大和 武志

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大和 武志

  いつものように朝6時に携帯電話のアラームで起き、顔を洗い歯を磨いてからゆっくりとトイレに入る。  それからラジオをつけて9年前から続けているヨガのアーサナを始める。アーサナは、朝1時間半程やる。  そして、朝食の支度をする。                   朝食は、だいたいいつも同じメニューで、根昆布で出汁をとりジャガイモ、白ネギ、ワカメ、みょうが、納豆にもやし、レタスを入れ豆乳で仕上げた御御御付けに、玄米のおにぎり。    ヨガを始めてから玄米菜食にしたところ、もともと体は、丈夫な方だったけれど、風邪をひかなくなった。    初めは、健康に良いと思い始めたところ、他にも色々良いことがあり、例えば飢餓問題の解決にもつながる。  牛10キロ分の肉を育てるのに、その11倍の穀物が必要になる。豚なら7倍、鷄なら4倍もの穀物が必要になる。なので肉食をやめてその分の穀物を飢えているアジアやアフリカ等の人々に分け与えれば全ての人に食料が行き渡るらしい。           まず人は、お腹いっぱい食べれば憎しみや悲しみが少なくなる筈だ。自分に良いことをすれば外の世界も良くできる。ひとつながりのワンピースだ。  ヨガを始めて1年程たった頃、当然のようにインドに憧れるようになった。  そう思うと行きたくなり、思いたったらすぐに行動するタイプなので、2年半勤めていた大手の運送会社を辞めて、1人暮らしのアパートの荷物の整理を始めた。  まず洋服をリサイクルショップに持って行った。店に入り買取受け付けを済ませ20分程待たされた後に売り値を告げられると、持ち込んだ洋服37枚で 「1枚1円で37円ですね」 ぼくは、聞き間違いかジョーダンかと思い店員の顔を見たけれど、店員はジョーダンを言うような顔でもなく滑舌よく言っている。さすがに大切に着てきた洋服を1枚1円で売る気にはなれず、丁寧に断り家に持って帰った。  とはいえ、要らないものを持って帰ってきてもしょうがない。考えているとアジア、アフリカ等に毛布や洋服を送れるという話しを思い出した。  早速インターネットで調べてみると、それらしいのがすぐに見つかりのぞいてみると、送料は自己負担で2000円かかるけれど、1枚1円でリサイクルショップに売るよりは、よっぽどましなのですぐに発送した。  次に処分しようと思ったのが大量にあるレコードで90年代のHIPHOP、R&Bが大好きで、始めの100枚位までは数えていたけれど途中で諦め。LLCoolJやLostBoys 、The Notorius B.I.G、A Tribe Called Quest、など東海岸、西海岸問わず、いまでは、ゆうに1000枚はある。これを売れば良い値段になるだろうと思ったけれど宝物のように大事にしていたレコードなので売る気にはなれずにDJをやりたいと言っている友達に全部あげることにした。電話をかけると着払いでいいから送ってくれという事なので、これも即日に送った。  そのほか使えそうなものは、全て友人、知人に、引き取ってもらった。   これで貯金は、丁度50万円。これなら貧乏旅行なら、節約して半年は、インドにいられそうなので、早速1年のopenチケットを、10万円で購入してビザを取りアパートを引き払いインドへ飛んだ。    アシアナ航空で韓国でトランジット7時間待ち。乗り換えて夜中の午前1時頃、ニューデリー空港に到着した。  用を足そうとトイレに入ると男性用の小便器が、腰程度まであるので少し背伸びをする姿勢で、用を足した。周りにいるインド人を見ると175cmの僕よりも小柄な人が目立つのに何故に小便器が、腰の高さまであるのだろう?  後に数々のトイレに入ることになるけれど男性専用の小便器は見たことがない。    さて空港の外に出るかと外に出ると夜中の1時だというのに男女問わず道端に座り込んでいる。ガイドブックにのっているように声をかけてくるものもいない。どうしようかと探しあぐねているとやっと1人の男性が声をかけて来た。どうやらオートリキシャのドライバーのようだ。  「どこまで行くんだ」  「メインバザールまで行きたいんだけど」  「OK乗っていきなよ」  「いくら?」  