第三章 自殺念慮

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第三章 自殺念慮

 ウエハーケースを洗浄装置に取り付けたところで、雅秀は背後から声をかけられた。  「そろそろ昼休憩だぞ」  振り向くと、同僚の菊池勇人(きくち ゆうと)がいた。  菊池は、全身を覆う布製の防護服のようなものを着用しており、唯一空いた目元部分からは、精悍な目が覗いていた。  こうして見ると、まるで、防疫でも行う衛生管理局の人間のようだ。  ここは半導体を取り扱っている工場である。そのため、作業場は埃が厳禁のクリーンルームとなっており、菊池が着用しているものは、それを防ぐためのクリーンスーツと呼ばれる作業着だ。  露出している部分は、目元だけ。だが、それだけでも、長い間接していると、相手が誰なのか簡単に判別できるようになっていた。  もちろん、雅秀も同じ格好である。  雅秀は、クリーンルーム内の大きなデジタル時計に目を向けた。  正午直前。菊池が言うように、昼食の時間だ。  「これが終わったらすぐに行くよ」  雅秀は、目の前の装置を顎でしゃくった。  「オッケー。じゃあ先に行ってるわ」  菊池はそう言うと、長身の体を揺らしながら、クリーンルームを出て行った。  雅秀は、洗浄装置のパネルを操作し、ウエハーの洗浄を開始させる。  ウエハーは、半導体の元となるチップを集合させたレコードのような物体だ。精密であるため、幾度となく洗浄が必要となる。  この装置だと、洗浄が完了するまで、一時間はかかるだろう。休憩から戻ってくるにはちょうど良い按配だ。  雅秀は、その場を離れ、クリーンルームを出る。それから鬱陶しいクリーンスーツを風除室で脱いだ後、外の通路へと出た。  そして、待っていた菊池と共に食堂へと向かった。  廊下を歩いている途中、他の従業員とすれ違う。そのほとんどが私服だが、中にはスーツを着用している者もいた。  両者の違いは、正規社員と派遣社員の違いだ。前者はスーツで、後者は私服。  当然、雅秀たちは私服だ。  雅秀たちは、正規社員とすれ違う時、校長先生に会った学校の生徒のように、ぺこりと頭を下げた。  これには理由がある。この工場において、派遣社員は正規社員に対し、頭を下げるルールが決められているのだ。  だが、一礼を受けたスーツ姿の若い男は、頭を下げ返すことなく、半ば無視する形ですれ違っていった。  これは、なんら不思議なことではない。日常的な光景だ。向こうは派遣社員など、同じ人間とは思っていないのだから。  雅秀たちは双方何も言うことなく、食堂へ向かって歩いた。  食事を済ませ、雅秀は、休憩室でスマートフォンを弄っていた。  開いているのは、スマートフォン用のメッセンジャーアプリだ。電話番号を登録した相手と、チャットや通話が無料で行える。  現在、国内で主流のアプリケーションなのだが、友達や近親者がほとんどいない雅秀にとっては、縁のないアプリであった。そのため、これまで使用した事がなかったが、アズサとの連絡先交換を期に、インストールしてみたのだ。  慣れないアプリに戸惑いながらも、これまで何度かアズサとメッセージのやり取りを行った。自殺計画時も、同じようにSNSでの連絡を主としていたが、これはより親密でないと成立しないメッセージアプリであるため、充足感はより一層上だった。  昼休憩中である今も、雅秀はアズサとチャットを交わしていた。向こうも昼休みで、クラスメイトと弁当を食べている最中らしい。  『今日は午後から英語の小テスト。憂鬱』  『頑張れ。良い点数取れば、親御さんも見返せるさ』  『自信ないよー』  チャットからの情報では、アズサはあれから毎日ちゃんと高校に通っているようだった。良いことだと思う。  雅秀は、アズサとチャットを続けながら、彼女の制服姿(といっても高校名すらまだ知らなかったが)を想像した。アズサは大人びてはいるものの、さぞかし似合うに違いない。  アズサにメッセージを返信した後、誰かがそばに立ったことに雅秀は気がついた。  顔を上げると、スーツ姿の女性がこちらを見下ろしていた。  疋田志帆(あしだ しほ)である。地味めだが、目鼻立ちは整った女。