ、彼女の背中を見つめ続けている。
「私、たまに思うんだけどさ、楽しいっていう気持ちは、ある程度頑張らないと感じられないんだよね」
「幸春はどう? 楽しい?」
彼女のタイピング音が沈黙を埋める。
何も答えられずにいる俺を、彼女はいつまでも待ってくれる。
「お前は就活楽しいの?」
「いや~これがなかなかね~! もう少し結果が出たら楽しくもなりそうなんですけどね~」
友里恵は髪を耳にかけながら目を細めて笑った。
優しくて、とても自然で、人を励ますような笑顔だった。
その姿が、これまでのどの瞬間の彼女よりも、素敵だと思った。
*
テスト期間も終わりが近づいており、サークルの練習も、前期の大学の授業ももう最後になる。
一限だけのテストが終わった午前十一時、これから夏休み前の最後の練習に向かう途中、俺は再び、夜矢に会った。久しぶりに見た彼女はノースリーブのワンピースを着ていて、もう夏が来るのだなと思った。
「西洋史、ばっちりでした! 北沢さんのおかげですね!」
ありがとうございます、と言って彼女はひょこっと頭を下げる。
別に俺は何もしていないんだけど、と思いながらも、そう言われて悪い気はしなかった。
「私、タイピング、結構早くなったんですよ!」
「そうなんだ」
「もうどんな課題でもかかって来いって感じですね」
彼女は楽しそうに話す。
楽しさを感じるのは、ある程度頑張っている人らしい。
「俺もばっちりだった。絶対A+もらえてるね」
「北沢さんも本気出されたんですね!」
本気、出したのかな。
そうだったらいいな、と思った。
「これから練習ですか?」
「そう、夏休みにさ大会があるんだよ。俺ら三年はそこで引退だからね」
「彩ちゃんと由実ちゃんが言ってましたよ、北沢さんものすごく上手だって。大会頑張ってくださいね!」
彼女が笑いながらそう言ったので、きっと、俺もつられて笑っている。
「ありがとう」
大学生の始め方、第三章。
「優勝してくるよ」
必死な方が、たぶん楽しい。
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