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4 栗山 澪 くりやま みお
「はい、カフェラテでーす」
「ありがとうございまーす!」
夜ちゃんが久しぶりに店に来たのは四月も後半に差し掛かった日の事だった。カフェラテの入ったマグカップに両手で触れる。こんな時期なのに今日は朝から寒くて嫌になっちゃうぜ。そう思っていた時に、夜ちゃんがお店に来てくれた。
「どう? 社会人は慣れた?」
「もー全然! 研修なんて怒られてばっかですよ~。いかにも体育会系って感じでしたあ~」
「職場、この辺だっけ?」
「そうですそうです! 近くて良かった~」
夜ちゃんはふーと息を吹きかけてからマグカップに口を付ける。そしてカフェラテの上の少し苦い部分をすすると、猫舌の夜ちゃんは熱そうに顔をしかめる。彼女は大学生の頃と全然変わっていない。
夜ちゃんは私が大学四年の時にうちのゼミに入ってきた。法学部は三年生から希望者はゼミに入れるので、その時の彼女は三年生で彼女と私は一つ歳が離れている。今年で二十三歳になる彼女は、二十四歳になる私より少しきらきらして見える。羨ましいぜまったく。
夜ちゃんはカフェラテをよく冷ましてからもう一口飲んだ。夜ちゃんとはゼミの発表の班が同じで、家が近かったり私のバイト先のこの喫茶店によく来てくれていたことを知ると、すぐに親しくなった。テストの前やレポートが溜まった時はいつもカフェラテを一杯頼んで、頑張って勉強していた。そんな日々も、もう大分前に感じた。
「澪さん、もうすぐですよね、試験」
夜ちゃんは甘くないカフェラテのマグカップから手を離す。うちのカフェラテは店長一押しのエスプレッソが生き生きと苦さを主張してくるから、口に含むと舌にじっとりと苦味が残る。コーヒーが好きな人が飲むカフェラテって感じだ。まあコーヒーが好きな人はコーヒーを頼むんだろうけど。
「もう来月が一次試験だよー、参っちゃうね! 去年落ちたのがこないだって感じなのに」
「一年って、歳を重ねるごとに早くなりますよね〜」
年下のお前が言うか! って私が言ったら夜ちゃんはのんびり笑う。土曜日の午後、時刻は間もなく十六時。懐かしいような、落ち着くような、そんな一日。
「栗山、お喋りしてないで洗い物」
カウンターから片平さんが低い声を私に飛ばす。片平さんはこのお店の店長で、即ち私の雇い主。歳は幾つ上だっけ? たぶんアラサーだった気がする。
私は夜ちゃんとのお喋りを惜しみつつ厨房に戻って、大した量もない洗い物に手をかける。これはさっきのお客さんが食べたピザトーストかな。片平さんの作るピザトーストは笑っちゃうほど分厚くて、食べれば笑っていたことを謝りたくなるくらい美味しい。スポンジに洗剤をたっぷりつけて、お皿をきゅっきゅと洗っていく。
厨房から夜ちゃんの方を覗いてみる。顔を下に向けているから、スマートフォンをいじって、誰かとLINEをしているのかもしれないし、腕時計を見て今の時刻を確認しているのかもしれない。彼女のマグカップはまだ熱そうなカフェラテに満たされている。楽しい時間ものんびりとした時間もあっという間に過ぎていって、来月、私の元にまた、採用試験が迫ってくる。
*
「『労働基準監督官』って結局どんな仕事なの」
片平さんは如何にも興味なさそうな感じで私に尋ねてくる。閉店作業の最中だからこっちを見向きもしないで。まあそういうところがこの人らしいけど。
「片平さんって今日何時間働いてます?」
「え? えっと……何時間だろ?」
「オープンは十時ですよね? 何時から仕込みしてました?」
「今日は七時くらいだと思うけど」
「休憩は何時間取りました?」
「昼飯食べたから、三十分くらい」
「じゃ、片平さんの働き方、違法ですね」
「えっ」
がたっ、と拭いていたテーブルに彼の動揺が音を鳴らすと、驚きと共にこちらを振り返った。私はいたずらをする子供のように笑う。
「冗談。片平さんは自営業だから平気」
「……驚かすなよ」
まったく、と小声で呟きながら片平さんはまたテーブルを拭き始める。私はまだにやにやしていた。
「でも片平さんはほんとに働きすぎ! 体壊しても知らないですから!」
「俺すげえ体強いから」
