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第1話 村の生活
夢の中にいたぼくに、目覚まし時計の鳴る音が聞こえた。
ぼくは布団の中に潜り込んで、音から離れて夢に戻ろうとする。
……あれ? どんな夢だったかな?
目覚まし時計は止むことなく、しつこく鳴り響いている。
襖の開く音と、畳の上を歩く誰かの足音。その誰かが、ほどなくして目覚まし時計を止めた気配がした。
しんとした部屋。
襖……畳……。
ああ、そうだ。
ここは、ぼくの家じゃないんだった。
「起きなさい。顔を洗って、ご飯にしよう。学校に遅れるぞ」
「………………おはよ」
「はい、おはよう。よく寝てたな」
布団から顔を出すと、眼鏡の奥にある目を優しく細めた叔父さんが、ぼくを見下ろしている。
ママの声で起こされないことにも、ようやく慣れた。
初めて叔父さんに起こされた朝は、耳慣れない男の人の低い声に違和感があったけれども、慣れてしまえばゆっくりと目が覚めるようで、かえって心地よいものだ。
そうしてぼくは、言われるままに布団から出て、薄暗い廊下の先にある洗面所まで、のろのろと歩く。
まもなく七月になるというのに、ここは朝まだ寒い。すべすべした冷たい板張りの廊下は、長く立っていると素足が凍りそうなほどだ。やっぱりスリッパが欲しいな。
ちらっと振り返ると、叔父さんが腰に手を当てて心配そうな顔で、ぼくを見ていた。そんなに心配しなくても大丈夫だよって言おうとして、やめる。
この家に来てから毎朝同じような顔で、ぼくを心配する叔父さんには、結局何も言わないのが良いとぼくも学習したのだ。なぜなら、何を言っても、何度言っても、朝はこの心配そうな顔から始まるのだから。
ぼくが両親と離れて叔父さんの家で暮らすようになったのは、毎朝叔父さんに心配顔をさせるぼくの身体に、理由がある。
物心つく頃には、入院と退院を繰り返す生活で、ほとんど学校には通えていなかった。
十歳を少し前に、最後の心臓の手術を終えた後、ママの言うところの「転地療養」とやらで、仕事のため家を離れられない両親と離れてぼくひとりが、この叔父さんの住む村にやってきたのだ。
忙しい両親と会えるのは、まとまった休みの時だけだ。それなのに今年初めての村での年越しに、ママもパパも来ることが出来なかった。よりによって例年にない大雪で、飛行機は飛ばす、叔父さんの村までの山道を塞いだからだ。電話の向こうで謝る二人に、ぼくはお年玉だけは送ってよと憎まれ口をたたく。会えないことの寂しさは、電話越しに声を聞いたことでさらに増したとは、素直に言える歳ではもうないのだ。
叔父さんはママの弟ということもあってか、ふとした瞬間に良く似たところを見つけることがある。内緒だけど、そんな時はママを思い出して寂しくなったりもする。
連れて来られたばかりの頃は、叔父さんとの二人きりの暮らしを不安に思っていたぼくだったが、始まってみれば案外大丈夫なもので、たまにその不意打ちの寂しさに襲われることはあっても、今ではこの村の暮らしにすっかり慣れてしまった。
ぼくと叔父さんが似たもの同士なこともまた、ここでの暮らしを快適にしていた。
なにしろのんびりなのだ。
ぼくも、叔父さんも。
急ぐことは嫌い。
二人揃って暇な時間は畳に寝込んで本を読む。爽やかな空気を入れるため縁側の窓を開け放して。腕が疲れたらお腹の上に本を伏せ、わずかな空と間近に迫る山を見上げながら。
外で走り回ることも、大きな声で騒ぐことも出来なかったぼくは、身体の不安がなくなった後もその身についた習慣は変わることなく、ぼくをぼくたらしめるひとつとなっている。
薄暗い廊下を歩いていると、縁側の軒先に吊るしたままになっている風鈴が、ちりんと音を立てるのが聞こえた。
