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6♭ 夜矢 聡子 よるや さとこ
目覚ましのアラームが私を叩き起こすと、眠い目を擦りながら制服に着替える。中学生の時には心から憧れていた三高の制服も、袖を通して見れば中学のそれと大して変わらない。六時台に出発する電車に乗り込む生活にもすっかり慣れてしまった。
着替え終わって部屋を出ると、リビングでお姉ちゃんが朝ごはんを食べている。寝間着にしているTシャツ姿のまま、ぴょこんと寝癖を立たせたままで。
「おはよう」
「……おはよ」
私の通う高校は最寄り駅から電車で五十分。お姉ちゃんは地元の公立校だから自転車で十五分。そのくせ、お姉ちゃんは毎朝、嫌みなほど早起きだ。
テレビから流れる朝のニュースを聞きながら、お姉ちゃんはバターだけ塗ったトーストに噛みつく。小麦粉の塊が咀嚼される音がぎこちない。高校生になってから、私は家で朝ご飯を食べなくなった。朝ご飯に費やす時間をぎりぎりまで遅くまで眠るのに使うようになったからだ。
お姉ちゃんはトーストをゆっくりと食べながら、眠そうな目でお皿に落ちるパンのくずを見つめる。私はリビングを通り抜けて玄関に向かう。お姉ちゃんと私の二つのローファーが並ぶ。どちらも同じサイズなのに、つやの出方が異なっている。私は左足を突っ込むように中に通した。お姉ちゃんはほんの短い時間、私の方をちらっと見て、それからまた一口、トーストに噛みついた。
玄関の扉を開けると腹立たしい朝日が差し込んでくる。
視界に入る全部が全部、不愉快に感じる朝だった。
*
ピアノを習い始めたのは私の方が先だった。小学校に入る少し前、駅前のツリーの下でピアノでクリスマスソングを弾いていた女の人が、これまで見た中で誰よりも美しいと思ったからだ。幼心に、私もいつか音楽を奏でる人になりたいと思った。ピアノ教室に通い始めた私は、先生に褒めてもらいながら色々な曲を覚えた。新しい曲を弾けるようになるたびに、まるで知らない景色を見ているみたいだった。
ピアノ教室の中で、本当に小規模だったけれど、練習した曲の発表会があった。私が八歳の時で、私はショパンを弾いた。発表会のために練習してきたその曲はこれまでのどの演奏よりも上手に引くことが出来た。発表会を見に来たお母さんとお姉ちゃんも沢山褒めてくれた。特にお姉ちゃんは、珍しく早口で、興奮しながら、凄かったよって、何度も褒めてくれた。
お姉ちゃんがピアノを始めたのは、その後少ししてからの事だ。二歳年上のお姉ちゃんは、私より遅れて、初めて音楽に触れた。初めは譜面も読めなくて、どの鍵盤を押せばドの音が鳴るかも分からなくて、私が得意になって教えてあげた。私が誕生日におねだりして買ってもらったキーボードをお姉ちゃんに貸してあげたら、お姉ちゃんはいつも楽しそうに鍵盤を叩き続けた。
お姉ちゃんがピアノのコンクールで賞を取ったのは、それから一年後の事だった。
*
「いま朝飯食うのかよ」
「だってお腹すいちゃうもん」
「わかる~あたしもお腹すいた~」
「家で食って来いよ」
「そんな時間ない。何時に起きてると思ってんの」
朝練が終わった私は朝から購買で買い込んだメロンパンの封を開けた。バターの香りが教室に広がると、後ろで話していた杏奈と修平が私に絡んでくる。杏奈はホルン。修平はトロンボーン。うちのクラスに私を含めて吹奏楽部が三人いて、一年生は全部で十三クラス。クラスごとの偏りはあれど、一年生だけで四十二人の部員が吹奏楽部に所属していて、三学年合わせればその数は百人近くになる。
入学式の後に行われた吹奏楽部の新入生歓迎演奏会で、初めて在校生として、三高の演奏を聴いた私は一気に鳥肌が立った。中学生向けの学校説明会や学園祭の定期公演で聞いた、楽しさや華やかさを前面に押し出した演奏とは全く異なる、「強い」演奏。背筋を伸ばさずにはいられない、強豪校の演奏だった。
お前たちが入ろうとしているのは、三高の吹奏楽部だぞと、中学生気分の抜けない私たちに突き付けられたような気がした。
「聡ちゃんメロンパン好きだよね~」
「メロンパンが一番太るらしいぞ」
デリカシーないね~。別に無くていいと思ってるから。杏奈と修平が話している前で私はメロンパンを食べ続ける。太ったって別にいい。今私が欲しいのは今日一日を過ごし切るためのエネルギーだけだ。
チャイムが鳴ると、やがてホームルームに担任がやってくる。私はすんでのところでメロンパンを食べ終わったけれど、包装のビニール袋が机に広がったままだった。
「夜矢、ゴミくらい捨てとけ。あとネクタイ、ちゃんと上まであげろ」
私はビニールをぐしゃぐしゃに丸めて鞄に突っ込んて、ネクタイをがっと上にあげる。
うるっさいな。
ネクタイをきっちり締めたら、私の人生なんか変わるわけ?
