126人が本棚に入れています
本棚に追加
M×K
「ねぇ、マサ。私、コーヒー飲みたいんだけど」
「…………は?」
カナさんの赤い唇から転がってきた想定外の言葉。夕食の後片付けをしていた俺は皿を拭き上げる手を止め、思わずぽかんと口を開いた。数秒ののちに我に返り、眉を顰める。相変わらずこの人はこうして突拍子もないことをやってのけて、俺際限なく驚かせていく。
「……いや、カナさん妊娠中でしょ?」
雨が静かに降り注ぐタンザニアの十一月。俺が日本から移住してきてようやく一年が過ぎ、カナさんのお腹も大きくなりつつある。最近は胎動を感じることもあるようで、先月は俺が手を当てても時折動きが認知できるまでになった。
「だって、お医者さんは一杯くらいならいいって言ってたわよ? だいたい、マサが過保護すぎるだけなのよ。私まだ全然動けるのに、食事の準備もお皿洗いもぜーんぶマサがやるっていうから」
ダイニングチェアに腰掛けたまま不機嫌そうに頬杖をつくカナさんの鮮やかな赤い唇がへの字を描いている。
六月にカナさんの妊娠がわかり、俺は夕食後のコーヒーをやめた。それどころか、分担していた家事も俺がすべて引き受けるようにしている。最近、カナさんに対して過保護になっている自覚は大いにある。それもそうだろう、彼女は四十路に入ってからの初産でもあるし、仕事となるとカナさんはいつだって自身の身体を顧みないのだから。
「それでもカフェインは今はカナさんの身体にもよくないから、だめ」
妊娠中は何が起こるがわからない。もし彼女のすべて身に何かあったら文字通り俺の生命をかけてやっとの思いで手に入れた夜明けをまた失うなんて、もう考えたくもなかった。
カナさんの要望を一蹴し、拭きあげた皿を棚に仕舞っていく。すると、カタンと音を立てて席を立ったカナさんが軽やかな足取りで俺の隣へと足を進めた。
「マサならそう言うと思ってたから、兄さんに送ってもらったの。......あった、これ。これならいいでしょ?」
カナさんは意気揚々と生活用品を収納している棚の奥から見慣れた茶色の紙袋を引っ張り出した。
『デカフェグァテマラサンタカタリーナ農園』と義兄の文字で記されたそれを手に持った彼女の楽しげな表情を見遣り、俺は思わず額を抑える。
(やられた......)
マスター先月、義兄から珍しく俺宛てに電話があった。要件としては日本の腐れ縁夫婦にも子宝が恵まれたという話。正直聞きたくもない話題だったけれど、まぁ、あちらも無事に生まれたらいいとは思う。
恐らくその時からきっとこの兄妹に仕組まれていた。あの夫婦もマスターの店の常連客。コーヒー好きなので、デカフェ豆の需要があると言いたかったのだろう。毎度毎度、この兄妹は俺予想外の方向に振り回してくれる。
「~~~、わかった……」
「ふふふ、ありがとうマサ」
最初のコメントを投稿しよう!