「500ルピーだな」  インドではまず99%吹っかけてくると思って間違いないらしい。  「エクシペンシブ」  「うーんじゃ250でどうだ」  「150」  5分交渉した結果200ルピーで決定した。    夜中の真っ暗な大通りをパスパストゥクトゥクと音を響かせながら三輪のオートリキシャは、走り抜けていくインドのなまぬるい風が心地よかった。  数10分で、シーンと静まりかえったメインバザールに到着した。  オートリキシャのドライバーが後ろを振り返り「じゃ300ルピーね」  「えっ300ルピー?おい200ルピーでしょ」  「いや300ルピーだ」  「200ルピーって言った」  「300ルピー」  「OKわかった、じゃあ払わないからバイバイ 」  「わかったわかった200ルピーでいい」  200ルピーを払って安宿を探すことにした。  人通りのほとんどないメインバザールに、1台のリキシャが通りかかったので声をかけた。  「ここら辺で150ルピー以内で泊まれるところは、ありますか?」  「よっ乗ってきな」  「サンキュー」  何件か回ってもらったけれど300ルピー以上の宿ばかりだった。僕は今後のことを考えてどうしても150ルピー以内でおさめたかったので、もう何件か回ってもらった。そして夜も明けようかという頃7、8件目で、180ルピーの宿が見つかったので少し妥協して、ここに決める事にした。  「ありがとう、ここにするよ。」 とリキシャマンに告げると  「そうか遅くなって悪かったな」 とメインバザールを去って行った。   宿の受け付けでまとめて3日分の宿泊費を払うと12、3歳の少年に部屋に案内された。  「ありがとう」 とチップを渡すと、少年は、  「冷たいビールでもどう」 とビールを美味しそうに飲む仕草をした。普段は、飲まないのだけれど、その美味しそうな顔につられて、  「いいね1本よろしく」  とビールを注文した。5分後にキングフィッシャーという銘柄のビールを持って来た。まったく冷えておらずぬるいビールだったが、  「サンキュー」 と言い、またチップを5ルピー渡した。  少し仮眠をとって早朝のメインバザールを歩いた。  お腹が空いたので2階建ての古びた食堂に入り、ターリーという2種類のカレーとライス、チャパティ、サラダにインドの漬物が、ひとつのお皿に乗った定食を注文した。インドで初めての食事は、ボリューム満点でとても美味しかった。  さらにメインバザールを探索していると、体格のいいインド人に日本語で声をかけられた。  「どこに泊まってますか?」 泊まっている宿を告げると  「うちのゲストハウスは、80ルピーでいいですよ」 と言うので迷わず移ることにした。  そして泊まっている宿に戻り、宿を移るから先に払った2日分の宿泊費を返してくれと頼んだけれど何分話し合ってもいっこうに返してくれない。拉致があかないのであきらめて荷物をまとめて宿を出た。そして先ほど会った日本語ペラペラな、ノディという彼に電話をして迎えに来てもらった。スクーターで現れた。2人乗りで、メインバザールの裏道を何本か曲がったところにあるグリーンというゲストハウスに到着した。お世辞にも綺麗とはいえず、シャワー、トイレは、共用の1部屋4畳ほどの部屋に案内された。ベッドがひとつ置いてあるだけで低い天井に大きなファンが付いている。手を伸ばせば高速で回るファンにあたってしまう。ベッドの上に立てば、首に丁度あたる高さだ。もし寝起きに寝ぼけでもして立ち上がったり伸びをしてしまえば命に関わる。これはとても危険だ。  ちょっと休もうと思う暇もなく、ノディがデリーを案内してくれるというのでお願いすることにした。  最初に紅茶屋さんに案内された。フルーツの甘い香りのする小綺麗なこじんまりとした店内で試飲させてもらった。ダージリン、カモミール、アップルティー等の定番からマンゴーティー等の色々な紅茶を試飲した。しかしまだ先は長いので今は買う気にはならず日本に帰る時にでもお願いしますと断り店を出た。  「タケシ何か欲しいものないか?」  「インドの普段着が欲しい」  「OKクルタとパジャマね」  「うんそれそれ何か楽ちんなやつ」 と次は服屋に向かった。  店に入ると女性数名に囲まれてシルクやらの生地を広げて見せてくれる。少し見た後1番安い青のクルタと白のパジャマを購入した。周りの女性達は、何やら不満気だった。  