7 日野原 航大 ひのはら こうだい

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7 日野原 航大 ひのはら こうだい

       『帰郷』という言葉を思い浮かべる。  故郷へ帰る。帰るべき故郷があることは誇らしくて、温かい気持ちになる。いつか帰ることを許されているところを持っていることと、自分の帰りを待っている人がいるということは、どちらも幸せなことだ。    そしてそれは、きっとありふれたことではなく、とても特別なことだと思う。       *       「スケーインからだと、一度コペンハーゲンまで出てから乗り継ぎ?」 「はい」 「それは長旅ね」      隣に座るキタミさんは窓枠に肘を持たれかけて笑う。ヘルシンキを出発した飛行機は既に雲の遥か上を緩やかに進み続けていて、眠りにつけない僕たちはそこで話し始めた。僕より一回りほど年上の彼女は僕より飛行機に乗り慣れているらしく、そして僕よりよっぽど僕の住んでいた土地に詳しいようだ。     「詳しいですね」 「学生の時にね、いつか絶対北欧に住もうと思ってすごい調べたんだよね。本気でスウェーデン人と結婚しようと思ってたもん。二メートルくらいある人とさ」       キタミさんは大学卒業後、ワインを扱う仕事に就いたので日本とヨーロッパを往復する生活をしているらしい。けれど今回は久しぶりの一人旅、スウェーデンとデンマークを回った後にドイツ人の友人に会ってきたの、と彼女は楽しそうに言った。飛行機は静かに夜の中を飛び続けている。      日本に帰るのはまるまる三年ぶりだ。琴子さんはこっちまで会いに来てくれたけれど、それも今年の春だから半年以上前だ。二年目で店長を任されたと誇らしそうに話していた彼女を思い出す。久しぶりに会う琴子さんはどんな表情で、どんな様子で働いているのだろうか。変わらず好きな音楽を聴いて笑っていてくれてたらいいなと思った。     「あなたも一人旅?」      キタミさんが僕に尋ねる。  僕はこの三年間を振り返るように、ゆっくりと答えた。     「一人旅と言いますか、三年こっちに住んでまして。でもこれからは日本に住み直すことにしました」      キタミさんは興味深そうに微笑んでいる。  飛行機はもうしばらく、羽田には着かなそうだった。       ***       「僕の実家を描いた絵なんです」      僕と雄一が二人で個展を開いたのは僕が十九歳の時で、まだ大学に通いながら絵を描いていた頃のことだ。なけなしのバイト代を寄せ集めて開催した個展は表参道の小さなギャラリーで、たった二日間行われただけだったけれど、そこで僕は琴子さんに会った。    琴子さんはまるでギャラリーに足を運ぶのが初めてのようにゆっくりと扉を開けると、きょろきょろと辺りを見渡しながら静かに絵を見始めた。僕の絵を見ながら目を開いているのがとてもきれいだなと思った。飾られた絵を時間をかけて一つ一つ見て回った後、もう一度最初の絵の前で足を止めた。その絵は僕が描いた中で一番納得がいった絵で、僕が彼女に声を掛けたくなったのは、きっと必然だったんだと思う。     「そうなんですね、海が、すごく綺麗だなって思って」 「僕の記憶の中のイメージなんで、実際はもっと汚いと思いますけど」      僕が笑ってそう言うと、琴子さんはふふっと優しく微笑んだ。手に持った小さなパンフレットは僕と雄一が作って大学で配っていたものだ。    琴子さんは高校生の時は吹奏楽をやっていたけれど、大学からは何か違うことをやってみたいと思っていて、法律の勉強も頑張ったり、アルバイトに熱心になったり、テニスなんかも体験してみたけれどなかなか夢中になれることが見つけられなくて、大学で手に取ったパンフレットを頼りに今日初めて絵を見に来たと話した。彼女は僕より一歳年上で、気が付けば二十歳を迎えてしまったと、そう言った。     「個展なんてすごい、私にはそんな行動力ないからなあ」 「いや、一人で初めてギャラリーに足を運ぶのも、なかなか行動力あると思いますけど」 「なんかね~この歳になると、何か一つくらい好きなものを持っていたいんだよね」 「僕が言うのもなんですが、まだ二十歳でしょ」      僕と琴子さんの笑い声が人のいないギャラリーを少しだけ暖めた。  彼女がいたごく短いこの時間が、この二日間で僕にとって最も、この個展を開いて良かったと思った瞬間だったかもしれない。     「あ、じゃあ、もし良かったら」      琴子さんはもう一度僕の絵をまじまじと見つめていた。