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第2話 学校
ぼくの通う小学校は、家から山道を少し登ったところにある。ぼくのゆっくりとしたカタツムリみたいな歩きで三十分、休みやすみひたすら緩い坂道を登るのは正直とても辛いけど、立ち止まって深呼吸したとき、朝の冷んやりと甘い空気はすごく美味しい。
学校は山の中腹にある。
その途中には、村の中心がある小さな盆地に向かって流れる川があり、それと沿うようにして並んで走る細い道路の脇に、ぽつぽつと少ない民家があった。学校が盆地ではなく山の中腹にあるため、村の中心近くに住む生徒の中には、学校まで一時間かけて歩いてくる強者もいたりする。
まあ、ほとんどの児童は、朝だけでなく帰りも親の車で送り迎えをして貰いながら、学校に来ているんだけれどね。
それを聞いた叔父さんはすごく驚いて、昔はみんな歩いて通ってたんだがなぁと言った。車で送ってもらう子供なんて、いなかったぞって。ましてや、帰り道なんて道草して遅くなって、怒られるのが当たり前だったのにって。叔父さんの頃は、土曜日にだって学校に行ったんだぞ、と鼻息を荒くしていた。
だけど、今よりも生徒の数は多かったでしょ? 土曜日にも学校があったから、六時間目の授業は少なかったんじゃないの? ほぼ毎日六時間の授業があるのに、中学校に行ったら、七時間目の授業があるみたいだよ。とぼくが言ったら、眼鏡の奥の目をショボショボさせていたっけ。
最後の大きなカーブを過ぎると、目の前に小学校が見える。この平屋の木造校舎が建てられたのは昭和七年ということだから、ぼくからすれば気の遠くなるほど昔。
そしてその校舎の裏から覗く、のそりと村を見下ろすあの大きな火の見櫓……。
「おはよッ。……どうしたの? 大丈夫?」
ぼくが立ち止まったまま、ぼんやりと火の見櫓を見ていると背後から声を掛けられた。
振り返って見れば学校一の強者、一時間かけて歩いてくる藤田悠貴の顔が目の前にある。
「ん……。おはよ。いつ見てもユーキは朝から元気だよね」
ぼくの言葉にガハハと笑うと、一時間も歩ってくれば嫌でも目が覚めるからと言いながら、手にしていた水筒をかぱっと片手で開けると、がぶがぶ飲み始める。
「ランドセルが重いんじゃないの?」
腕で豪快に口元を拭った後、ユーキはぼくの背負っているランドセルに、ちらっと視線を送りながら言った。
ユーキの背負っているのは、スポーツブランドの青いリュックだ。転入した時に、各家庭に任せるが、学校までの距離があるため荷物が多い時は重いランドセルでなくても構わない。というような内容が書かれたプリントを学校から貰っているが、ぼくはどうしてもランドセルを使いたかった。
身体を治して小学校に通うのを楽しみにしていたあの頃。絶対に無理だと思う反面、諦められなかったあの頃。通えるかどうか分からなかったのに、そんなことは噯気にも出さず六歳になった時、ぼくにランドセルを買ってくれた両親。
「そんなこと、ない。それよりユーキはさ、あの火の見櫓どう思う?」
「どうって? 何が?」
おおきな蜘蛛みたいじゃない?
ぼくが声を潜めてそう言うと、驚いた顔で首を振った。
「ええ? ……全然ッ。何でそう見えるかなぁ? 村のお守りみたいなものなのに」
あんなに気味の悪いものが、お守り?