何を得意げに~、アラサーのくせに~。なんて年上をからかってみるけれど、片平さんはせかせかと掃除を続ける。冗談交じりに言ったけれど、片平さんは人並外れて仕事をしている。朝早くから開店準備と料理の仕込みをしたかと思えば、閉店後は夜遅くまで熱心に季節限定のメニューを試行錯誤して、また次の日の朝はけろっとした顔でお客さんにコーヒーを淹れている。片平さん曰く、好きな事は無限に出来るらしい、なんて、そんな奴いるかーい。
閉店作業が終わると片平さんは今日も厨房にこもって幾つかの食材を並べて吟味している。私はいつものようにテーブル席を借りて、鞄から分厚い参考書の束を取り出した。この時間はなんだか特別な空気が店内に流れている気がする。新しいメニューを生み出そうとしている片平さんと、何度も読みこんだ参考書から少しでも何かを得ようと試みる私。二人ともやがて会話をしなくなり、自分の世界に集中する。人生の中で、何か一つの事で頭の中を一杯に出来るなんて、実はけっこう幸せなことなのかもしれない。
去年、一昨年と採用試験に落ちた私だけれど、勉強自体は好きだ。労働法はもっとも身近で、誰かのためになる法律だと私は思っていて、それを学ぶことは何よりも興味深かった。でもそれを仕事にするには、どうしても試験を突破して労働基準監督官として採用を勝ち取りたい。勉強していて楽しいと感じるところを、人の役に立って嬉しいに変えたいんだ。
私がペンを走らせる音と、片平さんがボウルをかき混ぜる音が交錯する。ゆっくりと、ゆっくりと、長い夜が深まっていった。
*
「澪ちゃんしばらく来ないのか、寂しくなるねえ」
「まあまた試験終わって落ち着いたらフツーに戻ってきますけどね~」
常さんはいつも決まって日曜日の十時に店に来て、コーヒーとピザトーストを頼む。このお店の常連さんだから、常さん。本名は松井さん。
「今年は受かるといいね」
「任せてくださーい」
常さんのコーヒーから店一杯に香りが広がる。読んでいる文庫本を一度閉じて、左手にマグカップを持つ。一口目は両目をうっすら閉じて、ゆっくりと口を付ける。口の中で焙煎されたコーヒーの香りを十分に味わってからまた文庫本に手を掛ける。常さんのルーティーンが、この店に日曜日の朝を感じさせる。
「松井さん、これ、食べてみてください」
常さんがピザトーストを食べ終わったタイミング、コーヒーが残り三分の一になるころに、片平さんは白い皿を一つ、常さんの手元に置く。真っ白な皿の上には綺麗に盛り付けられたフルーツタルトがきらきらと輝いていた。いちごとブルーベリーと角切りにされたメロンが、綺麗なシロップでつやつやしている。
常さんはフォークを手に取ると、視覚と味覚と嗅覚を全部使ってそれを口に運んだ。
「美味いよ。この店のコーヒーに合いそうだ」
「でしょ」
「新メニューにするのかい?」
「いや、原価が高すぎて無理ですね」
片平さんは楽しそうにそういうと次のお客さんのコーヒーを淹れ始める。
昨日の夜に作っていたのはこのフルーツタルトだろうか。というか新メニューじゃないんかい!
常さんは残りのコーヒーをもう一度飲んだ。フルーツの甘さとコーヒーの苦さが滞りなく入れ替わる。
「やっぱり合うよ。美味い美味い」
片平さんは得意気な顔をして常さんの方に目配せをした。試験前、私が最後に出勤した日の朝の事だった。
*
めぐる月日と私は、誰の手も届かないレースを繰り広げる。試験勉強というものはいくらやっても十分に感じることはない。私が自信を持つのが先か、試験が私の背中を捉えるのが先か。誰にも明確な勝敗が分からないレースだ。
試験が来週に迫る頃には流石にバイトは休ませてもらっていた。もう毎年の事になりつつあったので片平さんも許してくれる。元々そんなにお客さん多くないし、と言ったら以前、片平さんがめずらしく「うっせーな」と言ってちょっとヘソを曲げたのが懐かしい。最初に試験を受けた時だから、もう二年も前の事だ。
『労働基準法に関する次の記述のうち、最も妥当なのはどれか。』
何百回も解いてきた問題文。五つの記述を落ち着いて見比べればほら、答えにたどり着く。
私は二年前から、年齢しか成長していないけれど、私が参考書に向かい続けた二年間は無駄じゃない。
時計を見る。朝からぶっ通しで勉強を続けて、もう二十時になろうとしている。こりゃあ私も片平さんの事を言えませんなあ、と一人で笑ってしまいそうになった。
