2020年11月20日(金)最期まであと12日

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2020年11月20日(金)最期まであと12日

薄曇りの朝だったが、Mは珍しく笑っていた。 朝食前に30分ほどリハビリの全身ストレッチを行うのが日課だ。寝たきりだと筋肉や関節が衰えて車椅子に移乗することもできなくなるから、と専門家からアドバイスをもらった。 Mが再び車椅子で外に出られる日が来ると、Tはそう信じて朝のストレッチを続けてきた。 ストレッチは凄く痛いらしい。30分ずっとMの表情は歪みっ放しだ。辛くて唸り声も上げる。しかし大声で叫んだり、抵抗したりすることはこれまで一度もなかった。 Tがベッドに近付くと、Mは条件反射で身体を強張らせる。ストレッチが大嫌いなのだ。 「今日は、もういいか・・・・」とTは独り言の体で呟いた。 「よく頑張ったよ・・・・痛いのに・・・・ごめん・・・・悪かったなあ・・・・」 O先生の見立てをMが理解できているとは思わないが、Tの心の中で何かが弾けた。日を浴びぬ笑顔を眺めていると、終わりが近付いていることをMが感じ取っているような気がした。 いつまでもリハビリが始まらないのでMは不思議そうな顔をした。 「ミルクティー、飲もうか?」 ミルクティーという言葉に反応してMは嬉しそうに笑った。 液体栄養食を時間をかけて飲み、その後はひたすら背中を摩る。 背中を摩っている最中に・・・・ 「天国・・・・」とMが唐突に囁いた。 熱心なクリスチャンだったMが十字架の意味も分からなくなって祈りも忘れてしまう過程を見て、老いるというのは残酷なことだとTは思い知らされたが、この瞬間、もしかすると、そうではないのかもしれないと思い直した。 「天国・・・・」 それは偶々記憶の片隅に捨て置かれた単語が口をついて出たのではなく、その一言に全てのMの今の気持ちが凝縮されていたのではないだろうか。Tにはそう思えた。だから『聖油の秘蹟』のことをMに説明することにしたのだ。 「今度、神父さんが此処に来るんだ。神父さん、分かる? 痛いのとか、苦しいのとか、取り除いてくれる。罪も許してくれる。死んだ後、天国に行けなかったら困るだろう? だから天国に行けるように神父さんが祈ってくれるんだよ。それで安心して最期が迎えられる」 Mは無垢な表情でじっと聴いていた。 『聖油の秘蹟』は11月26日の9:30からに決まった。 「天国・・・・」というMの一言で、Tは或ることを思った。 Tの知らないところで、神様は日々、Mに語り掛けているのではないだろうか。Mがいつも笑顔を見せてくれて、苦悩や不安の表情を見せないのはそのせいではないだろうか。Mは信仰を忘れていないし、だからこそ『聖油の秘蹟』は何としても無事に終わらせないといけないと。
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