ぼくはなるべく早く手だけを動かして、顔を洗う。部屋に戻ってパジャマを脱いで服に着替えたら朝ご飯だ。手探りでタオルを引き寄せると、ごしごしと顔を拭いた。伏せていた顔を上げて、ぐっと顔を近づけて目の前の鏡を覗き込む。そうでもしないと、見えないからだ。ぼくの目が悪いわけではない。この鏡がとても見づらいのだ。
よし、寝癖はないみたいだ。
この家に鏡は二つしかない。お風呂場の鏡と洗面所の鏡だけ。それはどちらもまだらに白く濁り、大きさはぼくの掌より少し大きなくらいだ。古い物のせいか瘡蓋のような錆が所々に浮いていて、はっきりと何かを映すという役割を放棄してしまっている。
この古い家に暮らすようになってから分かったことの一つ。全身を映す姿見が無いこと。それは、ぼくをひどく安堵させた。細くて青白い肌色もさることながら、パジャマを脱いで、下着一枚になったぼくの身体の上半身をほぼ占める、鳩尾まで大きく残る手術痕は、見られたものじゃない。ぼく自身が目にする機会が減ったからといって、そこにある傷を無かったことに出来るわけではないけれど、忘れていられる時間が長ければ長いほど、ぼくにとっては良いことだと思う。
着替えを済ませたぼくが、台所へ行くと毎朝同じご飯が用意されている。
ほんのりと白い湯気のたつそれは、梅粥だ。
初めて食べる日、黄味がかった変な粥を見た瞬間うげぇと思ったそれも、ひと口食べてみたら今までぼくが食べていたお粥は何だったのだろうと思うほどの美味しさだった。
口に入れた時と、喉を滑り降りる違和感のない優しい温かさと柔らかさ。少し遅れて舌の上に感じる米の甘さに梅の酸味と塩気がまた程良く、じんわりと身体に染み渡るのが分かる。
色が悪く見えるのはね、村に湧く温泉水で炊いたんだよ。
とても身体に良いからね。
ひと口食べるごとに、身体の隅々が息を吹き返すのを感じて、ぼくはようやく目を覚ますのだ。
ぼくが目を閉じて、お粥の美味しさを堪能するその姿があまりにも爺くさいと叔父さんが小さく笑うまでが、毎朝の儀式みたいなものになってしまっている。
「学校が終わった後の今日の予定は?」
叔父さんの言葉に、ぼくは首を振る。
「……別に。特にないよ」
「それなら、少し店番を頼んでも良いかな? 町へ行く用事があってね」
ぼくは頷く。
叔父さんはこの村で商店を営んでいる。といっても、この古い家と一緒になっている小さな店だ。普段出入りしている玄関の反対側にある店舗の入り口。そのガラスの引き戸の上にある軒先に、これもまた錆の浮いた青い鉄板に白く「塩」と書かれた小さな看板があるだけのこの店は、この村のお年寄りのためのコンビニみたいなものなんだろうとぼくは思う。店のほうから部屋に上がることも出来るから、ぼくは朝に玄関から学校へ行って、帰りは店番をしている叔父さんに「ただいま」を言いながら、店から家の中に入ることもある。
ひんやりと薄暗い店の地面は土が剥き出しで、これを土間というのだとぼくは初めて知った。
入った途端感じる、独特な甘い土の香りや燻されたような木の匂い。そこに置かれた古い木製の棚には塩や砂糖、ソースやマヨネーズといった調味料関係に、油や洗剤、ゴミ袋、蝋燭、マッチ箱、ライター、線香、菓子パン類などが間隔を空けてぽつり、ぽつりと並んでいた。
それから村の少ない子どもたちのための、駄菓子類。文房具類。この店でぼくが一番がっかりしたのは、本格的に夏が来るまでは、アイスクリームのケースは電源が落とされ中身が空っぽなことだ。古いそのケースはやたらと電気代がかかって勿体無いから、と叔父さんは、肩を落としていたぼくの無言の質問に答えてくれたけど、子どもは冬でもアイスを食べるよ、と言ったぼくの言葉は聞こえなかったようだ。
