6♯ 夜矢 聡子 よるや さとこ

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6♯ 夜矢 聡子 よるや さとこ

     プログラム三番、お姉ちゃんの学校の演奏が始まろうとしている。      一校に与えられた時間はごくわずかで、この短い時間が、きっと高校生活の全ての集大成になる。その空気を吸い上げて纏ったように、演奏前のホールには静謐な時間が流れる。      お姉ちゃんの学校はあまり吹奏楽が強いと聞いたことはなかった。部員数もたぶん私たちの三分の一くらいしかいないし、顔を知っているような有名な人ももちろんいない。      お姉ちゃんは大きなホールの中央よりやや下手側。一番前に背筋を伸ばして座っている。ゆっくり目を瞑って深呼吸をした後、ぱっと目を開いた。長く伸びた睫毛が、艶やかに上を向いている。     「楽しみだね、お姉さんたち!」 「そうですね」      隣に座る奏先輩が嬉しそうに言う。期待に満ちたように奏先輩は、姿勢を正して耳を澄ました。指揮者が両手をすっと上げるのと同時に、この空間にいる全員の視線が一斉に指揮者に集中する。      はじまる。  お姉ちゃんたちの演奏が。  三年間の集大成が。      指揮者が両手を振り下ろす。      ゆっくりと、静かに音が立ち上がる。  ピッコロとお姉ちゃんのフルートが、鳥のさえずりのような音を鳴らす。      金管楽器がその音を追うように低くメロディを奏でる。ゆっくりと進む曲に、丁寧さと、少しの緊張が伝わった。      表情の硬いユーフォニアムの女の子は私と同じ一年生だろうか。ミスしない、という緊張した音を、上級生と思われる男子が上手く溶かして柔らかい音に変える。トランペットとトロンボーンは少し粗削りだけれど、この舞台に立っている事を誇らしむように強く音を響かせる。そしてお姉ちゃんのフルートは、決して自己主張せず、まるでそれぞれの音に寄り添っているようだ。      上手い、確かに。      そう思ったのが最初の印象。そしてすぐ、また胸の奥が黒ずんでいく。      上手いけど、この程度?      曲調が変わると、オーボエとフルートが表立ってメロディを奏で始める。お姉ちゃんは珍しく緊張しているのか、けれども楽しそうに吹き続ける。私たちより遥かに少ない部員数、恐らく経験値や受けてきた指導の質も違う普通の公立校。奏でる音は楽しそうで、嬉しそうで、少し切なそうで。      でも私の心の深い部分には、何にも響かない。      クラリネットとトランペットの威勢のいい音を皮切りに、曲はその熱を高めていく。どの楽器も凛として、集大成を飾ろうと音を響かせ続ける。緊張していたユーフォニアムの一年生も楽しそうに吹き続けていて、その感情を知ってか知らずか、お姉ちゃんのフルートにも温かさが宿る。まるで、楽しく吹くのが一番みたいな、そんな演奏。      私がずっと負かしたかったのは、この程度の演奏なのかよ。  なのに何で、そんなに楽しそうに吹いているんだよ。      重なり合った楽器たちの音の余韻をホールに残したまま、曲は終わった。  客席中に響く拍手。奏先輩も満足そうに目を輝かせたまま、大きな拍手を鳴らした。  最前で座っているお姉ちゃんは、達成感に満ちた表情を浮かべている。      きっとこのホールで唯一、私だけが、歯を食いしばっている。     *      プログラム八番、私もお姉ちゃんと同じく下手側の最前列、木管パートの位置に座る。初めて立つこのホールの舞台上はもっと、とても広く感じるものだと思っていた。いや、実際にはすごく広いはずだけれど、そんなどうでもいいこと考えるほどの頭の中の余裕はなかった。      なんだよあの演奏。    いや、だめだ。今は自分の演奏に集中しろ。  頭の中で、目の前の今に集中することに、躍起になる。      前の学校の演奏が舞台上に残していった余韻と感動を、三高の緊張感が綺麗さっぱりと拭い去っていく。  指揮者が両手を構えると同時に、この空間から一切の音が消える。        そして、私たちの演奏が、始まった。        すっ、と一息を吸い込んだ西村部長が、雄大に、丁寧に、トランペットを吹く。      きっとこの一吹きで、この場にいる高校生の大半が、全国への夢を諦めることだろう。      追いかけるように鳴ったパーカッションの音と、金管のメロディがこの曲を立ち上げる。ホールを支配する三高の演奏は、紛れもなくあの時聴いた、強い演奏だった。