126人が本棚に入れています
本棚に追加
春樹はドリッパーなどの道具を流しに移しながらなんともいえない、渋い顔をした。そのまま視線を落とし、蛇口を捻る。途端、ざぁっと水が落ちる音が耳朶を打った。
「……俺は、あんまり乗り気じゃない」
「なんで?」
私はコーヒーカップを両手で持ち、すかさずカウンターの中で洗い物を進める春樹の表情を覗き込む。すると、春樹ははっとしたように手を止めた。
「…………」
しばらくの間、蛇口から落ちていく水音とともに妙な沈黙が私たちを包んだ。クォーターである色素の薄い春樹の瞳には明らかな動揺の色が見てとれる。
私は何か答えづらいような質問をしただろうか。直前の自分の言葉をかえりみるも、心当たりは見当たらず目を瞬かせて途方に暮れる。
「――大勢の人に淹れるより……」
「え?」
小さな声で言葉を落とした春樹は何かを迷うように私からゆっくりと視線を外し、小さくため息を吐き出した。その仕草の意図が読めず、私は不思議に思いながら首を傾げる。
「? 春樹?」
「……いや。俺はマスターみたいに無料の人生相談所はやりたくないから」
私の問いかけに春樹は小さく頭を振った。少しだけぶっきらぼうな春樹の物言いに、私は思わずぷっと吹き出してしまう。
このお店の店主であり、彼の伯父でもあるマスターは、気さくで常に穏やか。そんなマスターはその気安さと人当たりのソフトさで、誰もが初対面でも知り合いのような口調で話す事が出来る。マスター自身はそんなことを意識してはいないのだろうけれど、彼は他人の本音を引き出せる不思議な力を持っている。だからなのか、このお店は人が集うとあっという間に人生相談所のような場所になってしまうのだ。
「あぁ、確かにねぇ。本当に喫茶店じゃなくて人生相談所かしらって時、あるもんね」
「そうそう。だから俺は後継ぎにはならない。っていうか、マスター自身が後継者を作る気がなさそうだし」
「あ~。自由人、っというよりペガサスみたいだもんね、マスター」
「いや、俺の母さんには負けるよ……マスターもぶっ飛んでるよなって学生の頃から思ってたけど、実は割と常識人だったんだなって一緒に住んで実感した」
春樹は苦虫を噛み潰したように、げんなりとした表情を浮かべた。その様子に、私は思わずくすりと笑みをこぼす。
そのまま、両手に持ったコーヒーカップにそっと口づける。まろやかなミルクの味わいと、酸味と苦みのバランスが絶妙で芳醇な香りのカフェオレは相変わらずとてもおいしくて、猫舌の私にちょうどよい温度だった。
「美味し……」
「ん。よかった」
小さな私の囁きが空気に溶けていく。じわりと胸に熱い液体が染みていくのを感じながら、私は――今日の春樹の笑顔はいつにも増してやわらかいな、なんてことを考えた。
最初のコメントを投稿しよう!