空と海の境目の、青色の交わっているところを丁寧に見つめていた。自分の絵を見てくれる人がいることは、奇跡的なことだと僕は思う。     「僕の絵を好きになってくださいよ」 「ふふっ、考えておくよ」      琴子さんはちょっと楽しそうに、お気に入りの服を見つけた時の女の子みたいな表情を残して、ギャラリーを後にした。       *        個展を開いたギャラリーを主宰している松井さんはその後も僕たちに親身になってくれたので、他のアーティストとの共同展示会にも声を掛けて貰ったり、知人や他のギャラリーの経営者に僕たちのことを話してくれたりした。     「航大、また松井さんが展示会に参加しないかってさ!」      最初の個展から六カ月、十九歳の十二月に再び、僕と雄一は展示会に参加することになった。松井さんの呼びかけで参加を決めたのは関東で活動している若手のアーティストばかりで、大学生は僕と雄一だけだった。展示会のテーマは『小さな幸福』だと雄一が僕に教えてくれた。      その時はまだ琴子さんとは時々大学で顔を見かける程度の仲で、もちろん連絡先もSNSも知らなかった。彼女とは共通の友人もいなければ授業が一緒になることもない。けれど、また彼女が来てくれたら嬉しいな、なんてささやかに思いながら、僕と雄一はまたそれぞれに友達や知人たちに展示会のパンフレットを配っていた。     「小さな幸福って何色だろう」      雄一は次に描く絵の想像を巡らせている。僕と雄一の絵は全く技法が異なっていて、雄一の描く絵は端的に分かりやすく言えば、抽象画だ。感情と心情と情景を、キャンバスの上に何色もの色を重ねて塗ることでコラージュする。対して僕が描く絵は具体的な日常画で、視覚的に風景や人物を描いた。  雄一はロスコで僕がクロイア、だなんて、恐れ多くて口が裂けても言えないけれど。     「青色じゃない? 幸せの青い鳥とか」 「お前は鳥の絵を描くのか?」 「いや、まさか。僕はふるさとの絵しか描けないよ」 「自信を持って描ける絵があるってんだから、それは羨ましいぜ」      僕はまた自分の生まれ育った町の絵を描いた。ここから遥か離れた海沿いの田舎町。海の青と山の緑と、春に満開に咲くツツジのオレンジ色の絵をキャンバスに丁寧に描いた。  雄一の絵は鮮やかなオレンジ色の上に透き通るブルーが何層にも塗り重ねられていた。僕たちは完成までお互いの作品を見ることはなかったので、初めてお互いの絵を見た時は驚いた後、二人して笑ってしまった。僕たちは全く違う絵を描いているのに、描こうとしているものの本質はすごく近いのだろう。      十二月の初めに執り行われた展示会は一週間に渡り開催された。僕がギャラリーに顔を出せたのは土日の二日間だけだったけれど、そこで琴子さんに再開した。久しぶりに会った彼女は相変わらず緩い毛先をふわふわさせて、僕の絵を見ながら瞳を大きく広げていた。     「この絵、凄く好きだよ!」 「お、良かった~」      琴子さんがそう言ってくれたのが何よりも嬉しかった。描いた絵を褒めてもらえることは、僕自身を褒めてもらえるよりも嬉しいと思う。    琴子さんはまた大学で手にした展示会のパンフレットを小さな手で握りながら、僕に笑顔を振りまいてくれる。仲のいい友達もいるし、毎日いろいろなことをしていて楽しいけれど、まだ心から夢中になるほど好きなものを見つけられていないんだ、と彼女は言った。彼女はなんだか、ずっと笑っていてほしいと思ってしまう人だ。そういう雰囲気を隣で持っていてくれる人は、きっとそう多くはないんじゃないかと思う。       その日僕は琴子さんと連絡先を交換して、何度か連絡のやり取りをするようになって、一緒に出かけたりするようになった。琴子さんの行きたいカフェに一緒に行ったり、僕が彼女を映画に誘ったりした。      その年のクリスマス、ローストビーフとワインが美味しい小さなレストランで僕は琴子さんに告白をして、僕たちは付き合う事になった。      そしてそれとちょうど同じ時期に、僕の絵が、初めて売れた。       ***        キタミさんはグラスワインを一杯注文したので、僕も同じものを頼んだ。客室乗務員の女性が注いだ白ワインはきらきらと揺れている。     「クラベリス・ヴィンゴード」 「はい?」      僕の間の抜けた返事に、キタミさんはグラスを手に取って目配せをした。     「スウェーデンワイン、私の会社でも最近推してるんだ。