もう特に欲しいものは、無いというのにノディが、もう少し付き合ってくれと言うので  「何で」 とたずねると、インドでは購入するかしないかに関わらず店に連れて行くだけで、何ルピーかのマージンが貰えるらしい  「うーんじゃあ少しだけね」   「サンキュータケシ」 と、またスクーターに2人乗りで、今度は宝石屋に案内された。買う気はないものの日本とは比べ物にならないほど安い。誕生石のアクアマリンのピアスがとっても気になったけれど我慢する。  店を出て 「もう超商売熱心なインド人相手に断わるのも疲れたから帰ろう」 と言うと  「後もう1軒だけ最後だからお願い」 と言うので  「本当に最後だからね」 ともう1軒付き合うことにした。  そして案内されたのが小さな旅行会社だった。中に入るとインドの西側の砂漠地帯のラジャスターン州というところのツアーをすすめられた。専属のドライバー付きで15万也だという、ラジャスターンには興味はあったけれど15万也は高すぎるので丁寧に断わると7万円でいいと言う。とても迷ったけれど2週間ドライバー付きで7万円は安いかもしれないと考え迷ったあげく行くことにした。  次の日の早朝、若い細身のインド人が、泊まっているグリーンまで迎えに来た。僕はそのドライバー、ラダという男にツアー中に泊まるホテルは、安い所にしてくれと伝えた。  それから14日間ラジャスターン州を観て周った。ラジャスターンでは有名な観光地を周り、宝石の特産地ではアクアマリンのピアスを購入した。  その後の旅では、交通費、食費、宿代以外には、ほとんどお金を使うことはなくなる。  ラジャスターンでは象に乗ったりパキスタンとの国境2km辺りの場所をキャメルサファリ3泊4日で歩き回ったりした。最初にラダに約束した宿泊先は、こじんまりとしたホテルから中級クラス程度のクーラーは付いていないが、プールが付いているホテル等に泊まり、その都度ホテル代だけをラダに払った。  そして最後にウダイプルというところでラダと別れた。僕はそこから列車でムンバイ駅に向かった。  ムンバイ駅を出て1台のオートリキシャのドライバーと値段交渉してサルベーションアーミーというドミトリーに向かった。そこで1泊だけしてインドのリゾートのゴアのパロレムビーチで、1カ月間のんびりと過ごした。   それから1度デリーへ戻りノディのゲストハウスへ行くとノディが、 「タケシあなたラダにホテル代払っていたわけ?」 「はい払ってましたよ」 「あのツアーはホテル代もこみよ」 「えっ本当に?」 「タケシ今から取り返しに行きましょう」 「大丈夫かな?」 「大丈夫ついて来て」  こうしてスクーターに乗り旅行会社へと向かった。旅行会社に着き、ノディがラダにつめよるとラダは少しも悪びれることなく僕にウインクをする始末だった。これではらちがあかないと、社長に直接話しを始めた。社長はノディ以上に日本語がペラペラで物分かりも良かった。全てのホテル宿泊費を計算したところ7000ルピー当時の日本円にして17500万円位のお金が戻ってきた。     僕は旅の予定をほとんど決めてなかったけれど、唯一行きたい場所があった。ヨガ発祥の地といわれているリシケーシュだ。  早速、列車のチケットを取り、次の日ニューデリー駅から2時間遅れの2等寝台列車に乗り込みリシケーシュの隣町ハルドワールへ向かった。列車の中では小さな子供を連れた家族が目立った。  昼間は、座席に座り夜間は、折りたたまれた鉄製の板を出し座席の上に3段ベッドになる形だった。  昼間座席に座って新聞を読んでいると見知らぬインド人が僕の持っている新聞を何も言わずに取ったり、頭にカチューシャのようにかけているサングラスを取ったりするのでよく喧嘩になった。  インドでは世界の常識が通用しない。  ハルドワールに到着し駅を出ると沢山のオートリキシャのドライバーに囲まれた。値段交渉をして1番安いオートリキシャに乗ることにした。  ガンジス川を右手に川沿いを走ること数十分、数台のオートリキシャが集まる広場に止まった。 「ありがとう」 とお礼を言い、オートリキシャを降りてガンジス川にかかる歩行者専用の長い橋を渡る。渡りきり右に川沿いを歩いた。ここら辺はガートが密集している。沐浴している人を観察しながら道を歩いた。  食堂、商店などが並ぶ所をぬけると、人影はほとんどなくなり野良牛だけが目立つ様になった。