黒髪を後ろでまとめており、その姿は、どこかクラス委員長のような、優等生然としたイメージを想起させた。  彼女は、雅秀が所属する部署の上司にあたる人物だ。服装が示す通り、正規社員の人間である。  確か、雅秀と同年代だった気がする。  「なんすか?」  雅秀は、内心うんざりしながら訊いた。志帆は時折、休憩中でも関係なく、仕事の話を振ってくる。  同い年であろうと、向こうは正規社員で上司。逆らうことは不可能で、せいぜい態度で不満を示すしか道がないのが現状だ。だから、雅秀にとって、極力避けたい相手であった。  志帆はしばらく、じっとこちらの顔を見つめていたが、やがて口を開いた。  「三十番のウエハーケースだけど、洗浄まで進んだ?」  雅秀首肯した。それなら、休憩前に完了済みだ。  「ええ。進んでますよ」  「そう。ならいいんだけど」  志帆は、納得したように頷いた。  どうやら、その確認のためだけに、わざわざこちらに話しかけてきたらしい。生真面目が過ぎると思う。  しかし、話が終わったにも関わらず、なおも志帆は、目の前から立ち去ろうとはしなかった。何か言いたげだ。  もしかして、新しい仕事を頼もうとしているんじゃないだろうな。  雅秀は、自分から思い切って尋ねることにした。  「まだ何か用があるんすか?」  志帆は、はっとしたように小さく首を振った。それから、様子を窺うような口調になる。  「ねえ、永倉くん、もしかして恋人でもできた?」  突発的な指摘に、雅秀は内心、ドキリとした。別に恋人ではないが、少しだけ近い状態の相手が現れたのは事実だ。  同時に、どうして志帆がそのような疑問を抱いたのかも気になった。  「いきなりなんですか? どうしてそんなことを?」  志帆はなぜか、少し焦ったように、両手をヒラヒラとさせながら答える。  「ううん。特に意味はないの。ただ、永倉くんが楽しそうな顔をしていたから、彼女と連絡でもしているのかなって思って。永倉くんがそんな顔をしているの、滅多にないし……」  志帆の言葉に、雅秀は羞恥を覚えた。どうやら心の動きが表情に現れていたらしい。スケベ親父のごとく。  確かに、アズサとのやり取りはとても楽しいが……。  だが、それを憎き正規社員の、しかも自分へ目を付けている女性に悟られるのは、どこか屈辱を覚えてしまう。今度から気を付けよう。  雅秀は、首を振った。  「そんなんじゃないです。彼女なんてできていませんよ」  「そう。なら別にいいんだけど。えっとね、永倉くん」  志帆がそこまで言った時だ。別方向から声がかかった。  「どうしたんだ? 永倉」  菊池がそばに寄ってきた。それから、訝しげな目を志帆へと向ける。  志帆は女性の平均身長で言えば、低いほうなので、長身の菊池と並ぶと、一層小柄さが強調された。  菊池は、厳つい顔で志帆を見下ろしながら続ける。  「なにかあったのか?」  雅秀は、肩をすくめ、志帆の顔を見た。さきほど、何か言いかけていたはず。  だが、志帆は、菊池に怯んだのか、慌てたように首を振った。  「ううん。なんでもないの。休憩の邪魔してごめんね」  そう言うと、志帆はすごすごと退散していった。  菊池は志帆を見送った後、隣にどかりと座る。椅子が大きく沈んだ。  「彼女どうしたんだ? また余計な作業を押し付けてきたのか?」  「そうらしいけど、お前がきたお陰で避けられたみたいだ」  彼女の目的がなんだったのかは、本当のところは判明していない。だが、正規社員のことだ。どうせ厄介ごとだろうと思った。  派遣社員にとって、正規社員は共通の敵のような存在に過ぎなかった。彼らは彼らで、こちらを装置の一部としてしか思っていないのだから。  それを覆すには、こちらも正規社員になるしか道はないのだが、そうなるには、同じ正規社員の推薦がないと不可能だ。  ただの派遣社員にとっては、それは至難の業である。ここ数年、派遣から正規に昇格した例がほとんど見られないらしい。  ゆえに、正規社員と派遣社員の間には、互いに埋めることが叶わない深い溝が存在しているのだ。  志帆が退散してから、雅秀は、普段の休憩中のように、菊池と雑談を行った。だが、その合間も、アズサとのチャットは継続していた。  今度は、表情に出さないように注意する。