思わず身震いをしてしまう。
「ささ、行こうよ。走るのは得意じゃないんだからさ。学校まではもう少しあるんだよ」
ユーキに促されて歩き始める。
ぼくの通っている小学校は、とても人数が少ない。ユーキによれば、廃校になるんじゃないかって噂が毎年出るほど。
一年生が三人。
二年生は四人。
三年生に二人。
四年生は、ぼく一人。
五年生も一人、隣を歩くユーキだ。
そして六年生が五人の全部で十六人しかいない中で、兄弟で通っている子もいることを考えると、その少なさに改めて驚く。
小さな小学校と聞いたぼくが転入する時、注目されたらどうしようなんて考えていたら、そうでもなくて逆にびっくりした。それよりも、胡散臭い者を見るような目というのだろうか。いや、違うな。その反応の薄さは、そうでもないどころか、余所者にはあまり興味がない、関わりたくないっていうのがぴったりの表現かもしれない。
今は、人数が少ないため広く見える教室で、四年生のぼくは五年生のユーキと机を並べている。新学期が始まった時、同じ学年の子が居ない者同士、すぐに仲良くなった。ユーキに言わせれば、三年生はお子様すぎるし、六年生は他に比べて人数が多いから面倒くさいとか。
「うげっ。用務員のおじさんだ。苦手なんだよなぁ」
正門の辺りを竹箒で掃除している姿をいち早く目に留めたユーキが、ぼくの背後にまわる。
確かに、あの人は不気味だ。フランケンシュタインに出てくる怪人みたい。
ぼくの言葉に、ユーキが首を傾げる。なんで? フランケンシュタインが、お化けなんでしょって。
だからぼくは説明する。
フランケンシュタインは怪人を創り出した科学者の名前で、お化けなんかじゃないんだ。創られた怪人には、人間の心と知性もあったんだから。ちなみにその科学者はスイス人。これはイギリスの小説で、作家の名前は……振り返って見るとユーキは、その辺の葉っぱをちぎって投げながら歩いている。ぼくの説明が長すぎたのか、全然聞いてなかったみたいだ。
まあ、いいか。
だけどぼくはこの話、不思議に思うことがたくさんある。
なかでもそのひとつは、本当に怪人には人間の心があったのかなってこと。
だって、人間は心があるから人や何かを愛するんだよね? 怪人は、憎んでばかりのように見える。愛されたいって言うばかりで、誰かを、何かを心から愛しているように思えないんだ。なぜなら愛するって、相手を思いやることだって僕は思うから。
何かを憎むのも、心があるからだって?
まあ、確かに。そうかもしれない。
でもさ、知性もあるとされているんでしょ? その知性は、全く活かしきれていないと思うな。
怪人のおぞましい姿は誰からも忌み嫌われ、愛されないことに憎しみを募らせて、孤独だからと異性の伴侶を作ってくれるよう創造主に頼むんだけど、創られた伴侶が必ず怪人を好きになると、どうしてそう思うんだろう。創られた伴侶にも、同じように心があるとは考えないのかな。
憎しみも心だって言うんでしょ? お互いに愛憎併せ持つその心があるのならば、必ずしも愛し合うなんてことは、無さそうだよね。孤独な二体になるかもしれないのに。
本当に怪人に人間の心と知性があるとされるなら、分かりそうなものだと思うんだけどな。
愛されたいと叫ぶ怪人のその心は、やがて更なる憎しみを産み、破壊行為や果ては殺人に繋がってしまう。
知性があるなら、避けられたんじゃないだろうかという疑問をぼくに残して。
まあ結局、その伴侶となる怪人は創られることはないんだけどね。
ぼくは二体になった怪人を、想像する。いつかは解り合える二体なんだろうか。
「おはようございまーす」
やたらと声を張り上げて挨拶をするユーキは、ぼくを残して駆け足で正門を潜ると、昇降口までそのまま走って行く。
用務員のおじさんがゆっくりと顔を上げてぼくの方を見たときには、ユーキの姿は昇降口の奥の暗がりに見えなくなっていた。
「あ、おはようございます」
ぼくは軽く頭を下げて挨拶をする。用務員のおじさんは、まるで魚の干物のような眼玉で、じろりとぼくを見たあと無言でゆっくりと頭を下げてまた掃除に戻った。何もなかったように、ざっざっと竹箒を動かしている。