*
「お疲れ!」
「あ、お疲れ様です」
奏先輩はポカリスエットを飲みながら私の隣に座った。木管のパート練に使っている第二音楽準備室は春と夏の交わった暑さで満ちていて、私はタオルで汗を拭っていた。十分間の短い休憩時間は唯一、先輩たちの高校生らしい一面が見られる気がする。木管のパートリーダーの奏先輩はオーボエを担当していて、そしてこの吹奏楽部の副部長だ。
吹奏楽コンクールの地区大会がもうすぐ近づいている。三年生の奏先輩は夏に吹奏楽部を引退するから、私たち一年生もメンバーに加わって演奏するこの大会が一緒に全国を目指せる最初で最後の機会になる。奏先輩は黒縁の眼鏡を外して、暑そうにタオルで汗を拭ってから、もう一口ポカリスエットを飲んだ。
「聡ちゃん、ここの入りめちゃくちゃ丁寧だったよ!あたしそんな音出せないわ~」
「そんなことないですよ」
「でもその次のところはもっとガツンといかないとだめだね。負けちゃうよ?」
「負けるって何にですか」
「なんだろね? 自分?」
奏先輩は眼鏡を掛け直してそう言う。オーボエをポカリスエットに持ち替えた奏先輩は、いかにも普通の十八歳だった。
「次合わせる時、意識してみて!騙されたと思ってさ!」
「はい。ありがとうございます」
奏先輩は立ち上がると手を叩いて練習を再開させる。私も立ち上がってフルートを持ち直す。パールのフルートはその名の通り、真珠色に艶やかに輝いている。
一瞬の沈黙の後、呼吸を合わせたように始まる合奏。
入りは丁寧に。次はガツンと。
一小節に熱意を込めて、一息に音を鳴らす。
「聡ちゃん! その感じ!」
同じ高校生とは思えないけれど、奏先輩のその楽しそうな表情は、誰よりも高校生らしいと思った。
家に帰る時間が二十一時を過ぎる生活にも慣れてしまう。
両親とは特別仲が悪いわけではないし、仲が良いわけでもない。高校生とその親なんて、みんなそんなもんでしょ。
お姉ちゃんは私より早く帰ってきていて、もう夕食を終えたのか、仕事で疲れたお母さんの代わりに食器を洗っている。両親想いで、家族想いのお姉ちゃんは、私にも優しくあろうとする。冷たい水に利き手の指を漬けて、スポンジを泡立てて皿を洗う。
中学生になったお姉ちゃんは吹奏楽を始めて、ピアノからフルートを演奏するようになった。その頃にはお姉ちゃんの周りにはたくさん友達がいて、いつも誰かと一緒にいた。フルートを練習し始めたお姉ちゃんはやっぱり最初は指の動きに戸惑っていたけれど、楽しそうに練習しているうちにその音色は美しさを増していった。一方の私はどれだけ練習しても、ピアノコンクールで金賞は取れない。小学生の女子が何を言ってるんだと思われるかもしれないけれど、どれだけ練習しても、だった。
私の中学の入学式、吹奏楽部の公演でお姉ちゃんはフルートのソロを演奏した。お姉ちゃんの音が体育館に響くと、隣の生徒がぐっと息を呑む音が聞こえた。名前も知らない一人の中学生が、お姉ちゃんの演奏に心を動かされた瞬間を見てしまった。お姉ちゃんはいつも、自分の事を普通だって言う。でもお姉ちゃんが普通だったらさ、妹の私は、一体なんなんだろうね。私よりずっと、才能があるくせにさ。
お姉ちゃんと同じ吹奏楽部に入った私は、お姉ちゃんと同じフルートを手に取った。自分の意志で、私はフルートを手に取った。
「お、やっぱり姉妹で同じ楽器を選ぶんだな! 君も夜矢みたいになれるよ!」