口当たりが良くて、いろんなフルーツの香りがするの」      そう言って僕たちは小さく乾杯をした。キタミさんはそれをゆっくりと味わうと、ふふっと上品に笑った。     「美味いけど、味の違いは分かんないです」      キタミさんはグラスいっぱいのワインを味わいながら少しずつ飲む。きっと彼女は心からワインが好きなんだろうと思った。     「味の違いなんて細やかな事だから、別に分からなくたっていいのよ。大事なのはそのワインが、あなたにとって美味しいかどうかって事だから」 「それなら、間違いなく美味しいです」 「美味しいと思うから私はワインが好きだし、この仕事をしているの。好きだと思う気持ちをずっと持ち続けることって、私にとって凄く素敵な事だと思ってる」  僕はキタミさんの話を聞きながら、琴子さんの事を考えていた。お互いを好きな気持ちを持ち続けることは、とても素敵なことだし、実はけっこう難しいことかもしれない。日本とデンマーク、八千キロメートルの距離を超えて僕たちは心を通わせ続けることが出来ていただろうか。    口に含んだ白ワインが喉を通過する瞬間、甘さの中から染み出すように、味わい深い辛さを放った。       ***        松井さんにまた声を掛けて貰ったのは年明けすぐだったが、その時、雄一の名前は一緒ではなかった。松井さんの紹介で何人かの画家や画商に顔と名前を憶えて貰っている中に一人、ある外国人の男性がいた。     「初めまして。十二月に君の絵を見て、とても印象的だったのを覚えているよ」      短い金髪にグリーンの目が強く輝いている、初老のその男性は、     「スクリバーさん、お会いできて光栄です。日本語すごくお上手ですね」      ラセ・スクリバーはデンマークの画家で、写実的な油絵に人の温かみを乗せるのが見事な絵を描く人だった。日本での知名度は正直あまり無いと思うけれど、僕が描きたい絵を描く画家の一人だ。     「孫が日本に嫁にいってね、私も少し日本に住んでいた事もあったから、今はあっちとこっちをふらふらと行き来しているんだよ」      スクリバーさんは確かもう七十歳近いと思うが、むしろその長い人生経験を積んだ今の方がなにかすごい作品を残しそうな雰囲気を持っている。     「スクリバーさんとは昔から付き合いがあってね。今は日本に住んでて、こないだの展覧会も観に来られたんだよ」 「そうなんですか!」 「ちょうど君が来られなかった日だったけどね」      松井さんは楽しそうに僕に教えてくれた。僕のことを本当に親身に考えてくれる松井さんは、もはや僕にとって親同然の存在なのかもしれない。     「また君の絵を見に来るよ」 「ありがとうございます!」      スクリバーさんと別れたあと、僕は珍しくやや興奮したまま琴子さんにそのことを話した。もちろん琴子さんは彼の事を知らないけれど、琴子さんは自分の事のように驚いたり、喜んだりしてくれた。あなたのことが誇らしい、そう言ってくれた琴子さんの言葉が僕の中にいつまでも残り続けていた。      雄一はまたいくつか自分の絵を描き始めて、スクリバーさんとの話をしたら彼は「俺もロスコに会ってみたかったぜ」と言って笑った。そして「次の絵はお前より高い値段を付けてやる」と言ってまたキャンバスと向き合っていた。同じように頑張っている人がいることは心強いことだ。絵は一人で描くものだけど、決して一人で描くことはできない。描きたい瞬間を選ぶ時も、それを実際に描く間にも、いつだって僕以外の誰かの視線がそれを後押ししてくれる。      再び春を迎える頃には松井さんを通じて展覧会に参加したり、僕個人にも仕事で声をかけてもらう事があったりした。僕の絵を買ってくれる人も何人かいた。この頃から僕は大学に行く頻度が減っていき、雄一と会う機会も少しずつ減っていった。琴子さんとも毎日のように会えた訳じゃないけれど、いつも僕の選ぶ道の背中を押してくれた。少しづつ、ゆっくりと、仲を深めているような、琴子さんと僕はそんな心地よい関係だった。  雄一は僕の知らないところでもたくさん絵を描いて、色々なところに顔を出して自分の作品を売り込んでいた。心の中をそのまま写したような彼の絵が僕はすごく好きだったけれど、彼の絵は全く売れなかった。次第に、展示会に僕だけが声をかけてもらえる事が増えていた。     「記憶の中にある僕の故郷は、いつも凄く綺麗なんですよね」 「実際にはこんなに綺麗じゃなかったってこと?」 「いや、それは僕にも分かりません」 「実家に帰ろうとは思わないのかい?」      