モデル

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 雨が降っている。 「昔の話だよ。僕が二歳の頃の話。父方の祖父の三回忌、僕はそこで煙草の灰を食べた。自分では全く覚えていないのだけれど、この春に帰省したとき、母がそう教えてくれた。どうしてそんな話になったのかは忘れてしまったけれど……。僕は大人たちの目を盗み、灰皿に積もった灰を口いっぱいに頬張った。空腹だったのか、好奇心に従ったのかはわからない。当の僕に小指の先ほども記憶がないからね。その後は、当たり前だけれど法事どころではなくなって、家には救急車が駆けつけた。父は一日に二箱も空けるような愛煙家だったけれど、それをきっかけに煙草をやめた」  スプリングの飛び出したソファには虫の死骸が挟まっている。僕はあくびを噛み殺し、左右の脚を組み直す。干乾びた武勇伝のようなそれを思い出したのは、僕が禁煙中だからでも、手の中の缶コーヒーが湯気を立てているからでもなく、彼女の描く絵がけぶるように霞んでいたからだ。気のない相槌を打っていた彼女はちらりと僕を見、筆を止めることなく「モネよ」と言った。 「日傘の女。高校の、美術の教科書に載っていたでしょう」 「ああ、道理で」  部室は絵の具の匂いに満ちている。彼女の匂い。ろくに講義にも出ず絵を描いているせいか、彼女の髪や肌からはいつも油の匂いがする。この匂いはきっと彼女の骨の髄にまで染みついている。  細かな粒が窓ガラスを叩く。床にビーズを散りばめたような、硬い、繊細な音がする。室内には僕と彼女しかいない。春と夏のはざまで空気はじっとりと湿っている。無意識に声を潜めてしまうほど人の気配がない。部屋の中だけでなく、この建物全体に僕と彼女しかいないような取り残された感覚がある。冷たい雨音はその閉塞感を強化する。足元は綿を踏むように柔らかい。ただ、不快ではない。鞄の中に折り畳み傘が入っているかどうかだけが気にかかる。 「綺麗な絵だね。モネが誰なのかよくわからないけれど」 「授業ではあまり習わないから。私の学校でも作品をいくつか紹介されただけだったわ」 「片思いの風景?」 「いいえ。手前の女性が奥さんで、奥の子供は息子」 「家族の絵か」 「ええ。けれどこの奥さん、描かれた数年後に死んでしまうのよ」 「へえ、そうか」 「それで、モネは他の人をモデルにして同じような絵を二枚描くの」  彼女は絵筆を置き、かたわらの画集を手にとった。絵の具で彩られた親指が小口をすべる。開かれたページには三枚の絵が並び、そのうち一枚は彼女が描いているものに近く、残りの二枚はその一枚と構図が似ている。しかし、その二枚は奥に人がおらず、女性の顔にはパーツがなかった。 「どちらも奥さんをイメージして描いたものなのだそうよ。追憶、というやつでしょう」 「随分愛していたんだね」 「どうかしら。この何年か後にモネは再婚するのだけれど、その相手とは奥さんが生きていた頃から交際していたの。その上、未練なのかしら、モネはこの二枚目の絵を生涯売りに出さなかったそうよ」 「新しい奥さんは複雑だったろうね。家に死んだ先妻がいるわけだから」 「案外悦に浸っていたかもしれないわ。前の奥さんの前で堂々と愛を囁けるのだもの」  画集を閉じ、彼女は再び筆を取る。人さし指の爪にだけ噛み痕がある。パレットの上でいくつもの色が混ざり、新たな色が広がる。 「どうして顔がないんだろう」 「思い出せなかったんじゃないかしら。描きたくても描けなかった。……それか、描かなかった」 「何故?」 「頭の中にあるものを無理に形にしようとすると、歪んで、全然違うものになることがあるでしょう。それが怖かったんじゃないかしら」  言った後で、彼女は「知らないけど、そんな感傷」と肩をすくめた。絵を描く彼女にわからないのであれば、僕にわかるはずもない。僕は部員ですらない。  窓が震える。風が強くなってきたらしい。僕は音につられ外を見るが、彼女の視線はキャンバスから離れない。  湿気にふくらんだ髪の隙間から、赤みの強い横顔が覗いている。  ――雨が、降っている。  桜が咲き、散り、いつの間にか枝が葉で覆われ、かと思えば空気は水気を孕んでいる。季節の足取りは軽く、速い。追いかけているつもりが追いつく前に追い抜かれている。  絵の具に触れたのは高校生以来だった。使い始めてしばらくの間はパレットという言葉さえ思い出せなかった。散乱するチューブはどれも苦悶するようにねじ曲がっている。どの名前も見慣れない。一つの色にこれだけの種類があるとは思わなかった。病的に区別され名付けられたそれらを見ると、この世に未知など存在しないのではないかと思えてくる。  耐用年数を超えたプレハブが風に軋む。胃が蠕動し、異物を吐き出そうとでもするかのように。絵筆を置き、口許まで吸った煙草を灰皿に押しつける。吸殻はすでに山になっている。室内には煙が充満している。新しい煙草を抜き取り、火をつける。呼吸のしづらさを湿気のせいだと言い聞かせ、再び筆を取る。  小学生の頃、「はだいろ」という絵の具をそのまま似顔絵に使い、教師に叱られたことがある。お友達はこんな色じゃないでしょう、頬は額と同じ色ですか、これではお人形のようですよ。それ以来、何を塗るときもチューブそのままの色を使うことに抵抗を覚えるようになった。必要以上に色を混ぜ、取り返しのつかなくなったことも一度や二度ではない。  幸い、今回はそのようなことにはならなかった。茶色と白、少しの赤に、意味があるのか疑わしいほどにわずかな青。名前を見てもわからないのでチューブにプリントされている色で判断した。どの色も僕の知っているものと奇妙に違ったが、混ぜ合わせれば不思議と望んだ通りの色が生まれた。  煙草を咥えたまま椅子を立つ。フローリングにはさまざまな色が飛び散り、乾き、貼りついている。花弁と言うより花火に近い。その華やかなキャンバスに彼女は横たわっている。  黒々とした髪の上に白い顔が眠る。鼻の横から口許へ、昔はなかった線が深く刻まれている。ふつりと開いた唇は何も語らない。柔らかな喉、鋭く浮いた鎖骨、肘に近づくにつれ肉へ潜る手首の青い静脈。年を経て肌はたるみ、痩せぎすの体は骨の形が目立つ。それでも彼女は美しい。  煙を吐き出しながら、やはりモネは描かなかったのだ、と思う。ぼやけた顔の日傘をさす女性。しかしそれは、形にすることでかえって失われてしまうからというようなやわく甘やかな怯えではない。目も、鼻も、口もない先妻。それがモネの望んだ彼女だった。  モネが亡き先妻の絵を描いたのは惜しかったからだ。死という絶対的な理由であれ、自分のものだった彼女が自分の手から離れていくことに耐えられなかった。彼が先妻を愛していたかどうかはわからない。新しく恋人ができ、その愛情は根こそぎそちらに向いていたのかもしれない。しかし、それとこれとは全く関係がない。たとえ新しく買い与えられたとしても、気に入っていた玩具が他の誰かのもとへ渡るのは耐え難い。それと同じだ。自分のものは手元に置いておきたい。自分のものだと主張し続けていたい。  感覚器官を塞いだことも、おそらくその延長線上にある。かつての妻に再婚した自分を見せたくない、見られたくないという見当違いの配慮や罪悪感ならば、塗り潰すのは目だけで充分だ。自分に都合の悪いものに触れないように、彼は彼女の目を閉ざし、鼻を削いだ。自分を蔑むような言葉を言わないように、彼は彼女の口を塞いだ。外界に触れることのできない彼女。愛でられるばかりのかごの鳥。彼は彼女を絵画という平面に閉じ込め、人形に貶めた。彼女が完全な所有物になることを願った。  僕は彼女の傍らに膝をつく。パレットの肌色を絵筆の先にすくい、彼女の眉に、睫毛に、唇に、肌と色の違う箇所全てに落としていく。眼球に沿い丸くふくらんだまぶた、パーツのおうとつだけが顔に残る。彼女は結局、一度も独自の作品を生み出すことができなかった。  ほとりと、煙草の先から灰が落ちる。煙を挟み、霞む輪郭。重い雨音が頭蓋を包む。  唇は、甘い、油の味がする。 2017.9
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