お陰で菊池から、志帆のような指摘を受けることはなかった。  寮に帰り、雅秀はノートパソコンを起動させた。  それからネットに接続し、検索を行う。  今夜もこれまでと同じように、自殺系サイトや、自殺志願者を募る女子高生の書き込みを探して回った。  すでにアズサの存在のお陰で、雅秀の中にあった希死念慮はほぼ薄れており、女子高生の心中募集の投稿を求める必要はなくなっていた。だが、日課になっているせいか、体が勝手に動いていた。  しばらく女子高生の書き込みを探していく。しかし、全く成果は出なかった。元々から、ヒット率は限りなく低いのだ。アズサの投稿を発見したこと自体、奇跡と言っても過言ではなかった。  雅秀がネット検索に疲れてきた頃、スマートフォンに、メッセージアプリからの着信の通知があった。  コーヒーにミルクを垂らしたように、雅秀の心はじんわりと明るくなる。滅多に他者からの連絡がないはずの雅秀のスマートフォンに、知らせがあるということは、相手は一人しかいなかった。  スマートフォンを確認する。やはりアズサだった。  『また今日もお母さんに怒鳴られた』  文章の最後には、泣き顔の絵文字。雅秀は返信する。  『何があったの?』  『英語の小テストの結果が悪くて、怒られたんだ。自殺の件で忙しくて、勉強してなかったから』  『ドンマイ。次頑張ればいいさ』  雅秀のメッセージに、すぐに既読が付く。それだけで雅秀は、嬉しかった。自分のメッセージをアズサのような可愛い女子高生が読み、返信内容を考えているのだ。今、この瞬間、東京のどこかで。  やがて、アズサからメッセージが届いた。  『落ち込んでいるから、次の休みの日、どこかに連れて行って』  アズサからの遊びの誘い。雅秀の心は躍った。  『いいよ。任せて』  雅秀は意気揚々と了承した。またすぐに既読が付き、アズサの喜びの言葉が届く。  雅秀は、強い満足感を噛み締めた。もうほとんど、希死念慮は消え去っている。  ほんのちょっぴりだけ、生きていたい、とそう思った。  次の休日、雅秀はアズサと新宿駅で待ち合わせを行った。  指定場所は、南口にあるルミネの入り口前。  雅秀がそこに到着した時には、まだアズサはやってきていなかった。  雅秀は、入り口のショーウィンドウ付近に立ち、アズサを待つ。  待っている最中、目の前の通りを眺めた。  今日は晴天で、朝日がとても眩しく、通りを歩く大勢の人々を明るく照らしていた。気温も春が訪れたように暖かい。  目に入る限り、カップルや家族連れが多く、雑多である。普段はその雑多さと、カップルたちへの疎ましさで、常に閉口し、街中に出かけることを避けていたが、現在の心境は違っていた。いくらカップルや家族連れを目にしても、一切不快には思わないのだ。  爽やかな風が、雅秀の全身を抜けるようにして通り過ぎた。  雅秀は大きく深呼吸を行う。とても気分が良い。それから胸もときめいている。これからアズサと会えるからだ。  まるで、恋人にでもなったような気分だった。  もしかしたら、それは錯覚ではなく、事実かもしれない、と思う。あわよくば、アズサも同じような気持ちなら……。  高望みかもしれないが、こうして彼女が遊びの誘いをしてきた以上、少なくとも好意は持っている証拠なのではないか。  期待と不安。未成年の少女に対する感情の揺らぎが、雅秀を襲う。客観的に見ると、不健全だが、自殺から生還した身では、何を今更、と思った。そもそも、自分は女子高生と自殺を企てた人間なのだから。  雅秀は、自身の中の恋愛感情と、アズサのことについて、再び思案を巡らせる。  その途端、突然背中に衝撃が走った。誰かが背後から抱き付いてきたのだ。  雅秀は、身をすくめる。そして、首を曲げて、後ろを確認した。  アズサだった。  「お待たせっ! 雅秀」  アズサは顔を上げ、白い歯を見せた。相変わらず化粧は薄く、なのに眉目秀麗の少女。まるで、ルノワールの絵画に描かれている女性のようだ。アズサと初めて会った時と同じく、一瞬見惚れてしまう。  今日のアズサは、白のブラウスと、グレーのワンピースのコーディネートだった。フェミニンなレイヤードスタイルを意識しているらしく、大人びて見える。  雅秀は口を開く。  