その先に目的のヨガのアシュラム、ベドニケタンがあった。  門をくぐり中に入ると真っ白な白髪の長髪にこれまた真っ白な長い髭を生やした老人がねんきのはいっていそうな木製の椅子に腰をかけて見たこともないくらい大きな本を広げて読んでいた。 「こんにちは部屋は空いてますか」 と聞くとシャワー、トイレ付きの部屋150ルピーとシャワー、トイレ共用の50ルピーの部屋があるというので迷わず50ルピーの部屋にしてもらった。  その受け付けの建物を出ると芝生の中庭になっており中心にあずまやが建っている。そのあずまやの下にこちらに背を向けた格好で蓮華座で座り手のひらを合わせて上に伸ばしている。綺麗な金髪をしているけれど、あっと思った彼の着ている黒のTシャツに日本語で、"やっぱり島が好き"と白字で書いてある。なんだ金髪にした日本人かと行こうとしたが、彼が立ち上がりアーサナを始めた流れる様な悠然としたアーサナのポーズに1時間弱見入っていた。  そして彼は下にひいてあったコンパクトなヨガマットを脇に抱えるとこちらを振り返った。そこで僕はまたあっと思った。綺麗な顔をした二十歳前後の白人だった。彼は僕に気づくと 「やあ」 と片手を上げた。僕は戸惑いながらも笑顔で片手を上げて挨拶をした。  そして近づいて来た彼に 「そのTシャツの日本語だよね」 と英語で言うと 「そうなんだインドに来る前、日本でさとうきびがりをしてたんだ」 と答えた。僕も同じ時期にさとうきびがりを少し手伝ったことがあるので 「僕もきびがりを西表島でやっていたんだ」 と言うと 「そうなんだ、僕は毎日その島に夕陽が沈むのを見ていたよ」 偶然だった、僕は逆に彼の働いていた島から日が昇るのを見ていた。  こんな話をしていると当然のようにすぐに仲良くなった。  彼はスウェーデン人でユーンという名前だった。ユーンとは泊まっている部屋も近く、他にも同じ並びの部屋に男女問わず、日本人、韓国人、イギリス人、フランス人、ドイツ人、イスラエル人、オーストリア人、スペイン人等さまざまな国の人達が泊まっていた。  ここで約1カ月間過ごすことになるけれど、まるで多国籍アパートのようでとても楽しかった。  そして次の日朝、自由参加のヨガのクラスに出てみることにした。1レッスン50ルピーで、朝夕、日曜日以外やっている。  中庭の脇にある講堂に50人程度あつまり1時間半程ヨガをやった。メニューは、自分がいつもやっているのとほとんど同じだった。  ヨガを教えてもらうのは、初めてだったけれどあまり、自分には合っていないと思った。僕は人とやるより自分のペースでやるのが1番だ。  でもたまには、人と調和してやるのも良い。と部屋に戻って休んでいると40代位の細身の女性が訪ねて来た。今度はメディテーションのレッスンをしてくれるらしい。「20分後に講堂に来てください」ということなので、1人で行ってみた。講堂に入るともう話し始めていて、生徒は僕を入れて3人だけだった。1時間程彼女の話しに耳を傾けていたけれど、僕の聞き取れる単語は、チャクラだけだった。そして最後に1人1人に質問をしていたけれど、僕はそれも聞き取れず 「?」 を返した。すると生徒の1人の白人男性が、 「英語分かるよな」 と言うので 「まぁ少し」 と答えた。そして授業は終わり外に出た。                     中庭に出ると建物の壁に赤で"COLDWATER"と書かれていてその下の穴から銀色の蛇口が出ている。部屋に戻り、愛用の水筒を取りに行き水を入れた。生水じゃないかと思ったものの少し飲んでみることにした。とても美味しかった。インドに来てから、こんなに冷えた飲み物は無かった。とにかくキンキンに冷えていた。  僕は、生水かどうかも気にせずごくごくとお腹いっぱい飲んだ。もちろん無料だった。その時から、この水しか飲まなくなった。  それから3日がたった。いつものように中庭に出て水をくみに行くと "COLD WATER"の前に行列ができていた。1番後ろに並んで、汲み終わり、部屋に戻った。  その晩、激しい腹痛に襲われた。10分おきにトイレに行かなくては、ならなかった。次の日も1日中トイレとベッドの往復だった。  気づいてみるとそのアシュラムに泊まっているほぼ全員が、お腹を壊してグロッキーだった。  