空に水屑

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空に水屑

 チュチュが死んでからわたしの血ははちみつの味がするようになった。色はあかく、匂いも鉄のようであるのに、なめてみると喉の焼ける特有の甘さがあるのだ。病院へ行っても理由はわからなかった。わたしの味覚がおかしくなったわけでも、どこかの臓器が異常をきたしているわけでもない。血糖値も、尿酸値も、血液としての機能もそのままに、味だけが変わってしまったのだ。  血がはちみつの味をしていてもとくべつ困ることはなかった。見た目はふつうの血と変わらないので、味のおかしいことはだれにもわからない。体調にも変化はなく、眠気も食欲も月経もきちんとおとずれる。この短くないあいだ、血液の異変によってなにか不都合を感じたことはない。  しかし、これまでなんともなかったからといって、これからさきもそうであるとはかぎらなかった。ぱちんとスイッチが切り替わるように、その異常がなにかの拍子でわたしのからだを傷つけはじめるかもしれない。症状のないだけですでにどこかが蝕まれているのかもしれない。怪我や病気で輸血が必要になったとき、他人の正常な血液に拒絶反応を起こしてしまうかもしれない。  そうした危険性はよく理解していた。とつぜんじぶんの細胞を攻撃しはじめる自己免疫疾患や、蕁麻疹やアナフィラキシー反応などの輸血の副作用について調べたこともあった。しかし、たとえ目の前でひとが轢かれようと明日じぶんもそうなるかもしれないと恐怖するひとのすくないように、わたしにはその実感がなかった。その未来を恐れるにはこれまでのわたしは健康すぎた。  チュチュの死からもうじき八年が経つ。この異常がかれの死によってもたらされたものであるということにだけ、わたしは根拠のない確信をいだいている。 …………  ナイトテーブルには恋人の眼鏡が置いてある。レンズは厚く、その両足が意思に従順だった頃、かれはこれがないとなにも見えないのだと苦く笑っていた。以前はほこりひとつなく磨かれていたが、最近はなみだとあぶらでべたべたしているのであまり触りたくはなかった。  かれほどきついものではないが、チュチュも眼鏡をかけていた。チュチュは生まれたときから視力が弱く、わたしが知り合った頃にはすっかり顔になじんでいた。 「眼鏡を外すと、いがいと目がちいさいんだねと言われる。そう思う?」  チュチュは眼鏡のつるを広げたりたたんだりしながら言った。すべすべした頬に髪がひとすじ、ふたすじ張りつき、よけいに女の子みたいだった。 「レンズでふだん大きく見えるとか、見えづらくてしぜんと目を細めてしまうとかじゃないの。それに、べつにちいさくないよ」 「ほんとう?」  チュチュはわたしを見あげ、おさなく笑った。砂糖を炙ったようなあまく透きとおる瞳だった。レンズを通さないそれはいっそう神秘的にきらめいていた。  そのときのほかにかれの裸眼を見たことはなかったが、わたしの記憶にだけ存在するまばゆいプールのなかで、かれはかならず眼鏡をはずしていた。きんいろの、祝福のような光を浴び、まぶしそうに細められた目もとは慈悲深くさえ感じられた。あの子は死んだときも眼鏡をかけていたのだろうか。  恋人がうめき、寝苦しそうに身じろぐ。意識がそちらにひきよせられ、映画の場面の切り替わるように、ずっと見ていたはずの景色が目のまえに立ち戻る。おなじ夏の日射しであるはずなのに、かれにふりかかるものはにぶく、なにもかもを圧し潰しそうに傲慢だ。わたしは静かにとびらを閉じる。把手はすっかりぬるくなっている。 ………… 2020.8
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