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2020年11月25日(水)最期まであと1週間
Mはお風呂が大好きだ。
MはTたちを連れてずっと親戚宅に居候し肩身の狭い思いをしていたので湯船にゆっくり浸かることは叶わなかった。その反動か、やっと親子水入らずで暮らせるようになってからはいつも長湯だった。
風呂上りの火照った顔はとても幸せそうだった。
台湾でもハワイでも温泉の内風呂やジャグジーの在る部屋を選んだ。
杖や車椅子の生活になっても好きなだけ湯船に浸かっていられるように、我が家のバスルームは段々と機動戦士のカタパルトの様相を呈してきた。
洗い場の椅子は全てのパーツが取り外し可能で、Mがどんな方向からでも座れるし、Tはどんな方向からでもMの身体を介助できる。しかも縦横上下自在に移動できてバスタブの真上まで運んでそのまま湯船に浸かることも可能だ。
10分ほど湯船に浸かったところでTが「もう出ようか?」と訊ねると、悪霊を睨み付けるような目をする。
しかし遂に老いがMから大好きなお風呂を奪うときが・・・・
O先生から「身体の負担を考えると入浴は控えた方が・・・・」と指摘され、それからは温かいタオルで身体を拭くだけになってしまった。
明日は『聖油の秘蹟』があることだし、TはO先生に入浴サービスについて相談した。O先生は「依頼しても構いませんが、看護師さんが無理だと判断したら入浴は諦めて下さい」と念を押した。
入浴サービスは介助スタッフが男女1名ずつ。看護師が加わって3名で対応する。看護師は慎重にMの体調を確認しGOサインを出してくれた。
「久し振りに湯船に浸かれるよ」とTが告げると、Mは何もかも理解しているかのような顔で微笑んだ。
ベッドのすぐ横に小さな風呂桶が設置され、外に停めた車から湯を供給する。介助スタッフが2人掛かりでMの身体をシートごと肩の高さまで持ち上げてシートごと風呂桶に入れる。
Mは久し振りに湯に浸かって笑顔だった。スタッフたちもMの笑顔を見て嬉しそうだ。
入浴サービスが終わりベッドに戻って身体を拭いてもらっている最中にMは眠ってしまった。
ベッドの周囲に漂う湯上りの香りとMの少し火照った寝顔がTは本当に嬉しかった。
しかし実は、Mの今の体力では入浴サービスはとても苦痛で、それでも誰かを喜ばせるためにMは湯船に浸かって一生懸命笑顔を見せていたのだ。
そのことを、Tは1週間後に知ることになる。
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