夕子と過去

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 数日後の締め切り日、小町は体調が悪く姿を現さなかった。静月は神社の近くまで来たが、小町がいないことを確認すると気配を消してその場を立ち去った。この物語を自分だけのものにしたいと思った。  静月はその後すぐ結婚し、数か月で妻が身ごもった。静月はそのころ、必死で小町に応えられるような小説を書こうとあがいていた。小町への返事がわりの小説が書けたら、小町の作品とともに雑誌に載せようと思った。風の噂で、免疫力の低下していた小町が労咳、今でいう結核にかかったと静月は知った。  身重の妻がいる身で伝染病の小町に会うことは許されない。才能の無い自分には小町の生きている間に自分の気持ちを伝える物語は書けない。静月の中に、一つの狂った感情が生まれた。  小町が自分を深く恨めば、死後に霊となって会いに来てくれるのではないか。小町が自分を呪い殺してあの世へと連れて行ってくれるのではないか。  初めて『髪結いと押し花』を読んだとき、そんな感情は微塵もなかった。自分だけのものにしたいと思った物語を、静月は自分の作品として新聞社に持ち込んだ。確実に採用されるという確信が静月の中にはあった。静月の読みは当たり、『髪結いと押し花』は爆発的ベストセラーとなった。  小町は病床で静月の裏切りに発狂した。許さない、許さない。誰よりも信頼していた静月だから預けたのに。私の人生のすべてを踏みにじった静月だけは絶対に許さない。六条の御息所よ、私に力を貸してください。あの男だけは絶対にたたり殺す。と、深い憎悪を抱いたまま昏睡状態に陥った。  執筆活動に励んでいた静月だったが、「高遠静月」というブランドを愛する大衆以外の審美眼のある人間のお眼鏡にかなう小説は当然書けなかった。小町が昏睡状態に陥ったという噂を聞くと、家主の目を盗んで小町の病床に忍び込んだ。 「すまなかった、小町。僕を恨んでおくれ。僕を連れて行っておくれ」  静月の声は小町には届かない。今にも止まりそうな呼吸を漏らす唇に口づけを交わして、小町の家を後にした。翌朝、小町は息を引き取った。  その後、静月は象牙の塔にこもるようになる。家族とも会うことなく、出版社に完成した原稿を送るだけの日々を送った。待てど暮らせど、小町は現れなかった。9か月後、静月は結核を発症した。もう自分には時間がない。  小町、どうか自分を殺しに会いに来てくれ。そのためだけに自分は外道に身を落としたのだから。愛した女性に呪い殺されたいという願望を具現化した静月の遺作、それが『黒い夕顔』だった。
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