2020年11月22日(日)最期まであと10日

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2020年11月22日(日)最期まであと10日

看護師さんがいつもより長くMを看てくれることになって少し自由な時間が出来たので、Tは気分転換のために久し振りに散歩に出掛けた。 O先生に訪問診療をお願いする以前にMが通っていたH医院は我が家から400メートルの距離にある。 H医院までのこの400メートルをMと一緒に数えきれないほど往復したが、もう二度とMと一緒に歩くことは無いのだと思うと、衝動的に辿ってみたくなった。 初っ端に三つの横断歩道が続く。どの横断歩道も比較的短くて普通に渡れば何の問題もないのだが、杖を頼りに歩いていた頃のMにとって、この三つの横断歩道をクリアするのは、かなり高いハードルだったと思う。 信号が青になったのと同時に歩き出して、順調に進めても、向こう側に辿り着くのは信号が切り替わるギリギリのタイミングになってしまう。だから横断歩道を70パーセントくらい行ったところでMは怖くてTの手を力一杯握り締める。 心無い運転手がクラクションを鳴らすこともある。TはMと車の間に立ち、車を見据え、「ゆっくりで構わないから」とMを安心させる。 妄想気味に、大袈裟に、あのときのTの心境を語るなら、横断歩道を渡る間、Tは攻殻機動隊の心境だった。敵が高性能のミサイルランチャーをこちらに向けて「とっとと渡れ」と脅してきたとしてもTは盾となってMを守りきるくらいの覚悟があった。 そこまでの思いには理由がある。 プロジェクトを始めるずっと以前のことだ。 Mの膝が悪化して独りでは不安だからTに戻って来て欲しいと連絡してきたことがある。Tは仕方なく帰国して、この400メートルの道のりもMに付き添って何度か往復した。 そのとき横断歩道を渡る際にMがいきなり手を繋いできた。Tは驚いたし、Mが完全に甘えて調子に乗っているのだと思い、照れ臭さもあって、その手を、何と、振り払ったのだ。 それ以来、Mは遠慮して手を繋ごうとはしなくなった。 もし、横断歩道を渡る間、世間が全て敵になるとしたら、Tに攻殻機動隊を望むのはMとしては当然のことだし、Tに手を振り払われたショックは強烈だったと思う。 Mの心にまだ傷が残っているかどうか分からないが、Tは横断歩道をMと一緒に渡る度に、あのときのことを思い出して、やりきれない気持ちになる。攻殻機動隊はせめてもの罪滅ぼしだったのだ。 今、こうして独りで渡ってみると、あまりにも短くて、記憶を辿る暇もなく、気が付いたら向こう側に着いてしまっていて愕然とする。 信号の切り替わりを眺めながらTは強く思った。 過去の苦い思い出が蒸し返されるとしても、この横断歩道をまたMを守って渡りたいと。 守るべきMの居ない攻殻機動隊には存在意義が何もないのだから・・・・。
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