そして今は、私もその中の一人になっている。      目を閉じたくなるようなメロディの奥底で、金管の高音が感情を激しく揺さぶる様に舞台上をかき乱す。  この曲はまるで私の心だ。  心の奥の何か黒ずんだ想いをさらけ出しているようだ。フルートを持つ手に段々と力が入ってくる。      先生の指揮が一気に勢いを増す。曲はその雄大な音を、悲しみと憎しみの鎮魂歌に変えていく。  パーカッション、トロンボーン、ホルン、クラリネット、トランペット、コントラバス。  加速した音はまるで、歯止めが利かなくなった感情を表すようだ。      私は力強く音を鳴らし続けた。      どこにも向かわない怒りを、フォルティッシモにぶつけるように。  ありったけの失望を、クレッシェンドに乗せるように。      パートのバランスが乱れないよう先輩たちがフォローしてくれている。だけど私はもう、溢れた感情の止め方が分からない。止める気も、更々ない。      限界まで鋭さを増した曲は、やがて厳かな調和にまとまっていく。その中心にいるのは、オーボエの大らかなソロパートだ。      奏先輩。  どうしてお姉ちゃんをあんな目で見るんだよ。  奏先輩の方が凄いじゃん。  私たちの方が凄いじゃん。      曲は終わりに向けてもう一度加速する。  私以外の五十四人は一斉に足並みを揃えて駆け出していく中、私だけがきっとゴールを見失っている。      勢いを増した曲は、やがてこのホールの全てを飲み込んで、幕を下ろした。         「お前、どうしたんだよ」 「何?」 「いや、何つーか、凄かったから」 「別に、あんたに認められたくてやってるわけじゃないんだけど」      演奏後に声を掛けてくれた修平の言葉を、気づけば私は、力強く振り払っていた。     *      私たちの学校もお姉ちゃんの学校も、金賞を獲得した。でも私たちは代表に選ばれて、お姉ちゃんたちは代表にはなれなかった。私たちは県大会に駒を進めて、お姉ちゃんはこの日、吹奏楽部を引退した。      勝った。結果的には。      月曜日の朝は憂鬱だ。目を覚ますのに使う労力が他の曜日と比にならないほど多いと思う。眠い目を擦りながら袖を通した制服は、今日もネクタイが緩くぶら下がっているだけだった。     「おはよう」 「おはよ」      お姉ちゃんは相変わらず眠そうなままトーストを齧る。昨日の大会で部活を引退したお姉ちゃんは、今日も馬鹿みたいに早起きだ。お姉ちゃんはこれから先、フルートを続けるのだろうか。吹奏楽を続けるのだろうか。音楽を続けるのだろうか。      テレビでは朝のニュースが流れ続けている。こないだ行方不明になった十歳の男の子が見つかったらしい。キャンプ場で山道を一人で進んでいて、迷子になったところを保護されたそうだ。テレビでは優しそうな両親が安心したようにインタビューに答えた。返って来てくれてよかった。自己満足な表情でそう話していた。     「たぶん、もう続けないと思う」      不意を突かれたように、私の耳に、言葉が刺さる。  と同時に、心臓を掴まれたような感覚だった。     「吹奏楽」      お姉ちゃんの声は、今まで聞いた中で一番低い声で言葉を口にした。     「……あっそ」      私はローファーに足を突っ込んで家を出る。私は子供だ。いつまでも駄々をこね続けている子供だ。だけど私はまだ、大人になる方法を知らない。  玄関の扉を勢いよく開けると、今日も不快な朝日が差し込んでくる。きっと私は、何にも勝ててないんだと思った。        朝練が終わった後の廊下は、登校し始めた生徒たちがばらばらと歩いている。狭い廊下を歩いている男子の鞄が私にぶつかった。あ、悪い。そう言って消えていったそいつの背中を、気づけば私は睨みつけて舌打ちをする。     「荒れてんな」 「聡ちゃん、なんかあった?」 「ないよ。何も。なんで?」      修平と杏奈の心配を他所に、私は朝のお姉ちゃんの言葉を頭の中で繰り返す。  辞めたければ勝手に辞めればいいのに。何に私はこんなに腹を立てているんだ。      登校してきた一人の生徒が目に留まった。彼女は私たちに気が付いたのか、少し気まずそうに離れて歩いている。     「渡邊さん」      私は渡邊さんに声を掛けた。吹奏楽部を辞めた、渡邊さんに。     「おはよう」 「あ、おはよう」      杏奈と修平も渡邊さんと挨拶をして、わだかまりなく話し始める。代表おめでとう。ありがとう。当然だろ。頑張ってね。クラリネットを持っていない渡邊さんの言葉は、何を言っても薄っぺらく感じた。     