天国の話

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天国の話

ハワイ旅行でのこと。 Mはその日、生まれて初めて高級ブランドバッグを買い、初めてカクテルを飲み、子供のようにはしゃいで、せっかくのカウントダウンも聴かずに十時頃には眠りについた。安らかで幸せそうな寝顔は、天国に召されてしまったのかと焦るほどだった。 深夜二時頃、部屋のバルコニーでTが酔いを醒ませていると、Mがガラス戸を叩いた。こんな時間に、とTはとても驚いた。時差のせいなのか、また興奮がぶり返したのか・・・・ バルコニーのハンモック風チェアーに凭れ、Mはミルクティーを飲みながら昔話をした。 Mは東京女子医専(現在の東京女子医科大学)に通うために知り合い宅に下宿することになった。無事に東京の最寄り駅に着いたところまではよかったが、地図通りに歩いたつもりなのに一向にその家に辿り着かない。そのうちに辺りは段々と暗くなってくる。当時、田舎から出て来た若い女性にとって東京で道に迷うというのは、いきなり戦場に放り出されたくらいの恐ろしさだったと言う。 Mが立ち往生していると、突然、明かりの中に手招きする人の姿が見えた。それは既に他界したMの父親だった。優しい笑顔で頻りに手招きしている。Mは父親の方に向かって歩いた。 角を曲がると、聴いたことのある声がして、下宿先のおばさんが駆け寄って来た。 「何時まで経っても来んから、心配になって、皆で捜しとったんよ。無事でよかったわ」 娘の窮地を見かねて父親が思わず天国から降りて来たと言うのだ。 「どうせ信じないだろうけど・・・・」と呟いてMは苦笑した。 せっかく父親が導いてくれた医学の道を断念することになってMは悔しかったことだろう。Mは岡山に戻りカトリック系のノートルダム清心女子大に入学し、在学中に洗礼を受けることになる。 Mが信仰に興味を持つようになった切っ掛けは、父親が窮地を救ってくれた、あの不思議な体験だった。もしかすると、父親が導こうとしたのは、そっちだったのかもしれない。 Tは子供の頃にカトリック教会の日曜学校に通った。一緒に通った子の殆どが洗礼を受けたのにTはクリスチャンにならなかった。きっとMは悲しんだと思う。 Mは波の音をBGMにして不思議な話を続けた・・・・ Mがノートルダムの寄宿舎に居たとき、またしても光に包まれた人に出会ったらしい。それが父親かどうかは分からなかったのだが、その人はMにこう告げたそうだ。 「目の前が茨の道でも恐れることはない。貴女は子供を授かり、二番目に誕生した子がきっと貴女を助けてくれるだろう」 「どうせ信じないだろうけど・・・・」とMは薄笑いを浮かべながら呟いた。 Tはこのとき、なぜかMの話を信じることができた。オアフの優しい風と宙に浮いているようなハンモックの心地良さにほろ酔い気分がプラスされて本当に天国に居るような心持だったからかもしれない。
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