スクリバーさんとは何度か会って仲良くしてもらった。デンマークの最北端にあるスケーインという小さな町で彼は絵を描いていて、そこは鉄道ができる前から数多くの画家が集まっていた歴史ある町で、若い画家は色々な景色を見て回ってみてほしいんだと言った。     「あんまり思わないですね」      僕がそう言うとスクリバーさんは、その緑色の瞳を優しく僕に向けて言った。     「人は帰る場所を持っているべきだと、私は思う。私の場合はそれがスケーインと横浜だった」      帰る場所なんて、僕は顔の半分だけ笑ってそれを聞いていた。     「スケーイン、どんなところなのか気になります」 「良かったら一度来てみたらいい、私のところで絵を描くかい?」      スクリバーさんは笑いながらそう言った。僕も嬉しい冗談だと思いながらそれを聞いていた。          琴子さんが三年生の六月、琴子さんは、妹がバンドを始めたんだと誇らしげに教えてくれた。音大に入学した妹の聡子さんは高校の先輩や大学のOBと一緒にインストルメンタルのジャズバンドを始めたらしい。僕は音楽に関しては全くの無知だったけれど、そのバンドの曲を聴いた時、なんだか懐かしさと温かさを同時に感じた気がした。妹は本当にフルートが上手で、好きな道を貫いているところを尊敬しているんだと、琴子さんは笑顔で語った。      妹の聡子さんとはその後、割と早いうちに顔を合わせる機会があって、琴子さんと三人で何度か食事に行ったりした。聡子さんは琴子さんより少し釣り目で鼻筋がしっかりしていて、でも笑った時の口元は琴子さんにそっくりだった。  聡子さんのバンドの曲は大切な人を想いながら聴きたい曲だ。そう僕が言ったら聡子さんは「言われてるよお姉ちゃん」とからかうように琴子さんに言っていた。耳を赤くした琴子さんはすごく可愛かった。      聡子さんのバンドの曲からイメージを膨らませて描いた絵は、これまでで一番高い金額で売れた。僕はあまり大学にも行かなくなって、毎日のように絵を描いては松井さんやスクリバーさんやその他の多くの若い画家たちの視線を浴び続けることになった。その頃から、雄一が展示会に絵を出すことはほとんどなくなった。     *      スクリバーさんは僕の絵をまじまじと見ながら真剣にギャラリーに立っていた。季節は秋を深めた十一月になっていた。     「なんというか、君が描く風景画には、切なさというか、苦しさのようなものを感じる時がある」      スクリバーさんは緑色の瞳をすっと僕の方に向ける。曇りのない目はまるで僕の腹の奥底にあるものを見透かしているようだった。     「失礼だったら申し訳ない。しかし、君にはもしかして、帰る場所はちゃんとあるのかい?」 「実家はもうないです。津波で家ごと流されました。親ももういません」      その日スクリバーさんが見ていた絵は雪の降る地元の田園風景を描いたものだった。  震災ですべてが瓦礫に変わる前の、僕の美化された記憶の中のものだけれど。     「……そうか。そうしたら以前、無神経なことを言ってしまったな」 「気にしてません、もう五年も前のことですから」        スクリバーさんは、まるで自分の事のようにしんどそうな表情を浮かべて、また絵に視線を戻した。スクリバーさんは以前、帰る場所があった方がいいと言っていた。僕には帰る場所がない。もし僕がそれを持っていたら、僕も彼のような絵を描けるのかもしれない。     「以前僕に、人は帰るべき場所を持っていた方が良いと言っていましたよね。スクリバーさんにとっては横浜とスケーインがそうだって」 「ああ、確かに言った」      僕はスクリバーさんをじっと見つめながら、意思を込めて言葉を紡いだ。  スクリバーさんは喜びでも、悲しみでも、怒りでもない表情をして僕の方を見ている。     「帰る場所っていうのは、そこを離れてはじめて帰る場所になるんだと思います。今の僕にはそんな場所はどこにもないから、だからスクリバーさん」 「うん」 「スケーインに連れて行ってくれませんか」        スクリバーさんは一言、かまわない、と言った。  きっと、スクリバーさんの瞳に宿っているのは、慈愛だ。  僕を慈しんでくれる、暖かな瞳だ。        その夜、僕は琴子さんとたくさん話をした。      僕は大学を辞めて画家として生きていきたいこと。僕の絵はまだ未熟で、ここにいてはきっと僕の描きたい絵は描けないと思っていること。スクリバーさんと一緒にスケーインに行って、そこに住んで絵を描き続けようと思っていること。