キッチンファイト①

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キッチンファイト①

TはMが料理をしているところを殆ど見たことがない。 子供の頃からそうだった。エプロンを結んだ背中しか見たことがなくて、手元で何が行われているのか覗いたことはなかった。 料理は得意じゃない、とMは自ら認めているが、運動会や遠足の弁当にはいつも大満足だった。あれが「母の味」というものなのか、或いは、その日は精魂込めて必死に作ったからだったのか。 久し振りに帰国した或る日のこと・・・・ 実家に戻ると、ダイニングには定番のトンカツや餃子ではなく正体不明の野菜炒めのようなものが並んでいた。Tは腹をすかせた犬の状態だったから、若干の違和感はあったのだが、とりあえず、かぶりついた。すると、妙な衝撃が身体中を駆け抜けた。 物凄く辛かったのだ・・・・ 麻辣の辛さではなく、シンプルな塩辛さだ。そんじょそこらの塩辛さではなく、力士が土俵に撒くようにしてぶち込んだとしか思えない、殺人事件のトリックになりそうなレベルの辛さだった。しかも驚いたことに、Mは平然と食べているではないか。 Tは初めてMが料理をしているところを見学することにした。 運動会や遠足や、こうやって料理を作ってくれていたんだ、と感慨深くMの手先を眺めていたが、次の瞬間、Tは意味不明の奇声を上げてしまった。 さっき多めの塩をふったばかりなのにすぐにまた大量の塩を足したのだ。そして間髪入れずに、これでもかと塩をふり掛ける。 衝撃だった。Mを独りにしておくわけにはいかないと痛感させられた。この『塩ふり無限地獄』によってTは海外中心の生活を見直すことを余儀なくされたのだ。 Tはこのとき、料理に挑戦することも決断した。この決断はもしかすると一年の半分はMの傍に居るという決断よりも大きかったかもしれない。Tはこれまで料理など殆どやったことがなかった。 Tは日本で仕事をしたことも殆どなかったので、商慣習に戸惑いつつ何とか働きながら、家に戻ればキッチンで格闘した。当面は栄養士が厳選したという触れ込みの弁当を頼んで時間稼ぎをして、先ずは、玉子焼き、魚の煮付け、餃子や春巻きといった中華、カレー、天ぷらといったMの好物が作れるように練習を始めた。 これまで何気なく眺めていたキッチンが突然、文字通り戦場と化したのだ。
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