機嫌予報士

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 2022年夏、大学四年生の僕は就職活動に悪戦苦闘していた。  某人材会社の調査によると、この頃の内定率は76.8パーセントだったのだが、僕は未だに一社の内定も勝ち取っていなかった。いくらマイペースな僕でも焦りが募っていく。概ねの敗因はわかっていた。面接での人事担当者のリアクションからも、僕はその他大勢の中に埋もれてしまっているのだ。面接では良くも悪くも人事担当者の目を惹くことが大切だ。  そこで僕は履歴書に手っ取り早く記載できる珍しい資格や活動はないものかと、ネットで調べてみた。とはいえ一朝一夕で取れる資格はそうそうなく、またボランティア活動もありきたりなものばかりだ。  何度か頁をめくりスクロールしていくと、ある文言に僕の指は止まった。そこには『機嫌予報士』とある。僕は気象予報士の間違いではないかと思ったのだけれども、説明文にはこう記してあった。 『目の前の人の機嫌を予知することで、あなたの周りから諍い事はなくなります』  クリックすると『世界平和を謳う会』というNPO法人のホームページにアクセスした。活動理念として『小さな諍いをなくすことが世界平和への第一歩』更に読み進めると『目の前の人を不機嫌にすると、回り回って自らに災いが降りかかる。そうならないために、あなたも機嫌予報士の資格を目指そう』とある。  僕はこの文言が胸に突き刺さった。というのも、二週間ほど前に僕はあれこれ煩く小言を言う母に対して「うるせえ糞ババア」と暴言を吐いてしまった。それは本心ではなく、売り言葉に買い言葉であったのだが、母はひどく落胆した表情を浮かべていた。反抗期のなかった僕の暴言でパニックに陥ったのか、母はそれをヒステリックなトーンで父に相談した。両親が僕の態度について口論する声が僕の部屋まで聞こえてきた。それ以来、父は家に帰って来なくなった。  暗鬱な様態の母を見かねて、僕は例の暴言を詫びたのだが、母は心ここにあらずといった具合だった。家庭でのそんなモヤモヤを僕は交際相手に当たり散らし、自業自得なのだが、その日のうちに彼女にフラれてしまった。挙句、そんな苛立ちをスマホにぶつけて破損させてしまう。  暴言を発して母の機嫌を損ねて僅か二週間あまりで、僕はあまりにも多くのものを失った。そんな状況がこの説明文とリンクしたのだ。  僕は家族の関係修復目的、それが駄目でも面接時の話のネタになるだろという打算も後押しして『機嫌予報士』という何とも奇妙な資格を取得してみようと考えた。  なんでも、その資格を取るには半日の座学を受け、理解度テストで一定の点数を取れば合格とのこと。費用は8千円。僕はさっそく受講の予約を入れた。  その週の土曜、神田の雑居ビルの5階、いささか怪しげな宗教臭が漂っていたのだが、僕は行くだけ行ってみようと『世界平和を謳う会』の扉を開けた。  てっきり教室みたいな所だと思っていたのだが、そこは保健室ほどの広さに机が二つとパーテーションで仕切られた簡易的な応接室があるだけだった。二つの机には老人と老婆が座っていた。 「今川英明と申します」 「お待ちしておりました。適当に座って下さいな」  老婆は応接室のソファを促したのだが、僕は場違いな気がして立ち尽くす。 「ほいじゃあ、そろそろ始めますか。なにボッとしとる、そこのソファに座んなさい」  そう言ったのは白髪の老人だった。この部屋には僕を含めてこの三人しかおらず、他の受講者はいないようだ。 「受講者は僕一人ですか?」 「勿論じゃ。うちはマンツーマンじゃからな」  僕は拍子抜けしたのだが、老人があまりにも屈託のない笑顔で言うものだから、僕は促されるままソファに腰を下ろした。老人は僕の真向かいに座る。 「わしは、ここの理事長の権藤じゃ。ほいじゃあテキストの1ページを開いてくれるかの」  こうして機嫌予報士の講習が始まった。  結論からいうと、僕はこの資格を得ることができた。それもその筈、何ひとつ難しいことはなく、小学校の道徳の授業のようなもの。大まかな内容は、相手の嫌がることをしない、反論をしない、不機嫌シグナルの察知、その対処方の四項目。きっと幼稚園児でも合格できるだろう。 「合格おめでとう」 「ちなみに、この資格って何人持ってるんですか?」  僕が訊ねると、権藤氏は指を三本立てた。 「300人ですか?」 「いいや」 「30人ですか?」 「いいや」 「まさか……」 「わしと婆さんと君じゃ」  僕は何と返していいのかわからず、一礼だけして部屋を後にした。何はともあれ、これで面接時のネタになるだろう。
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