僕から琴子さんの想いはきっとずっと変わらないけれど、八千キロメートルが僕たちを隔てること。僕は琴子さんのことを大事に想っていて、幸せになってほしいと願っていて、いつまでも笑顔でいてほしいと祈っていて、だけど僕は僕の人生を蔑ろには出来なくて、だから、     「僕たち、別れませんか」      僕は琴子さんに、そういうことを言った。      琴子さんはしばらく、僕の目を見つめ続けていた。睫毛を上に向けて、大きく開いた目の下の方に涙を溜めながら。       「……いやだ」        琴子さんは、いつものように、優しく言った。       「だって、私に、あなたの絵を好きになってくれって、言ったじゃん」        そうやって、僕たちは遠距離恋愛をする決心をした。     *      久しぶりに会った雄一は、僕の決心を快く応援してくれた。雄一は最近、絵を描く時間よりも、絵を見ている時間の方が多いと笑っていた。雄一はいつも絵を描くときに幅の広い平筆を使っていて、よく右手の小指側を絵の具を汚していた。今は綺麗な手で、ボールペンを握っている。     「お前ならきっと成功すると思う」      雄一はからっとした笑い方をする。自信に満ちていて、説得力があるような笑い方をする。  雄一のそういうところが僕は好きで、尊敬していて、憧れていた。     「根拠がないよ」 「あるよ。俺はお前の絵が好き。それが根拠」      僕はぐっと、胸の奥が詰まるように感じた。     「僕だって雄一の絵が好きだ」 「だとしたら、お前は案外、センス無いのかも知れないな」       雄一は画家にはならないと言ってまた笑った。俺は、自分には才能が無いと、分かる程度の才能はあるんだ。雄一の言葉がどこへ向かうでもなく宙に浮かんでは、自らの重さに耐えかねたように淀んでいく。     「凄いお前と一緒にいたら、俺も凄くなれるような気がしたんだけどさ」 「雄一だって凄いよ」 「止めろよ。お前がその言葉を口にする責任を、お前は取れないだろ?」      胸の奥がぐっと塞がれたように、僕は何も言えなくなる。  雄一は僕の背中を強く叩いた。自信と勇気を僕にくれるように。          十二月二十五日、僕と琴子さんは朝から二人で出かけた。横浜の赤レンガ倉庫でクリスマスマーケットを見に行って、琴子さんは小さなスノードームを手に取って笑っていた。浜風を言い訳にして僕は琴子さんと手を繋ぐと、琴子さんは小さな手をきゅっと握ってくれた。その手はとても、とても暖かかった。    少し早い夕食を小さなレストランで食べて、琴子さんと僕はワインを飲んだ。琴子さんのグラスのワインは透き通った赤色で、彼女のマフラーと同じ柔らかい色だった。僕は彼女に腕時計をプレゼントしたら、彼女も僕に腕時計をくれた。二つの盤面がレストランのオレンジの照明を同じ暖かさで反射した。腕時計を付けた琴子さんはそれを本当に大事そうな目で見つめていた。  かち、かち、と二つの時計の秒針が揃って時を刻んでいく。僕と琴子さんもきっと、同じ早さで大人になっていくんだろうなと思った。そうありたいと思った。      レストランを出るともう日は落ちていて、駅までの道にイルミネーションが点灯していて、僕たちはそれを一緒に見た。本当は短い時間だったのかもしれないけれど、この時間が永遠に続くような気がして、僕たちは手を繋ぎながらその光を見つめていた。     「すっごく楽しかった。プレゼントも嬉しい。ありがとう、こーちゃん!」 「僕もすごく楽しかった。こちらこそありがとう、琴子さん」      駅に着くと僕と琴子さんは向かい合ってお互いを見つめ合った。琴子さんはちっとも寒くなさそうに笑顔でいる。     「今日で一年だね! クリスマスが記念日なんて、ぜいたくだなぁ」      琴子さんは最後の瞬間まで、笑顔でいようとしてくれている。  僕は琴子さんを抱きしめた。  僕より少し背の低い彼女を、精いっぱいの愛しさを込めて抱きしめた。      やがて電車がくる。僕は電車に乗って彼女を見つめる。  扉が閉まるすんでのところで、琴子さんは僕に向かって言った。     「いってらっしゃい! がんばれ!」      琴子さんはそう言って僕を見送った。  付き合って一年の記念日、僕はその日、日本を旅立った。       ***        キタミさんは日本に帰ったら同棲している婚約者と会って、次の春には結婚式を挙げる予定だと語った。飛行機はもうすぐ夜を抜けようとしていて、きっと羽田までもあと少しだ。     