「待ってないよ。俺も今きたところ」  そこまで言って、雅秀は、普通の男女が行うデート始めの挨拶のようだと思った。  「そうなんだ。じゃあいこう」  アズサはこちらの腕を引っ張り、通りのほうへ歩き出す。  「どこにいくんだ?」  雅秀は、なすがまま引っ張られながら訊く。  アズサは明るく答えた。  「色々なところ。今日も楽しもう」  こうして、再び、アズサとの『デート』が始まった。  先日の渋谷来訪時と同じように、雅秀は、アズサと一緒に新宿のスポットをいくつか回った。  途中、カラオケに行く話になった時には、雅秀は丁寧に固辞した。なぜなら自分は音痴である上、カラオケそのものも大して経験がなく、恥を晒すだけだと思ったからだ。  バグーズや、クラブセガなどに足を運び、遊んでいく。それらは女子高生に人気の遊び場で、名前は知っていたが、自分には縁がない場所だと雅秀は認識していた。だが、まさか自分が女子高生と遊びに行くなんて、一ヶ月前まで想像だにしていなかった。  いくつか回った後に昼食を済ませ、次に二人は新宿御縁に向かった。  新宿御縁は、和洋が入り混じった広大な庭園で、新宿区でも人気の高い観光スポットだ。頻繁に催し物が開催されている場所でもあり、有名なイベントは『桜を見る会』だろう。  かつて雅秀も、小学生の頃、課外授業で一度訪れた記憶がある。当時は、さほど楽しいと思えなかったが。  雅秀は、アズサと共にゴルフ場のように広い芝生の上を歩いていた。他にも見物客が多く、あちらこちらで目に付いた。  アズサは、最近あった面白い出来事を、まるで食卓で親に聞かせるように、夢中になって話している。  それに相槌を打ちながら、雅秀はどこか違和感を覚えていた。  アズサに対してではない。周辺の雰囲気だ。肌に突き刺さるような視線。少し前からそれを感じていた。  雅秀は辺りを確認する。多くの客がおり、簡単には出所が判別できない。しかし、確実に見られている。そんな気がした。  もしかして、あの時の男か?  忘却していた記憶が蘇る。ずっと自分を凝視していた影のような男。  アズサは気がついていないらしく、ずっとお喋りを続けていた。  雅秀は、視線を肌で感じつつも、アズサに伝えることはしなかった。雅秀の勘違いである可能性もあるからだ。  その後、いくつか園内を見て回る。そして少し疲れてきたところで、二人は園内に設けられている茶屋に入ることにした。  茶屋は、屋外に解放された立礼式であり、池を囲んだ雅な日本庭園を眺める立地になっている。フォトカレンダーのモデルにでもなりそうな風景の中、お茶を楽しめる場所だ。  雅秀たちは空いていた長椅子に座る。長椅子には赤い布が敷かれ、頭上には大きな傘。まるで、江戸時代にでもタイムスリップした気分になる。  やってきた和服の店員に注文を行った。雅秀は緑茶とみたらし団子のセットを、アズサはほうじ茶とわらび餅を頼んだ。  二人で和菓子を楽しんでいる間も、視線は感じていた。雅秀は周囲を警戒するが、怪しい奴はいない。あの黒ジャンパーの男の姿も。  雅秀の様子の変化に気がついたのか、アズサが首を捻って訊いてきた。  「どうかしたの? キョロキョロして」  「いや……」  いまだに、視線に対する感覚は、雅秀の勘違いの域を出なかった。下手に不安がらせるよりは、適当に誤魔化したほうがいいだろう。  雅秀は肩をすくめた。  「人が多いなって思って」  そう言いながら、再度周囲を見回す。頻繁に視線を巡らせているせいか、近くにいた小さな子供を連れた中年の女性客が、怪訝そうにこちらを見やったのがわかった。  雅秀は目を逸らし、俯く。  これでは、こちらが不審者扱いされかねない。ただでさえ、未成年を連れているリスクがあるのだ。警察を呼ばれ、職質なんて状況は、極力避けなければならなかった。  もう視線の件は、気にしないほうがいいだろう。  雅秀は、お茶を啜り、アズサとの会話に集中することにした。  和菓子を食べ終えると、アズサはトイレに立った。雅秀は、その間に、お茶代を支払う。  財布をポケットにしまった時、何気なしに日本庭園のほうへ目を向けた。  池のほとりにある松の木の下。そこで一人の男が、こちらを見ていた――ような気がした。