二十時を知らせるアラームが鳴り始める。よく店で流れている、片平さんが好きなインストのバンドで、派手さはないけれどピアノとフルートの旋律にドラムスと弦楽器の調和がとても落ち着く曲だ。片平さんは音楽なんか全然詳しくなさそうなのに、自分の好きなものをちゃんと理解しているんだろうなと思う。
私は机から離れて置いていたスマートフォンに手を掛けた。アラームを切ると画面に今日一日の通知が表示される。芸能ニュースの更新記事。明日の天気予報。iOSのアップデートのお知らせ。そして、夜ちゃんからLINEが届いている。
『試験ファイトです!』
過不足の無い素直な彼女らしい一文と、猫のスタンプが私を応援してくれている。
夜ちゃんだけじゃない。片平さんも、常さんも私を応援している。私は決して一人じゃない。
だから今年こそ、きっと大丈夫だ。
*
期待と不安をごちゃ混ぜにして、待ちに待っていた六月十日はあっという間に終わりを迎えようとしている。夏はもうすぐに迫っていて、帰り道の私とすれ違うように、夏服を着た高校生たちが足早に歩いて行った。彼女たちはいったいどこに向かって歩いているのだろうか。私の頬を掠めていく夕方の風は、きっと彼女たちの髪を撫でていく南風とは別物だ。彼女たちの背中を押す風は、私に対しては真っすぐに向かってきた。
また負けた。と思う。たぶん。
去年の私では解けなかったであろう問題が解けた。記述も選択式の基礎能力試験も、この一年で身に着けた知識を書くことが出来たと思う。でもそれと同じくらい、逆立ちをしても正解の自信が湧いてこない問題がたくさんあった。
どれだけ勉強しても、私の精一杯なんて、なんてちっぽけなんだろう。そう思うと、柄にもなく泣いてしまいそうだった。
夕風に身を削られながら歩いていくと、バイト先の店の前に近づいてしまう。窓ガラス越しに、何人かのお客さんと、彼らにコーヒーを淹れている片平さんの姿が見えた。
だめだ。
今の私には、みんなに合わせる顔がない。
今日の試験は、そんな僅かな勇気さえ私から抉り取って行った。
私は踵を返して店の前から離れ始める。明日からどうやってお店に行こうか。いっそ開き直ってしまって馬鹿笑いしながら働こうか。なあんて、私はなんて惨めなのかしら。
段々と沈んでいく夕日。遠ざかる店の明かり。
それと反比例するように、近づいてくる足音が一つ。
「澪さん。試験おつかれさま!」
夜ちゃん。
なんでこんな私に声を掛けるんだよ。
「良かったらこの後、飲みに行きませんか?」
*
「お店で待ってたら澪さんに会えるかなあと思って!」
夜ちゃんは柄にもなく最初にハイボールを頼んで、今まで見たことのないペースで飲み始めた。ビールを口に付けると、私の中の情けなさが泡になって沸々と染み出してくるようだった。後輩に気を使われちゃって、だっさいな、私。
「夜ちゃん、結構お酒飲めるんだね」
「今日は飲んじゃいますよ~!」
夜ちゃんは二杯目のレモンサワーを飲みながらたこわさを食べる。ゼミの飲み会ではカルピスサワーか甘めのカクテルしか飲んでるイメージが無かったので意外だ。夜ちゃんの知らないところもいっぱいあるんだな。それとも、最近になって飲めるようになったのだろうか。後者ならそれは、夜ちゃんはこの二年間で私の知らない成長をしているということかもしれない。
「澪さん! 澪さんも遠慮なさらず飲んでくださいね!」
「夜ちゃん、もしかしてもう酔ってる?」
ちょっと顔の赤くなった夜ちゃんがだし巻き卵を頬張る。小さな手に似合わないレモンサワーのジョッキを左手に握って。夜ちゃんはきっと私を元気づけようとしてくれているんだ。
なのに私は、元気を取り返す元気さえ、失っている。
「夜ちゃんってさ」
「はい!」
お酒を飲むと自分がいかに駄目な奴かを思い知らされる。
自分で自分の言った言葉に対して、後悔と反省でがんじがらめだ。
「高校の時、吹奏楽部だったっけ?」
「そうです!」
「吹奏楽、面白かった?」
「面白いですよ! やっぱり楽器吹くのは好きでした!」
お願いだよ私。これ以上、私に自分を嫌いにさせないでくれ。
「夜ちゃん、吹奏楽なんで辞めちゃったの?」
大好きだったくせに。
最低な台詞が喉元まで出かかって、あと僅かのところで収まった。
夜ちゃんはもう一口、レモンサワーを飲み込んだ。私は冷や汗をかきながらテーブルに目線を下げている。夜ちゃんのお皿のわさびの匂いが、私を追い詰めているようだった。
「私、妹がいるんですけど」