「どんな方なんですか? 旦那さん」 「一六四センチ」 「え? なにが?」 「身長。一六四センチ」      と言って、彼女はいたずらに笑った。     「それは……、スウェーデン人?」      僕はちょっと困りながらそういうと、彼女はその人の写真を見せてくれた。垂れ目の一重まぶたと、笑ったときの口元が優しそうな男の人だった。カッコいいスウェーデン人とは真逆のイメージの、優しい日本人。     「会社の同僚でね、よく一緒にご飯を食べてたんだけど、すごく美味しそうに食べるの。笑っちゃうくらいにさ。そういうところが好きになってね、いつの間にか。人を好きになるきっかけって、紐解いてみると些細なものよね」      分かります、と、僕が言うとキタミさんは、今度は僕の彼女を見せろと言ってきた。  僕は凄く照れながら、スマートフォンを彼女に手渡した。       ***        スケーインの海は北海とバルト海のちょうど境目で、重なり合う波の束が鮮やかに太陽の光を反射している。白い砂浜と風になびく緑の草原は、きっと多くの画家の目を虜にしたのだろうと思う。    スケーインで暮らし始めて、オーロラの冬が過ぎて、日本にも負けない桜の春が過ぎて、クロイアが描いた夕べの夏が過ぎていった。日本を離れて半年も経つ頃にはスクリバーさんの紹介でコペンハーゲンやラナースのギャラリーに僕の絵を置いてもらった。同年代や僕よりも年下で素晴らしい絵を描く知人も出来て、刺激を受けてまた僕は絵を描き続けた。  琴子さんとはなるべく頻繁に連絡を取るようにしていて、メッセージや電話、時には手紙のやり取りもした。八時間の時差を越えて行き交うメッセージは何よりも僕に元気をくれた。夏が終わった頃、琴子さんが映画に出たと聞いた時はびっくりした。見たい!と僕は大きな声で言ったけど、恥ずかしくて死んじゃう!と言われた。      僕の描いた絵は時々売れたけれど、自立という言葉には程遠かった。展示会に出展した僕の絵の隣に、僕より若い才能のある画家の絵が並ぶと酷くやるせない気持ちになった。スケーインに来て、嫉妬と苦悩の一年があっという間に過ぎ去っていく。     「この世界にあるものは、二つの種類に分けられる。キャンバスに描きたいものと、心の中に描きたいもの」      スクリバーさんは僕が絵を描くのを見ながらそういうことを言った。  まるで自分の人生を僕の中に落とし込んでくれるようだった。     「誰の言葉ですか?」 「私の言葉だ」      スクリバーさんは笑って言った。僕も笑った。     「だけど私たちは画家だから、後者をキャンバスの上に落とし込まないと行けない時がある。キャンバスに描いた絵を見た人は、自分の心の中にある景色を、その絵を通じてまた自分の心の中で思い描く。良い絵っていうのは、そういう絵のことを言うのだと私は思う」      スクリバーさんはそういう話をする時、いつも、とても楽しそうだった。  そしていつも、僕ならそういう絵が描けると、確信した瞳をしている。      スケーインで過ごす二度目の春、絵は相変わらずなかなか売れなかったけれど、僕は沢山の絵を描いた。琴子さんは社会人になって、地元の楽器屋で大好きな音楽に囲まれながら働いていると言った。大学の先輩が夢に向かって頑張っていて、琴子さんはその先輩を心から応援していると言った。高校の同級生に久しぶりに会って、昔と変わらない元気な笑顔で元気をもらったと言った。  僕は琴子さんに、琴子さんが好きになってくれそうな絵を描くのにはまだまだ時間がかかりそうだと話した。そうしたら琴子さんは、待っている時間も楽しいんだよって言ってくれた。    雄一からは手紙が届いた。彼は広告代理店のインターンシップに参加して、将来はデザインに関わる仕事をしようと思うと書いてあった。彼の言葉はいつも自信に溢れていて、彼は自分の道に進もうとしていることを知ると、僕は嬉しさと励ましをもらった気がした。     『そういえば、俺とお前で一緒に参加した共同展示会で「小さな幸せ」をテーマに絵を描いたときに、俺は青とオレンジを塗り重ねた絵を描いたんだけど、あれは今思えば、夕焼けの色だったんじゃないか。晴れた日の青空が、夕焼けのオレンジ色に変わっていくっていうのは、穏やかに一日が終わるって言うことは、幸せなことなんじゃないか。なんて、今更ながら思ったんだよ』      僕は雄一の絵を思い出す。  何層にも塗り重ねた奥深いオレンジ色と対峙する、晴れ渡った青空のようなブルーを思い出す。  