そう言った顧問の笑顔を思い出すたびに私の胸の奥は黒ずんでいく。
私がフルートをやりたいと思った気持ちは、お前なんかには一生分からない。分かってたまるか。
「一緒にがんばろーね! 聡子!」
お姉ちゃんは嬉しそうに笑顔を向ける。
私は、あんたに勝ちたくてフルートを始めたんだ。
*
「そこはさっき言ったじゃん。出来てたじゃん。なんで次を直そうとしたら元に戻んの?」
隣のクラスの渡邊さんに二年生の先輩の厳しい言葉が降りかかる。たった一つしか歳が変わらないのに、どうしてこうも私たちは何も出来ないんだろうと思い知らされる。先輩の言葉はどこまでも正論だから、鋭く渡邊さんの心を貫いていく。
「練習は積み重ねだから、重ならないと力になんないから」
全パートの合奏練習には杏奈と修平の姿もある。杏奈は渡邊さんが叱られるのを横目に見ながら、譜面を次のページに捲っている。修平はちらりともそちらを見ずに自分のマウスピースを拭いた。私はぼんやりと渡邊さんの方を見ながら、奏先輩から受けたアドバイスを頭の中で唱え続けている。
「練習は嘘を吐かないって言うけど、頭を使わないと簡単に嘘を吐くと俺は思う」
渡邊さんは今にも泣き出しそうな表情をしている。私は彼女の姿を見ながら、この先輩の言う事は正しいと思った。練習は簡単に嘘を吐く。何かを頑張っている人にとって、これほど残酷な言葉はない。
私も渡邊さんから目を離して、再び譜面に目線をやった。
ごめんね。でも私たちは、優しくされたくてこの学校に来たんじゃないでしょ?
渡邊さんも潤んだ瞳をごしごしと拭って、もう一度クラリネットを構える。こちらを向くように立っている先生が合図をすると、五十五人が一斉に先生の方を向いた。
地区大会まであと二週間に迫った日曜日、本番で実際に演奏を行う芸術劇場の大ホールを借りての練習は、ぴんと張り詰めた緊張感が常に満ちているようだった。普段はいつでものんびりしている奏先輩も、ホールに足を踏み入れると背筋を伸ばしていた。
「毎年地区大会はここのホールなんだけどさ、何度来ても緊張するんだよね~」
「分かります」
「聡ちゃん、ここで演奏したことある?」
「いや、私はないんですけど、姉がここでピアノを弾いたことがあって」
「そうなんだ!」
お姉ちゃんがこのホールで演奏したサティは、一切の汚れや濁りのない澄み切った曲だった。聴く人の耳ではなく、頭の奥底の方にすっと響くような曲だった。そして私がどれだけ練習しても、お姉ちゃんのように引けなかった曲でもある。
ピアノも、フルートも、お姉ちゃんと同じ曲を演奏しているはずなのに、全然お姉ちゃんと同じ音が鳴らない。どうしても優劣を感じてしまうのは、この先どんな人生を歩んでも、私は彼女の妹だからだと思う。妹でなければ、自分の事をもっと好きでいれたのかもしれない。
もしくは、お姉ちゃんのことをもっと好きでいれたのかもしれない。
「あたしもここでピアノ弾いたことあるよ〜小学生の時だけど」
「えっ」
「あたしは銀賞だったんだけどね! その時の金賞だった時の子がめっちゃ上手でさ。あたし人の顔は覚えられないんだけど、聞いた曲はずっと耳に残ってるのよね」
また、胸の奥が黒ずんでいくようだった。
「それ、もしかして私のお姉ちゃんかも」
「ほんとに? すごい偶然!」
私よりずっとすごい奏先輩が、すごいと思っているのは、お姉ちゃん。
頭に浮かんだ言葉をなぞる様に唱えた時、このホールの果てしない広さと、どうしようもない孤独感が私の胸を抉った。