なぜなら、男は、雅秀が目を向けると同時に、顔を逸らしたからだ。  心臓の鼓動が早くなる。もしかして、あいつかもしれない。視線の主は。  雅秀は足を踏み出し、男のほうへ向かった。男は、こちらに背を向け、歩き出す。逃げた――ように見えた。  陽光に照らされた男の後姿は、黒いジャンパーを羽織っていた。  さらに増す鼓動。おそらく、先日からこちらの様子を窺っていた男は、あいつだ。  このポジションでは、顔が見えない。だが、元から容貌ははっきりとは確認できていないのだ。追いついて、しっかりと目に焼き付けよう。  雅秀は、逃げる男の後を小走りで追いかけた。  すぐに追いつき、雅秀は背後から、黒ジャンパーに包まれた男の肩を掴んだ。  「おいあんた。この前から何の用だ」  男は、弾かれたように振り向いた。雅秀は、男の顔を確認し、はっとする。男は随分と若かった。こちらより下かもしれない。  男は、驚き半分、迷惑半分といった表情を浮かべた。  「なんだおまえ。一体何を言っている?」  雅秀は、目を逸らしつつ、答える。  「この前から俺たちのことを監視していたよな? 目的はなんだ?」  男は、目を細めた。  「はあ? なんだよそれ。おまえみたいなおっさん、監視するわけないだろ。頭おかしいんじゃないのか」  とぼけているのだろうか? 目の前の若い男は、本気で言っているように思えた。  「さっき、俺が顔を向けたら、目を逸らさなかったか?」  「しらねーって。元々、お前のことなんて見てないんだから」  やはり、嘘をついているようには見えないが……。  雅秀がさらに問い詰めようと口を開きかけた時だ。男の背後から、声が聞こえた。  「あなた、どうしたの?」  雅秀は、男の肩越しに、声のほうを見る。男も振り返った。  そこには、若い女性と、幼稚園児くらいの小さな女の子が立っていた。  「変なやつに絡まれてるんだよ」  黒ジャンパーの男は、女性にそう話しかける。  雅秀は、愕然とした。こいつ、家族連れなのか? つまり、家族を伴って、俺とアズサを監視していたというわけか。  男と、その嫁らしき女は、こちらを見据えた。子供もだ。三人共が眉根を寄せて、雅秀に目を向けている。明らかに不審人物に対する目付きだ。怪しんでいることがわかる。  雅秀は、心の中でかぶりを振った。この三人が監視していた? ありえないだろう。ようするに、この男は無関係なのだ。  雅秀は、頭を下げた。  「すみません、人違いでした」  雅秀は踵を返し、足早にその場を立ち去った。男は追ってはこなかった。  心の中に、釈然としない想いが広がっている。  なにか大事なものを見逃しているような、そんな気がした。家のコンロの火を点けたまま外出した時のごとく、致命的な何かを忘れている感じが。  雅秀が茶屋に戻ると、トイレを済ませたアズサが、膨れっ面をしていた。  グレーのワンピースをはためかせながら、こちらを指差す。  「女の子をほったらかしにするのはアウトだよ」  雅秀は、自身の頭を掻いた。  「ご、ごめん」  アズサは表情を戻すと、こちらの顔を覗きこんだ。  「どこに行ってたの?」  雅秀は、先ほどまで自身がいた地点を確認した。すでに例の家族連れはいない。  「別に。ちょっと知り合いっぽい人を見かけて、声をかけただけ。でも人違いだったよ」  アズサはふうん、と頷いた。納得したのか、それともどうでもいいのか、それ以上は言及しなかった。  それから雅秀は、アズサと一緒に茶屋を後にした。そして、何となく、もうこの場所にはいたくなかったので、新宿御縁も出ることにする。  二人は出口に向かった。アズサと次はどこに行こうかと、会話に花を咲かせる。  しかし、その最中でも、雅秀の心の中に去来したわだかまりは、一向に晴れなかった。  なぜなら、いまだに視線を感じているからだ。  さっきの男は関係なかった。こちらの様子を窺っていたことは雅秀の誤解だったし、黒ジャンパー姿もただの偶然であった。  しかし、それならば、この視線の主はどこにいる?  雅秀は、まるで幽霊にでも付き纏われているような、寒々とした感覚にとらわれていた。
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