あの絵を見て僕が心の中で思い描いたのは、紛れもなく、僕の地元の鮮やかな夕焼け空だった。いつまでも心の中に残って色あせない、僕の故郷の絵だった。    やっぱりお前の方が才能があるんじゃないか。  誰にも向かわない言葉を僕は抱えたまま、絵を描き続ける。     *     「お久しぶりです」 「ああ、久しぶり、元気?」 「元気ですよ、航大さんも元気そうで」      ある日電話をくれたのは、聡子さんだった。  八時間の時差を隔てて電話越しに聞こえた彼女の声は、琴子さんによく似ている。     「お姉ちゃんも元気ですよ。仕事は忙しいみたいですけど」 「元気なら良かった」 「お姉ちゃんはいつでも元気ですから。いつも笑ってるし」      確かに、と僕は言う。琴子さんはいつも笑って、明るい印象で、そういうところが彼女の個性だと思っていた。  けれど、聡子さんは僕に、一本の動画のファイルを送ってくれた。  それはある短い映画で、笑顔の似合う大学生の女の子の表情をカメラが追っている、たった十五分の映画だった。     「これは?」 「お姉ちゃんは、恥ずかしいから絶対見せるなって言ってたけど、航大さんに送ります」      踏切の前に立つその女性は、遠のいていく電車を見つめながら、すっと涙を流した。   『この道は私に通じている。ずっと、先の未来の私に』    そこで映画は終わった。        泣いている。      琴子さんが。       「……どうしてこれを僕に?」 「航大さんには、これを見る権利があるというか、義務があるというか、そう思ったから」      息が詰まるようだった。      見送られているのは、きっと僕だった。  なのに僕は日本からどれだけ離れても、一歩も前に進めていないんだ。      その日から描き始めた絵は、一人の女性の絵だった。スケーインの美しい海に膝まで浸かり、涙を流しながらこちらを見る女性の絵だった。絵の女性に命を込めるたび、僕の目からも涙が溢れてきた。琴子さんに涙を流させておいて、辛い思いをさせておいて、僕のわがままに付き合わせて、僕はどこへ向かっているんだろう。    行き場を無くした僕の心を絵の女性に描き移していく。行く場所も、帰る場所もない僕がいるべきなのは、きっと波の中だ。僕の故郷も、実家も、両親も、美しい思い出もみんな波の中だ。全部全部、流されて沈んで失って、残酷なほど深い青色の水底だ。        描き上げた絵はラナースのギャラリーに飾られた。  僕の名前はその絵をきっかけに少しばかり知られるようになったけれど、スクリバーさんは僕を心配そうな目で見た。季節はいつの間にか二度目のクリスマスに近づいている。僕の描く絵は息詰まるような心苦しさを載せた絵に変わっていって、それらの絵は、馬鹿みたいに人に褒めてもらった。だけどこんな絵は、琴子さんに好きになってもらいたくない。    クリスマスイブの日、日本は時差で既に二十五日になっている夜、僕は琴子さんと電話をした。     「聡子が映画の映像送ったでしょ! 恥ずかしいから絶対見ないでって言ったのに!」      琴子さんはほんのちょっと怒っていて、でも僕と話すことをとても喜んでくれるようだった。     「琴子さんさ、」 「うん」 「なんで泣いてたの?」 「いやー私にもさっぱりだよ~」      琴子さんはいつも笑って話してくれる。  もしかして、僕は、彼女にとても、無理をさせていないだろうか。     「僕を見送ってくれた夜も、泣いた?」 「……」      琴子さんは僕に掛ける言葉を選んでいるようだった。  僕は固唾をのみながら、彼女の言葉を待ち続ける。     「それは秘密かなぁ」      琴子さんはいつものように、優しい言葉をかけてくれた。     「ごめんね」 「なんでこーちゃんが謝るの?」 「ごめんね、いつも無理をさせて」 「してないよ、無理なんて」 「僕はいつも、自分のことばっかりだ。自分のことばっかりなのに、なんにも成長できないや」 「こーちゃん」      琴子さんは、少しだけ大きな声を出した。  僕の耳に、すっと響く声だった。     「今度の春、そっちに遊びに行ってあげる!」 「え」 「やっとまとまって有給が取れそうなんだ! だからこーちゃんに会いに行ってあげる!」 「なんで」 「なんでって、ひどっ! 彼女が会いに行ってあげるんだよ!?」      琴子さんはいつものように、のんびりと笑って言ってくれた。     「だからそれまで、謝るの禁止!」   「謝りたければ、ちゃんと私の顔をみて謝りなさい!」      