「渡邊さんさ」 「うん」 「なんで吹部辞めたの?」      騒がしいはずの廊下が、一瞬、静まり返ったような気がした。     「どういう気持ちで辞めたの? ねえ? 教えてよ!」 「おい!」      修平が私の肩を強く掴む。杏奈は驚きと失意の目を私に向けている。     「……音楽が嫌いになる前に、辞めて良かったかな」      渡邊さんはそう言うと、足早に私たちの隣の教室へ入っていった。遠ざかる背中を、私はじっと見つめていた。     「……お前、デリカシーねえんだな」 「……あたしも修平と同じこと思ってるよ、聡ちゃん」      二人は、私を永遠に置いていくかのように、先に教室へ入っていった。     *      大会に向けた練習する日々はいつも通り続いていく。地区大会の次は県大会、その次は支部大会、その次は、全国。地区大会での演奏から、また何段も精度を高めていこうと誰もが必死になっている。毎日続く朝練、昼練、夜までの部活。みんなの演奏に磨きがかかっているころ、私はくだらないミスばかり続けていた。また次の大会が近づく、日曜日の練習だった。     「ちょっと休憩にしよっか!」      奏先輩が私にポカリスエットを差し出してくれる。甘じょっぱい味が体に巡ると、私は何をやっているんだろうと、情けなくなった。     「なんか悩んでるでしょ?」 「悩んでませんよ」 「嘘だ~。音を聞けば分かるから」      奏先輩は黒縁の眼鏡の奥から、大きな瞳で私を見つめている。口元は優しく笑っているけれど、瞳には心配が宿っている。奏先輩は本当に、同じ高校生に思えない。立派で、優しくて、人間が出来ていて、尊敬する。     「悩んでませんって」 「そうだね~確かに悩んでるって言うよりは、目的を見失っているって感じだね。お姉さんたちに勝ったのに」 「奏先輩って、何でもお見通しなんですか?」 「まあこないだの大会の、お姉さんを見る聡ちゃんを見ればね~」      奏先輩は私の気持ちに寄り添ってくれようとしている。その思いが言葉の端々から伝わった。私は彼女の顔を見た。心配というより、同情するような目つきだった。     「奏先輩に、何が分かるんですか」      私は胸の奥の黒ずみを、あろうことか奏先輩に叩きつける。  奏先輩、お姉ちゃんにはあんなに、期待に満ちた目を向けていたのに、  どうして私は、そんな可哀そうな目で見るんだよ。     「先輩に私の気持ちなんて分かんない」      もう全部、何もかも、消えて無くなってしまえばいい。     「先輩みたいに、何でもできて、演奏も上手くて、そんな人に私の気持ちなんて絶対分かんない!」      嫌いだ。全部嫌いだ。    凄かったって言った修平も、気持ちは誰にも共有できないと言った杏奈も、辞めて良かったと言った渡邊も、同情した目で見てくる奏先輩も、精いっぱいやりきったような顔をして、吹奏楽を辞めようとしているお姉ちゃんも。    子供のように喚き散らす、自分自身も。全部全部大っ嫌いだ。          その日、私は部活を早退した。奏先輩は嫌な顔一つせず、それを許してくれた。      それから私はその日何をしたのか、あまり覚えていない。家に帰って自分の部屋に籠って、気が付けば夜になっていた。何一つ成長できない一日が、無慈悲に終わる。私は、布団に入って眠ることすらできず、気づけば日付は変わって、時刻はもうとっくに三時を回っている。      もう私には何をやる気力もない。お姉ちゃんという目標を失った私には、何も目指すものがない。空っぽで、ひとりぼっちだ。才能もない。やる気もない。熱意さえ、もうない。    きっと音楽を辞めるべきなのは、お姉ちゃんでも、渡邊さんでもない。    私の方なんだ。    自分も周りも傷つけて、心の中はもうぐしゃぐしゃだ。        ああ、行き場のない夜が、ことことと、音を立てて煮詰まっていく。    私は、この世界のどこにも居場所がない気がして、布団から起き上がった。    薄手の寝間着に上着を着こんで、こっそり部屋を出る。お姉ちゃんの部屋は静まっている。きっとこの世界の誰も、私が布団を抜け出したことを知らない。私は靴に足を通す。玄関の重い扉を開けると、私を誘うように、夜が手を差し伸べていた気がした。     *      夏がすぐ傍に迫っているからか、この時間でも全然寒くない。まるで知らない街を歩くみたいに私は歩いていく。人気の消えた道に、街灯が優しく照っている。      私は歩きながらニュースの男の子を思い出した。