それも少しづつ落ち着いてきた頃、部屋の外の廊下で数人で話していると、屈強な体つきのいつも上半身裸の棒使いのおじさんが、歩いて来た。こちらから挨拶してもいつも難しい顔をして答えてくれずいつも無愛想だ。その時も挨拶をしてもこちらを見向きもせずに前を通り過ぎトイレへと入って行った。話しているうちの1人の日本人が 「あのおじさんだけだねピンピンしてるのは」 と言った。みんな一様にうなずいた。その直後トイレの方から「ビビーブブービシャーバシャバシャ」とものすごい音がして 「何だあのおじさんもなんじゃん」 と、みんないっせいに声を出さずに爆笑した。    それから何日かしてアシュラムの住人数名と食事をした後(ちなみにこのリシケーシュの街は、町全体が聖地となっており、牛、豚、鳥、魚などの肉類はもちろん酒類も売っていない) ユーンが 「いい所があるから息抜きに遊びに行かない?小さいけれどいい滝があるんだ」 と誘ってくれたので、食事を済ませ、僕とユーンともう1人日本人のさとるの3人で、滝へ行くことにした。  リシケーシュの街から隣町まで歩きそこからオープンのジープをチャーターして、狭い車内に乗り込んだ。  ほとんど舗装などされていない道を猛スピードで走り抜けていく、1本道だが他の車には1台もすれ違わなかった。1時間程走ると小高い山のふもとで、ジープを降りた。するとユーンは、 「ついてきて」 と木が生い茂る山道を登って行った。前に1度しか来たことがないと言っていたのによく迷わずに行けるなと感心していると水の流れる音がした気がした。すると 「もうすぐそこだよ」 とユーンが振り向いて言った。  鬱蒼とした木々の間をぬけると少し開けた空間に出た。確かに小さいけれど綺麗な滝があった。 3人ともすぐに着ている服を脱ぎ捨て水着になって滝壺に飛び込んだ。我を忘れて子供のようにはしゃいで遊んだ。  日も暮れ始めようかという頃、さとるが誰に言うでもなく 「腹減ったー」 と言った。確かに3人共腹ペコだった。それに冷静に考えてみると誰も食料らしい食料を持っていなかった。唯一あるのは、僕が持っている飴が9粒あるだけだった。  来る時にチャーターしたジープのドライバーとの約束の時間まではまだ丁度1時間あったけれど山を降りることにした。下に降りてもやはりまだジープは、来ていない。  飴玉9個を3人で分けて、僕は1個、口に入れた。イチゴ味の飴が空腹にはたまらなくガリガリと噛んで食べた。  約束の時間がきてもジープは一向に現れなかった。それから更に1時間待ったけれど来る気配がないので来た道を歩いて戻ることにした。1本道だから必ず鉢合わせするだろう。  空腹の3人で、あれが食べたいこれが食べたいとワイワイと歩いて行った。  4時間歩いた。みんな無言だった。時刻は、夜中の12時をゆうに回っていた。すると何も無い山道の先の右側がボヤーと明るくなっているのが見えた。近づくと開けた空き地に大きな古びたジュータンが敷いてありその奥にかっぷくのよい女性が3段積み上げたレンガの上に腰をかけていた。女性のまえには、コンロが置いてある。  僕達は、ドキドキしながら声をそろえて 「何か食べるものはありますか?」 と訪ねた。 「あるよ」 僕は訪ねた 「何カレーがありますか?」 「カレーなんてないよ」 「カレーはないの?」 「当たり前だよこれしかないんだから」 と目の前の使いこまれたガスコンロを指差した。よく見るとガスコンロの上には、同じ色の鉄製のアミがのっている。女性のそばには、大きな白いお皿が3枚積み重ねられていて、木を編んだざるには、なす、トマト、人参、ピーマン、ジャガイモ等がたくさん積んである。 「何ができるんですか?」 「これしかないんだから焼くしかできないよ」 「お願いします」 「はいよ」  僕達は大きな絨毯の真ん中を陣取り、料理ができるのを待った。  野菜の焼ける香ばしい臭いが、たまらなかった。  15分程待つと大きなお皿に焼き野菜が、たっぷり盛ってある。 「はいどうぞ召し上がれ」 「いただぎす」 何から食べようか迷った。ナスから食べることにした。あつあつのなすを、素手でつかみとり、かぶりついた。甘いナスの汁が、口の中いっぱいに広がった。気を失いそうなほど、美味しかった。次に、トマト、ジャガイモ、オクラ、ピーマンと食べ、最後にとうもろこしを一本丸かじりした。  3人共大満足だった。笑い話をしていると肝心なことを思い出した。 