*
朝のニュースを見ているのか見ていないのか、眠そうにトーストを食べるお姉ちゃん。
隣の県で十歳の男の子が行方不明になった、と顔立ちの整ったアナウンサーが述べる。親は心底悲しんでいて、キャンプの途中で目を離してしまった事を後悔していると言って泣いていた。お姉ちゃんは無表情でトーストを食べ進める。
朝ご飯を食べている時のお姉ちゃんは、一日の中で一番お姉ちゃんらしくない。優しく笑ったり、のんびりとした表情をしたり、そう言うお姉ちゃんの柔らかさが最も少ない瞬間だと思う。朝起きるのが辛いなら寝れてばいいのに。なんて、私には関係ないけど。
「いってらっしゃい」
いってきます。
私はお姉ちゃんのところまで絶対に届かない声量で返事をする。
朝練終わりのメロンパンを食べている私に修平と杏奈が話しかけてくる。メロンパンの封を切るとバターの香りが広がる。一日の始まる香りだ。
「渡邊、部活辞めるらしいぞ」
修平は相変わらずのデリカシーの無さでそう言った。杏奈はちょっと寂しそうにしている。杏奈は渡邊さんを含め、みんなと仲がいいもんね。
「そうなんだ、寂しいね」
「うん、あたしも寂しい……でも辞める理由は人それぞれだから。その気持ちは誰にも共有できないよ」
杏奈は寂しそうな顔をしながら、しかし凛としてそう言った。偏見だけど、ホルンにはしっかりと地に足を付けた人が多い気がする。寂しい気持ちには寄り添うけれど、それで自分を見失ったりはしない。
「そんなことよりお前ら、ちゃんと仕上げて来いよ」
「そんなことって、ひど。あんたこそ、見てろよって感じだよ」
大会は今週末に迫っている。修平の言葉を聞けば私たちは、辞めてしまった渡邊さんよりも、自分の事に精いっぱいにならなければならないと実感した。
チャイムがなったのでもうすぐ先生が来る。私はメロンパンに被りつきながら、クラリネットを吹いている時の渡邊さんを思い出した。
必死にやっても、報われないこともあるよね。
彼女の悔しい気持ちを噛み潰すように、メロンパンを食べた。
*
地区大会は幾つかの日程で行われ、沢山の高校の吹奏楽部が一同に会する。と言っても私たち三高の吹奏楽部はたぶんどこの学校よりも人数が多いから、きっと誰もがこちらを見ていると思った。高校三年生はこの大会で引退する人もたくさんいるんだろう。一年生の私はその人たちの想いを尊重したうえで、絶対に負けない。私たちの演奏が、沢山の高校生たちの夢を終わらせるんだ。
沢山の人の中を奏先輩は背筋を伸ばして歩いていく。黒縁の眼鏡の奥には、三年間積み重ねた努力と、少しの自信に満ちた瞳がきらきらしていた。私はその後ろを歩いた。出来る限り背筋を伸ばして、自信に溢れたように歩いた。
「聡子!」
と、名前を呼ばれた私は足を止めてそちらを振り向く。
その声の主を私は、顔を見ずとも分かっている。
「がんばろーね!」
「お姉ちゃんもね」
私は口元を緩めてお姉ちゃんに言葉を返す。お姉ちゃんはいつものように柔らかく笑って手を振った。私はきっと、彼女のように上手に笑えていない。
「聡ちゃんのお姉さん?」
奏先輩がこちらを振り返って尋ねる。
私は早足で歩き続けたので、いつの間にか、奏先輩の前を歩いていた。
「そうです」
今日、私はお姉ちゃんに勝つ。
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