魔法使い

1/1
前へ
/37ページ
次へ

魔法使い

最期の半年ほど・・・・ MはもうTが息子だということも分からなくなっていて、Tのことを魔法使いだと思っていたふしがある。いつも傍に居て痛みや苦しみを消し去ってくれる魔法使いだ。 痛いときや苦しいときにMは、か細い唸り声をあげてTを呼ぶ。 例えば、Mはベッドの上で寝返りが出来ないので長い時間同じ姿勢でいると関節や筋肉や皮膚が痛む。尾骶骨や背骨など骨の出っ張ったところに褥瘡(皮膚のただれ)があって痛くない姿勢を探り当てるのはかなり難しい。 Mの身体の向きを変えては「痛くない」か確認する。痛みや苦しさが残っているかどうかは表情で分かる。痛みや苦しさが消え去ると、Mは漫画のようなまん丸の目をする。今さっきまで痛くてどうしようもなかったのに、それがすっかり消え去ったからTのことを、魔法使いを見るような、驚きの目で見るのだ。 日によっては昼夜を問わず二時間毎にTを呼ぶこともある。Tの体力気力は限界に近付いていくが、Mのあの驚いた円らな瞳を見ると、不思議と疲労が吹っ飛んだ。 Mがまだ身体を少し動かすことができた頃は、ベッドの足下にセンサーシート(荷重がかかると反応する)を敷いてMが踏むとディズニーのエレクトリックパレードの音楽が流れるようにしていたのだが、それもTのことを魔法使いだと思うようになった一因かもしれない。 実際に『魔法使い』を決定付けたのは毎食後の手当てだったと思う。Mは体力低下のせいで何かを呑み込んだ後に胃液や胆汁などが逆流して息苦しくなったり腎疾患の影響で下腹部に痛みが走ったりする。痛みを緩和する手段を医者に訊いたところ・・・・ 「残念ですが、背中を摩ってあげるくらいしかないですね。背中全体をゆっくりと、できれば長い時間かけて摩ってあげると徐々に楽になってきます。でも看護師さんとかプロでも毎食後に長時間というのは難しいですからね。言うほど楽な作業ではありませんよ」 医者の言う通り、不自然な体勢で背中を摩っていると短時間でも予想以上に腕が疲れてきてすぐに棒のようになってしまう。 しかし、Mが苦しげな表情のままなのに摩るのを止めるわけにはいかない。痛みや苦しさが消え去って目を丸くするまで背中を摩り続けるしか選択肢はなかった。ときにはそれが三十分を超えることもあった。 それでも驚いて丸くなったあの目を見ると、不思議と疲労が吹っ飛んだ。 Mが亡くなる数日前のこと。いつものように朝日を浴びながらMの背中を摩っていると突然、MがTの名を呼んだのだ。 Tはあまりにも驚いて思わず手を止めてしまった。 「いつも、ありがとうね…」 Mは痛みに耐えるような表情のまま、そう囁いたのだ。 Mの声を聴くのは数カ月ぶりだった。 長くは続かなかったが、Mは確かに以前のMに戻っていた。 「どういたしまして」とTは答えた。 気が動転して、咄嗟にそんな他人行儀な返しをしてしまった。 実は、魔法使いはTではなくMだったのだ。 たった一言で、一瞬にしてTのこれまでの全ての苦労が報われたのだから・・・・
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!

116人が本棚に入れています
本棚に追加