キャンプで行方不明になった十歳の男の子にも、優しい親と、もしかしたら兄弟もいるのだろうか。そういう温かいところから、不意に、抜け出したくなってしまったのかもしれない。家族とか、仲間とか、そういう繋がりから、一度離れてみたいと思ったんじゃないだろうか。      街の端に流れる川沿いの遊歩道を歩いていく。すれ違う人もほとんどおらず、ただ風の音だけが耳に残る。水面にはゆっくりと波が出来ていて、私の胸の奥の黒ずみを写したように真っ黒だ。      お姉ちゃんは最後の演奏を終えた直後、やり切った表情をしていた。きっと少ない部員数で、手を取り合って練習してきたんだろう。その姿を想像すると、なんだかお姉ちゃんらしいと思った。      私はお姉ちゃんに勝つことだけを考えて練習していた。三高を選んだのも、フルートを選んだのも、全部、お姉ちゃんに勝つためだった。毎朝の早起きも、遅くまでの練習も、全部が全部、お姉ちゃんに勝つためのものだった。そうして、やっとの思いで手にした勝利は、とっても、からっぽだ。      河川敷に降りる階段に私は腰を掛ける。朝日が近づいているのか、風が穏やかに吹き続けている。私は全然眠くない頭で、お姉ちゃんの演奏を思い出す。楽しく吹くのが一番みたいな、そんな演奏を。      私はいま、何にも楽しくないよ、お姉ちゃん。      朝日が少しずつ昇り始めると、水面がきらきらと照り始める。私の視界いっぱいに広がる、きらきら。眩しくって、暖かくって、優しくって、私は今にも泣き出してしまいそうだった。次第に遊歩道を歩く人や、道路を通過する車が増える。人が行き来し始める煌びやかな朝に、私は、今にも泣き出してしまいそうだった。私はからっぽだ。何もない。何もない。何にもない。私はこの世界に、ひとりぼっちだ。          私の目に涙が溜まった、その時、私の肩に、小さな手が優しく触れた。         「お姉ちゃん」 「見つけた」        お姉ちゃんは息を切らしている。寝間着にしているTシャツ姿のまま、ぴょこんと寝癖を立たせたままで。     「何やってんの、こんなところで」      お姉ちゃんは整わない息のままそう言う。優しくて家族想いのお姉ちゃんは、きっとこんな私にも、手を差し伸べようとしてくれている。     「何でもいいじゃん」 「良くない!」      お姉ちゃんは私の目を真っすぐ見つめる。力強く、見つめる。     「お姉ちゃんには分かんないよ」 「何が」 「お姉ちゃんには私の気持ちなんて分かんないよ」      私もお姉ちゃんの目を真っすぐに見つめる。目を逸らしてはいけない気がして、力強く見つめ返した。     「お姉ちゃんは酷いよね。私が持ってないもの全部持っててさ、私は何にも出来ませんみたいな顔してるくせに、周りにたくさん期待されててさ、私がどれだけ練習しても弾けない曲を、涼しい顔して弾いちゃうんだ! 自分の好きなことを自分の思い通りに出来てさ、それがどれだけ私を苦しめてるかも知らないでさ、一緒に頑張ろうなんて言っちゃうんだよ! 三年間同じことを頑張り続けて、沢山の人に好かれてて、あんなに楽しそうにしてた癖に、満足した顔で吹奏楽を辞めるって言ったりしてさ! お姉ちゃんは自分のことを普通だ普通だって言うけどさ、じゃあ私は? って思っちゃうんだよ! 私ばっかり、私ばっかりさ! 何もできないじゃんって、誰よりも私が思っちゃうんだよ!」     「私だって聡子みたいにはなれない」     「なりたくもないのに言うなよ! 泣くほど練習したってあんたみたいな音が鳴らせないんだ! そんな気持ち、お姉ちゃんに分かるわけない! 一人だったら良かったんだ! あんたの妹なんかじゃ無ければ良かった!」          ばしっ。        乾いた音が響く。        私の頬が熱を帯びる。       「そんなこと言わないでよ」        お姉ちゃんは泣いている。  私も、泣いている。       「妹じゃなければ良かったなんて、そんなこと言わないでよ。私にお姉ちゃんで居させてよ、私に強がらせてよ、優しくさせてよ、心配だってさせてよ、あなたの目標で居させてよ! あなたに負けないように頑張らせてよ!」        お姉ちゃんと私、大粒の涙を流し続ける。       「じゃないと、私が、私じゃなくなっちゃうから」        朝日が昇ってこの街を照らし始める。  朝日に伸びた私たちの影が、遊歩道に長く伸びる。       「私をひとりぼっちにしないでよ」        お姉ちゃんの影に、涙がその雫を落とす。  