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2020年11月29日(日)最期まであと72時間
Tが「買い物に行く」と言うと、Mはなぜか不安そうで悲しげな顔をする。
それで結局、看護師さんが面倒を看てくれている間に、こっそりと抜け出すことになるのだが、この日は珍しく笑顔で送り出してくれた。
少し自由時間も満喫し、買い物からの帰り道、見憶えのある軽トラックとすれ違った。毎年、年末が近づくとやって来る植木屋さんだ。Tとは十年の付き合いだがMとは三十年近くになる。
大将がわざわざ降りて来て、Tにこう言った。
「今日、やってしまおうかと思ったんですけどね。お母さんが駄目だと言われるから、来週の日曜、また来ますよ。来週の日曜は大丈夫ですよね?」
「あっ、来週の日曜、大丈夫です」
そう答えたもののTは訳が分からず頭の中が大混乱していた。
確かにMのベッドは窓際に在って、上半身を少し立てた状態にしてあるから窓の外の庭が見られる。大将の顔を憶えている可能性もないとは言えないが「駄目だ」という意志表示が出来たとは考え辛い。
呼び止めて問い質そうか迷っているうちに結局、軽トラをやりすごしてしまった。
Tは急ぎ足で我が家に戻った。もしかしたらMが何もかも思い出して会話ができるようになっているのではないかと、そんな手前勝手な期待がどんどん膨らんでいた。
我が家に着くと、ちょうど『表紙のあいつ』が出掛けるところだった。Tのことをチラッと見る。「昔のMに戻ってるよ」と報告してくれた気がした。
Tはすぐにベッド脇に駆け寄って話し掛けた。とりあえず植木屋の話からだ。
しかし、Mは何時もと同じように穏やかな表情で聴いているだけだった。
だからTが買い物に出掛けている間に起きた奇跡については、はっきりしないままだ。
それでもMが植木屋の大将に「今日は駄目よ」と伝えたシーンを思い浮かべるだけでTは嬉しくて胸躍った。
Mにはまだ先がある。そう信じられるだけで、同じ一日でも充実感が全く違うのだ。
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