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2020年11月28日(土)最期まであと96時間
この日もMは朝から調子が良かった。
まるで何もかも思い出して以前のMに戻ったかのような、そんな知的な表情に見えた。
もしかしたら『聖油の秘蹟』のおかげなのかもしれない。
昼前に、Mの友人三人組が訪ねて来た。もう何十年も一緒にカラオケに通う仲良したちだ。
中でもKさんはMのことを「命の恩人」といつも言っている。MとKさんの間に何があったのかTは知らないが、「Mのためならどんなことでもする」と宣誓するほど慕っているのだ。
ちょうどMのおむつを替えていたところだったので、Tは三人にこう告げた。
「今取り込んでいて、皆さんに上がっていただけるような状態ではないので、申し訳ありませんが、日を改めて、また来ていただけませんでしょうか?」
Tが外し忘れたビニール手袋を一瞥して、三人はすぐに察してくれた。
「コロナが収束したら、またカラオケに行きましょうって、お伝えくださいね」
Kさんはそう言って、Mの好きなマスカットのゼリーを差し出した。Tは慌てて手袋を足下に落とし、ゼリーの箱を受け取った。
三日前ならTは無理してでも三人にMの顔を見て貰ったかもしれない。最後になるかもしれないからだ。
今はと言うと、Mにはまだ先がある、とTは信じ始めている。だから「日を改めて」と本心からそう告げたし、マスカットのゼリーも食べられるようになるかもしれないと微かな期待を抱き、自然な気持ちで受け取れた。
三人は穏やかな笑顔を残して帰って行った。
この日は千客万来と言うか、昼過ぎに、何十年か振りにMの義理の弟から連絡が入った。Mたちが居候していた家の末っ子で、その人だけはMを実の姉のように慕っていた。
その人が癌だというのは風の噂で聞いていた。
「もうこっちに来るのはこれが最後になるかもしれないと思って、お世話になった人のところを回っているんだよ。お姉さんにもぜひ会いたいんだけど」
Tはその人に、Mがもう相手のことを認識できなくなっていることを伝えた。それでも一目会っておきたいと切望されたので、仕方なくTは了承した。
日が暮れかかった頃、その人はやって来た。彼の実の姉と妹も一緒だった。
「やあ、お姉さん、随分、ご無沙汰しています。Yです」
その人が話し掛けると、Mは嬉しそうな顔をした。
その人はMの手をそっと握って、近況や、これが最後になるかもしれないことを、それとなく話した。Tの知っているその人は、若い頃はラグビーの選手で歳を重ねても屈強な肉体と精神を維持していた印象があったが、心身共に別人のように衰えているのが一目で分かる。
その人は別れ際にTにこう言った。
「お姉さんの顔を見たら、Tくんがよくやってくれているのが分かったよ」
その人はTに頭を下げて「お姉さんのこと、よろしくお願いします」と絞り出すようにして言った。
Mもその人も確かに老いて衰えてはいるが、二人が存在しない世界をTはこの時点では未だ全く想像できなかった。
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