震える声で言ったお姉ちゃんの言葉が、胸の黒ずみを払っていく。       「……馬鹿じゃないの」        私は止まらない涙を拭いながらそう言う。      馬鹿じゃないの。  ひとりぼっちにしないで、なんて。      それは、こっちの台詞だよ。        差し込んだ朝日が、水面を夜の暗闇から、青色に変えている。  柔らかな朝と共に、長い、孤独な夜が、明けた。     *      泣き腫らした目を赤くして、私とお姉ちゃんは一緒に家に帰った。お姉ちゃんが連絡してくれたみたいで、お父さんとお母さんも家で待ってくれていた。お母さんは仕事を休んで、お父さんも車でわざわざこっちまで帰ってきてくれて、こんな私の事を必死に探してくれていたらしい。二人とも怒らないで、ぎゅっと抱きしめて「良かった」と言ってくれた。     「朝練はもう間に合わないでしょ」 「うん」      お姉ちゃんが意地悪くそう言う。吹部に入ってから初めて、朝練をさぼってしまった。     「お姉ちゃんは?」 「いつもよりは遅刻。でも一限には余裕だよ」 「いつも何時に登校してんのさ」 「ねえ、一緒に朝ごはん食べよ!」      私の返事を待たず、お姉ちゃんはトーストを二枚同時に焼き始める。お姉ちゃんがいつも食べる、バターだけぽんと乗せたトースト。お姉ちゃんと朝ご飯を食べるなんていつ以来だろう。高校生になってからは一度も一緒に食べていない。中学生の時はいつも一緒に食べてたのに。      焼きたてのトーストにバターを乗せる。香ばしい香りがリビングに広がった。お姉ちゃんは私の向かいに座って、今日はもう眠気も去った様子でトーストを食べ始める。      私もトーストを一口齧った。  口の中にバターの優しさが広がる味だった。       「一緒に食べたかったんだ。聡子と」        その言葉を聞いて、私はまた、泣きそうになった。     「酷いこと言ってごめん」 「私も、叩いてごめん」 「お姉ちゃんが私に謝ることないじゃん」 「じゃあ聡子が私に謝ることもないよ」        お姉ちゃんは優しく微笑んでいる。  ああ、お姉ちゃんにはきっと、敵わないなと思った。       「もしかして、いつも早起きしてたのって、私と朝ごはん食べるため?」 「へっへ~、どうでしょう」        お姉ちゃんはトーストを食べ進める。私もトーストを食べ進める。        学校に行ったら、渡邊さんに謝ろう。奏先輩にも謝ろう。修平と杏奈にも謝らなきゃ。      でもきっと、もう大丈夫だ。  私はもう、大丈夫だ。         ***         「お姉ちゃん、時間大丈夫なの?」 「うわ、やばい! ねえ鞄どっちがいいかな?」      お姉ちゃんが珍しく慌てて身支度をしている。キャメルと黒の鞄を交互に持ちながら鏡の前でどたばたと。私はそれが可笑しくてふふっと笑う。     「どっちも可愛いよ」 「だから迷ってるんだよ~!」      お姉ちゃんはコートに身を包んで、可愛いお化粧と洋服で着飾って、今日は久しぶりのデートに行くらしい。外の冷たい空気と室内の温度との寒暖差で窓が結露していて、人と会いたくなる季節だなと思った。     「私先に出ちゃうからね」 「えー待ってよ~!」      お姉ちゃんは難しい顔をしながら、でも嬉しそうに、いつまでも鏡の前で悩み続けた。         「メリークリスマス! だってのにみんな予定ないわけ?」      雅樹さんはドラムを優しくスティックで何度か叩きながらそう言った。コントラバスの弦を確かめながらコータローさんも笑っている。私はフルートを右手に持ちながら反対の手でスタジオの扉を閉めた。残念ながらこのバンドは四人とも彼氏も彼女もいないので、クリスマスは新曲のレコーディングになった。駆け出しのジャズバンドはクリスマスもせかせかと音楽を奏でる。それが今の私には、とても心地よく感じた。     「クリスマスなんてなくていいのにな!」 「いや~それじゃ困る人もいるんじゃないかな~」      笑いながらそう言った雅樹さんに、彼女は背中を向けたまま、ピアノの方を向いたまま答えた。     「ね! 聡ちゃん!」 「ですね!」      奏先輩は黒縁の眼鏡を輝かせて、きらっと笑った。    私は今、きっと、心の底から笑顔でいる。  お姉ちゃんとは異なるけれど、きっと、私らしい笑顔で。        メリークリスマス、たった一人の、私のお姉ちゃん。      
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