夜ちゃんはどこにも目を向けずにそういう。限りなく無機質に近い声で。
「妹も吹奏楽をやってたんですよね。しかもかなり吹部の強い高校で」
私はそっと顔を上げる。夜ちゃんは口元だけ笑いながら、グラスの縁を右手の人差し指でなぞりながら言った。
「なんか、比べられるのとか嫌で! すぱっと辞めちゃいました!」
何度試験を受けても報われない自分を棚に上げて、この日、私はきっと、夜ちゃんを傷つけてしまった。
*
夜ちゃんと別れた私は一人夜道を歩いて帰っていたはずなのに、どうして。いつの間に、お店の前にたどり着いてしまった。相変わらず閉店後なのに電気はついていて、片平さんが厨房で何か料理を作っている。私は意を決して、扉を開けて店内に入った。
「お、あれ? あの子は一緒じゃないの?」
私は何も答えない。片平さんもこちらを向かず、フルーツを包丁で切り続けている。
「お前、試験終わったら店に来そうだからって、あの子昼間っからずっと待っててさ、そんでお前が店の前まで来といて帰っちゃうもんだから、澪さんと飲みに行ってきますって言ってさ。良い後輩だな」
知っている。夜ちゃんはきっとずっとここで私を待ってくれていた。最後まで私を応援してくれて、私に寄り添ってくれて、私を励ましてくれていた。何かをやり続けるのは大変なことだ。しかも、人の成功を願うという事は。
私は自分の夢でさえ挫けてしまいそうなのに。投げ出してしまいそうなのに。諦めてしまいそうなのに。
「片平さんは、なんでそんなに毎日頑張れるんですか?」
「別に頑張ってるつもりはあんまないんだけど」
「好きな事でも、続けるのって、しんどくないですか?」
「んー」
片平さんは、ほんの短い間、手を止めてくれた。
「最近、年下の奴が頑張ってると、俺も頑張ろうって思えるんだよね。昔は嫉妬とか、負けねえとかって思ったりしたけど、最近は何か、そういう奴が頑張ってるんだから、きっと俺もまだ頑張れるって思うんだよね。なんか、お前みたいなやつがいるとさ」
とんとん、とフルーツが刻まれていく。
まるで、夜が深まっていく音みたいだ。
夜ちゃんに謝らなきゃ。
こんな私を想ってくれる後輩に、許してもらえなくても、ちゃんと謝らなきゃ。
その時、私のスマートフォンに、一本の電話が掛かってくる。
画面には、『夜矢琴子』と表示されている。
「夜ちゃん!」
私は電話を取って声を張り上げた。
「夜ちゃん、さっきはごめん! 酷いこと言ってごめん! 応援してくれてたのに、本当にごめん!」
私はすがりつくように言葉を続ける。
電話越しの夜ちゃんは、私の言葉を遮る様に、大きな声で言葉を放つ。
「澪さんは絶対受かるよ! 絶対受かる! 絶対に受かる!」
酔っぱらった夜ちゃんの力強い声援が、私の耳から全身に響く。
私は溢れた涙を止める方法も分からないまま、膝から崩れ落ちて泣いていた。
*
「てゆうかお前、結果発表の前に絶対落ちたとか、どれだけ自信なかったんだよ」
うるっさいなこの男は! そりゃ確かにそうですね! 結果発表されるまでが試験ですもんねはーいすいませーんでした! 勝手に試験の出来に落胆して後輩に八つ当たりして夜中の店内で号泣した女はこの私ですけど何か!?
七月三日の朝九時に一次試験、こないだの試験の結果が発表される。あと五分。自信はないけど、自信は本当にないけど、夜ちゃんの言葉が、私の背中を支えている気がした。
「ほら、九時!」
「分かってますよ!」
片平さんに促されてスマートフォンで結果を確認する。少し震える指を、一度深呼吸して落ち着かせてから画面に触れる。
……。
……。
「……受かってる……」
画面を何度も確認する。受かってる。うそ? ほんとに?
「片平さん!」
と、振り返った私の前のテーブルに、真っ白い皿が一つ置かれている。
皿の上には、色鮮やかの、フルーツタルト。
「おめでと。非売品だぞ」
「片平さーん!」
私は片平さんに抱き着くように飛び掛かる。片平さんは右手を伸ばして私の頭をがっつり抑え込む。
「お前! これで二次で落ちたとかシャレになんないからな! てか離れろ!!」
「片平さーん! やったよぉ! やったよぉ〜!」
開店前の店内。私と片平さんの大声のすぐそばで、フルーツタルトが朝日に照らされてきらきら輝いている。
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