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2023年7月、僕はソリッドシステムのアプリ開発部に所属していた。
部署の中での僕の役割は新規アプリの企画立案だ。五名で構成される企画課において、僕は一番の後輩であったため、気楽な立場ではあったのだが、7月の企画会議ではそうも言っていられなくなった。
「今川、何かいい案ないか?」
近藤課長が僕に意見を求めてきた。これは珍しいことである。というのも、これまで僕の企画が採用されたためしはなく、近藤課長は僕をパシリ程度にしか考えていない節がある。けれど難航する会議に痺れを切らし、僕に意見を求めてきたのだ。無理もない、アプリ開発ベンダーは凌ぎを削り合い、この業界は飽和状態を迎えていた。弊社もアイデアは枯渇し、いよいよストックもなくなり、まさに猫の手も借りたいが如く、僕に出番が回ってきたのだ。
「そうですね……」
僕はそう言って長考に入った。これまで不採用になった案の中でマシなものはないだろうか? あるいは新規で面白そうな企画はないだろうか? その刹那、ふと機嫌予報士のことが頭を過った。あの面接以来、多忙ということもあり、それは僕の頭の片隅に追いやられていた淡い記憶だったのだが……。
「僕は機嫌予報士という資格を持っているのですが――」
僕はそう切り出して面接時の様子を話していった。一蹴されるかと思いきや、存外、近藤課長をはじめとする諸先輩方は興味ありげに耳を傾けてくれた。僕は調子に乗って続けた。
「その機嫌予報士をアプリ化するんです。クイズ形式で幾つかの設問に答えていき、TOEICのスコアみたいに理解度を数値化します。あと、機嫌予報士じゃ堅苦しいのでKGYって表記にしてみるのもいいかもしれません。KGYのスコアを持った人同士であれば、まず諍いが起こる心配はありません。相互にスコアを確認し合える機能を搭載させれば、この人はKGY600だから安心だ、みたいな感じでコミュニケーションツールになります。この国の国民の半数がKGYのスコアを持てば、この国から争いがなくなります。それだけじゃありません。全世界に向けて配信できれば世界平和も夢ではないでしょう」
それは僕の口から発した言葉とは思えないくらい、僕は悦に入っていたのだと思う。唇を結んでから冷静に考えると、こんな荒唐無稽な企画、待っているのは失笑だろう。ところが――。
「今川、それいいじゃなか。世界平和はさて措き、コミュニケーションツールとしてはいけるかもしれんな。法人に営業かければ、社内ツールにも転用できそうだな。今川、急いで企画書にまとめろ」
かくして僕は企画書作成にあたるのだが、その前にやっておかなければならないことがあった。もしも企画が正式に通り、アプリが配信されることになれば、権利の問題が生じる。そもそも機嫌予報士は『世界平和を謳う会』が認定している資格だ。
ということで、僕はその許可を得るため『世界平和を謳う会』に赴くのだった。
神田の雑居ビルの5階、あの頃と何も変わっていないようだった。僕は扉を開ける。
そこにはあの時のお婆さんがいた。
「ごめん下さい」
「あらあら今川さん、お久しぶりね」
「僕の名前覚えているんですか?」
「そりゃそうよ、たった三人しかいない資格取得者なんですから。そんなことより、今日はどうなさったの?」
「本日はお願い事があって伺ったのですが、理事長は?」
「あの人は先月逝っちゃったわよ」
「そうでしたか……何も知らずに申し訳ございません。今はどなたが理事長を務めているのですか?」
「一応は私ってことになってるけど、ここはもう閉めようかと思っていたとこなの」
「それは残念ですね。実はお願い事というのは――」
僕は企画の件を説明した。お婆さんには難しい話かもしれないと思ったのだが、お婆さんは理解してくれたようで、淑やかな目で僕を見据えて言う。
「その許可を貰いたいって訳ね」
「仰る通りです」
「ひとつだけ条件があるわ」
「条件とは何ですか?」
「あなたがここの理事長になることよ」
「僕が『世界平和を謳う会』の理事長ですか!?」
「そんなビックリしなくていいわよ。私が死ぬまでは引き継ぎ期間として補佐するから、あなたは今まで通り会社員でいいのよ」
弊社は自由な社風で、副業も許されている。NPO法人の理事長になることが副業の範疇に収まるのかはわからなかったが、僕が理事長になることで権利問題はクリアされるのだ。
「わかりました。微力ながら務めさせて頂きます」
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