琴子さんはいつも僕の背中を押してくれる。  いや、きっと、彼女はいつも、僕の手を取って、水底から僕を引き上げてくれるんだ。     *        スケーインで迎える三度目の春、琴子さんは大きなキャリーバッグを転がしながらコペンハーゲンに到着した。人魚姫の像やニューハウンの街を見て回ったり、サマーバードオーガニックのチョコレートを一口で食べたり、お土産屋さんでは聡子さんに何を買って行こうか悩みながらはしゃいだりした。そして僕が住むスケーインまで、電車を七時間乗り継いで来てくれた。      いつもごめん、と僕が言ったら、ほんとに謝るかね、と言って笑っていた。その次に、謝るより先に、ありがとうって言ってよ、と言ってまた笑った。彼女は夕暮れのような人だ。そこにいてくれるだけで、僕を包み込んでくれるような存在だ。      スクリバーさんとも挨拶を交わした後、琴子さんは、アトリエいっぱいに広がった僕の絵を見てくれた。どの絵も大切に扱うように、じっくり見てくれた。     「その絵、琴子さんは好き?」 「うん」  琴子さんは僕の絵を手に取りながら笑った。  手に取ったのはあの日に描いた、泣いている女性の絵だ。   「どこが好き?」 「あなたが必死に描いたのが伝わるところ」      琴子さんはゆっくりと絵を元の場所に戻すと、僕の隣に立った。  琴子さんの手が僕の頬に触れる。  優しくて、柔らかくて、温かい手だ。       「でも私は、泣くよりも、笑っている方が、好きだなぁ」      そう言って彼女は、止まっていた時計を動かすように、ゆっくりと僕にキスをした。    唇が離れた後の、照れて笑った彼女の表情を、僕は心の中に描き留めた。       *     「良い絵だね」      琴子さんは九日間の旅行を終えて日本に帰っていった。僕の頬と唇に温かさを残して。  彼女に会ってから、僕の絵も段々と暖かいものに変わっていった気がする。たぶんだけど、スクリバーさんの僕の絵を見つめる瞳はそう語っている気がした。      スクリバーさんは今年の秋にスケーイン美術館で個展を開くことになっていて、その一角に僕の絵を置きたいと言った。スケーインの海が青さを増す頃、僕の絵は少しずつ完成に近づいていった。     「君にしか描けない絵だ」      僕は一筆ごとに、心を込めて描いた。  僕が描いているのは女性の絵だ。    人のいなくなった羽田空港の国際線ターミナルで、誰かを待っている女性の絵だ。     「私が教えることはもう何もないね」 「そんなことありませんよ」      スクリバーさんと僕は笑った。  口元を赤いマフラーで隠しながら、柔らかな瞳で誰かの帰りを待っている琴子さんの絵を描き上げた。       「帰る場所が、見つかったみたいだね」 「はい。長い間、本当にありがとうございました。僕は日本に帰ります」        スクリバーさんの個展に飾った僕の絵は沢山の人に素敵だと言ってもらえて、この絵を買いたいと言ってもらった。僕はその申し出を全て断った。今までで一番美しい絵を、手元に残しておきたいと思った。スクリバーさんは僕の隣で、とても誇らしそうにしてくれた。       『帰郷』    というタイトルが、僕の絵の下で、煌びやかに輝いていた。       ***        飛行機は思ったよりも静かに車輪を滑走路に触れさせると、長旅の終わりを惜しむようにゆっくりと停止した。飛行機を降りるとキタミさんは左手を僕の方に掲げて別れを告げた。左手の薬指に付けた、真新しい指輪を光らせながら。      僕も荷物を引き取って到着ゲートへ向かう。スケーインの冬もすごく寒かったけれど、日本の冬もまた寒い。空港のターミナルに向かうと大きなクリスマスツリーが点灯していて、そこに沢山の人が集まっていた。恋人同士や家族、友人同士で見ている人も沢山いるのだろう。僕の描いた絵にはあんなに人が少なかったのにな、なんて、一人でゆっくり笑った。        そして僕は、ツリーの隣で待っている、赤いマフラーの彼女を見つける。        僕は一歩ずつ、近づく距離を実感しながら彼女の元へ歩いていった。  今度は僕が、ゆっくりと、時計の針を合わせるように。   「ただいま、琴子さん」 「おかえりなさい」  いつものように、優しく笑う、彼女の手を握りしめる。   握った手に、僕の持ちうる限りの、感謝と愛情を込めて。      
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