1.灰原胡桃

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 あたしですらそうなんだ。あたしですら、そんなちっぽけな理由で素直に頷けて、軽音部に入ろうって決められて、ボーカルだって楽しめているんだ。  だから遼くんも、「司馬くん」もやってみることから逃げていたらダメだと思った。だからあたしは「文句付けてくる人の言うことなんか気にしてたら、そのうち掲げてる夢の方からさよならって言われるよ」とスマホの画面を見せつけた。それで彼の中で決心がついたらしい。 「分かった。一回だけね」 「うん」 「失敗しても許してね?」 「そんなの全然気にしないから安心して弾いて」 「ありがとう。それじゃあ……」  遼くんはその場に立ち上がって指のストレッチを始めた。何度か深呼吸を繰り返した後で、「よし、OK」とベースを構える。あたしは画面上の再生ボタンを押す。  瞬間、それまで見ていた彼と本当に同じ人なのかと疑うくらい雰囲気が変わった。少し強く吹いた風を気にすら留めないで、ほんの少しもずれること無く指で弦を弾いていく。無駄な動きがまるで無い、本当に研鑽(けんさん)され尽くした演奏だった。スラップもピッキングも、演奏する全部が「生半可な気持ちでやってない」と胸の奥に直接語りかけてきていた。  正直、圧倒された。それに感動もした。こんなにすさまじいのに「恥ずかしい」なんて、どれだけ謙虚なんだろう。ちょっと怖くすらなった。  魅入られているとあっという間に演奏が終わってしまった。 「どうだった?」  ちょっと不安そうな顔を見て、やっとあたしは「あっ、そうだった」と現実に戻ってきた。戻ってきたは良いけどどう言い表して良いものか分からなかった。どんな風に言っても釣り合わなくて陳腐な感想になると思った。だけど言い出しっぺはあたしだ。  どこにでもいる普通の女子高校生の語彙力を結集させたところで、彼の演奏に似合うような言い方なんてできそうになかった。だから思ったことを素直に言った。 「これでプロになれないんだったら、たぶんそう言った人たちが思ってるプロのレベルは相当ハードルが高いね」  それ以外に言葉が出てこなかった。こんなので伝わるか微妙だったけど、遼くんは泣きそうな、それでいて心底嬉しそうな顔をして「そっか」と笑った。  日差しが温かくて、風は少し冷たくて……。ラテアートみたいな乳白色の雲が浮かぶ春空が、あたしたちを包み込んでくれているような、そんな昼休みが過ぎていった。
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