村にはスーパーもコンビニもないから、みなどうしているのかと思えば、車で近くの町まで買い物に行くのだとか。考えてみれば当たり前だ。叔父さんの店では、ちょっとした足りないものを買うくらいなのでお客さんなんか、ほとんど来ない。かといって店を閉めないのは、全くお客さんが来ないというわけではないから。午前中のお年寄りのサロンになったり、夕方の子どもたちの溜まり場としての需要があるらしい。
らしい、というのも未だぼくは実際に目にしたことがないからだ。
「ごちそうさまでした」
ぼくが両手を合わせてそう言うと、叔父さんは、お粗末さまでしたと頭を下げる。柔らかな細くて癖のある髪質は、ぼくと良く似ていた。
その頭頂部が最近薄くなってきているのを気にして、見えない鏡の前で何度かそこに手を置いているのをぼくは知っている。ぼくもやがてこうなるのだ、との見本を見せられているようだ。何度か、そんなに薄くもないよ、と言おうとして止めた。気休めにしかならないのは、仏間にあるお祖父ちゃんの写真が物語っているからだ。その頭は、見事につるりとしていていっそ清々しい。
その仏間には、お祖父ちゃんの隣にお祖母ちゃんの写真が並んでいる。
ぼくは二人には会ったことはない。二人ともぼくが産まれる前に亡くなっているから。それなのに、ぼくにはこの写真のお祖母ちゃんに会った記憶があるのだから、なんだか不思議だ。気のせいと言われたら、それまでなのだけど。
それはまるで夢みたいだから、夢なのだろうか。誰かに話せば、夢だと言われて終わりのようで、ぼくは未だ誰にも話したことはなかった。
陽当たりのよい野原で遊ぶぼくの足もとに、さあっと山から降りてきた冷たい風が草をなびかせ、ぼくの髪を巻き上げる。
見上げると空は、あれよあれよという間に一面に灰色の雲で覆われ、あれほど明るかった野原は紗をかけたように暗くなっていた。いつの間にか隣に立っていたお祖母ちゃんが、ぼくの手を引き指差す向こうにあるのは、この村の火の見櫓。
ぼくは恐ろしさに、ぎゅっと手を握り返す。
大きな蜘蛛の手足に似た、真っ黒で気味の悪い火の見櫓は、村の何処にいても目につくのに、ぼくはそれをすっかり忘れていたことをお祖母ちゃんに気づかされるのだ。
油断してはいけないよ。
そう言って、蠢くような灰色の雲の下、捕食する虫を待つようにすうっと立っているそれに目をやりながら、お祖母ちゃんとぼくは手を握り、身を寄せ合う。
そうなのだ。
ぼくはあの火の見櫓が、恐ろしくてたまらなかった。
山の夜は暗い。
そのなかにあって、まるで蜘蛛の腹のように赤い炎が、その闇を裂くように周りを朱に染めていた。雨の夜も、闇夜も、月のある夜さえも。気づいてしまえば、その炎は絶やされることなく昼の間にも火を灯している。
「叔父さん、あの火の見櫓はどうして鐘が無いの? というか、火の見櫓だよね? それなのになんで鐘があるはずの場所に、灯台みたいに火を灯しているの? あの火はどうして昼間も消えないの?」
それは、ぼくが叔父さんと暮らすようになってまだ間もなくのこと。不気味でならない火の見櫓のことを尋ねてみたものの、その答えはあっさりとしたものだった。
「必要だからさ」
それきり何を尋ねても、ぷっつりと黙ってしまったので、あれ以来ぼくの疑問も宙に浮いたままだ。
あれがこの村に巣を張る蜘蛛のように見えるのは、ぼくだけなのだろうか。
水色のタイルが貼られた流し台に、ぼくは食べ終えた器を置く。
「そのままで良いよ。支度しなさい。ほら、時間だ」
叔父さんに促されて、ぼくはランドセルを取りに部屋に戻る。台所から水を流す音、食器を洗う音が聞こえた。
窓を見ると、小さな雨蛙が腹をこちらに向けて一匹張り付いている。ぼくは行ってきますとガラス越しにその腹を撫でた。
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