「ここから街はすぐですか?」 「そうだねだいたい歩いて5、6時間くらいかな」 「車は近くでひろえる?」 「こんな山奥のこんな夜中に車なんか滅多に通らないよ」 「そうだよね」 「じゃあ歩くか、ご馳走様おいくらですか?」 「いいよ、そんなに美味しそうに食べてくれたあんた達からお金なんかとったら神様からバチがあたるよ」 「本当に?ダンニャワード」 「それともう30分位で旦那が迎えに来るから乗ってくかい」 「本当にありがとうございます」  それから丁度30分後にTATA社の白のセダンに乗って旦那さんが現れた。軽く挨拶をして、後部座席に3人並んで座った。夜も明け始めていた。30分で街に着いた。  お礼を言って車を降り2人と別れた。  僕はとってあった飴を2個いっぺんに口に入れた。イチゴ味とレモン味の飴が甘酸っぱくて美味しかった。  リシケーシュを後にしてガンジス川最上流最後の街ガンゴートリーに行くことにした。  バスに乗りヒマラヤの山々を越えてオンボロバスは走って行く。山越え谷越え走って行く。タイヤ1本分外れれば谷底という山道を進んで行く。崖っぷちギリギリを行く時は、流石のインド人もビックリだ。落石も頻繁にあった。1日がかりでやっと目的地の街ガンゴートリーに着いた。ガンジス川がゴウゴウと荒れ狂っていて川の脇にあるチェーンに捕まりながら沐浴をした。少し上の氷河から溶け出したものなので凍えるほど冷たかった。  同じガンジス川なのにこちらでは激流となりリシケーシュのような穏やかさは微塵もなく、もし誤って川の流れにのみこまれればひとたまりもない。  商店が並ぶ狭い道に1軒だけの食堂を見つけダールカリーを食べ腹ごしらえをした。  次に泊まる宿を探したけれど、ガイドブックも持っていない英語もほとんど伝わらずに探しあぐねていた。  日もすっかり暮れて街灯もない道を月明かりだけを頼りに歩いた。  商店街をぬけて適当に道を行くとこの辺りにはふさわしくない大きく立派な建物が見えた。  すがる思いで立派な門をくぐり中に入ると数人の男性がいた。 「今晩こちらに泊めて頂けないでしょうか?」 「ナヒーン」 英語が伝わらないらしい。身振り手振りで目を見て困っていると伝えると、どうやらここはインド人専用のアシュラムだということらしい。それでもなんとかお願いできないかと言うと1人の若い男性がついて来いと手招きをしたので後について行った。2階建の建物の外にある階段を昇り、目の前の扉を開けて中に案内された。 「ここでいいなら」 というようなことを言っている。うれしくて 「ダンニャワード」 と感謝の気持ちを言葉にした。  階段を降りて行く青年にもう2、3度 「ありがとう」 と言うと、もういいよというように照れ臭そうに手をあげていた。  部屋は12畳程あり部屋の半分を高く積まれた布団が占領している。どうやら布団部屋のようだ。  部屋の明かりを消してみた。物音ひとつ聞こえない。インドに来てからこんな静かなところは初めてだった。  昼間は人、車、牛、猿の喧騒の中でインドに数多くある寺院の中には、朝早くから夜暗くなる頃まで外に向けられたスピーカーからひび割れた大音量で音楽が流れていたりする。  久しぶりの静けさが、心地よく瞑想をしてみることにした。バックパックからローソクを取り出して、ローソクたてに置いた。蓮華座で座り半眼でローソクの炎の根元あたりを見続けること2、3分、ローソクの炎と自分との中間あたりに薄緑色をしたものがボヤーっと現れた。不思議に思い、それを見ていると、薄緑色の太い枝分かれした血管のような管の中をハート型をした物体が流れている。なんだろうと数秒間見ていると突然それがキュイーンと音がしそうな高速で回転しはじめた。しばらくして僕は集中力をなくして、はっと目を見開いた。するとその薄緑色のものは消えた。  なんだったんだろうと、少し考えた結果、あれが、ハートチャクラだったのではないかと思った。ハートチャクラは緑色で回転していると言われているからだ。  この後これまでこれほどハッキリとチャクラらしいものを、見たことはない。  それからデリーに戻りお金も尽きてきたので日本に帰ることにした。  やっぱり日本が最高だった。                
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