そこにゴミなんて、ひとつもないのに。
簀子の上で靴から上履きに履き替えていると、ユーキが下駄箱の陰から顔を出した。
「ごめん。先に行って」
片手を顔の前に立てている。ユーキは時々、オヤジくさい。
「別にいいんだけど」
靴をしまおうと腰を屈めるぼくは、頭の方にずり上がってくるランドセルに埋もれて、怒ったような声になってしまう。
「そんなに怒るなよって。……あ、おはようございまーす」
顔を上げると学校一の美人と言われている保健室の先生が、あまり表情を変えず軽い会釈をしながら、校長室のある方へと歩いていくのが見えた。
肩の辺りで切り揃えられた黒髪は、さらさらの真っ直ぐ。黒眼がちな大きな目、白い肌の真っ赤な口紅が艶々と、女子の間ではシラユキ先生という渾名で呼ばれている。羽織っているだけの白衣の下から覗く服装も、やたらと首元や手首にフリルがたくさんついたブラウスや、長いスカートばかり。そんなだから渾名は白雪姫から名付けられたのは単純明快。さらにシラユキ先生は、本名を忘れてしまったのか何なのか、面と向かってそう呼ばれても特に表情を変えたりしない。
うげっッ。
シラユキ先生が通った後は、強烈な香水の甘ったるい匂いがしてぼくは苦手だ。せっかくの山の空気が汚されたように感じる。
正直、苦手なのは、それだけじゃない。
あの目。赤く塗られた大きな唇。石膏でできた壁みたいに白い肌は不自然すぎて、ひび割れしやしないかと気になってしまう。
それに話しをするとき、瞬きの少ないあの大きな目でじっと見られるんだけど、あの目、実際にはどこも見ていないんじゃないかって不安になる。まるでよく出来た剥製の目玉みたいじゃないか。
美人? まさか。造りモノっぽくて、ぼくには全然、そうは見えない。
「知ってる? ウチの担任、シラユキ先生が好きらしいよ」
にやにやしながらユーキは、ぼくに言う。
「……趣味が悪いよな」
ぼそっと呟いたぼくに、ユーキは「お子ちゃまは、わからないのかな」とからかってくるので「好きなヤツくらい、いるよ」と言いそうになって口をつぐむ。
「……教室に行こうよ」
少し遅れてそう言ったぼくは、ユーキを振り返らずに歩きだす。怒りっぽいとハゲるらしいよ、と背後からユーキがぼくに悪態をつくけど、ぼくの頭なんかどうせいつかは、お祖父ちゃんみたいになるんだから別にいいんだ。
今年の教室は一、二年生合わせて七人でひとつの教室。三年生二人とぼくとユーキの四、五年生の合わせて四人でひとつ。六年生の五人でひとつ、といった具合に別れている。
本来なら低学年、中学年、高学年といったふうに分けるのだろうけど、なぜなのかよく分からない。ひとクラスの人数で差が出来ないように、分けたのだろうか。
ぼくが転入したのは三年生の三学期も終わり近くで、まもなく春休みになる頃。その時は、ふたクラスしかなかった。ぼくは一、二年生と同じ教室。去年四年生だったユーキは、五、六年生と同じ教室。今年は人数が偏っているから、こうするしかなかったのかな、とも思う。そうなのかな?
なんとなく二人とも黙ったまま、ユーキと隣り合わせの机に、それぞれランドセルとリュックの中身をしまっていると、残りの二人が騒がしく教室に入ってくる。
この二人はいつも一緒だ。リュックもキーホルダーもお揃いのうえ、大概は似たような服装で、まるで血の繋がらない双子みたいだ。何が面白いのか、顔を寄せ合ってはいつもクスクス笑っている。
「あ、しまった。今日の三時間目って体育だった〜。やっちゃった。体操服、忘れた。持って来なかったよ」
ユーキがどさっと椅子に座って、脚をぶらぶらと動かした。
「ぼく、どうせ見学だから貸そうか?」
「うーん……。いいや。一緒に見学するよ」
少ない人数のため体育の時間は全学年、合同授業だった。
「そう。だったら、いっか。あ……そうだ。面倒くさいから、ぼくも着替えないで見学しようかな」
体育が嫌な本当の理由は、着替えのたびに肌着の隙間から醜い傷痕が見えることをぼくが気にしているからなんだけど、ユーキは気づいているだろうか。
ふと、ユーキの頭ごしに見える窓の外を、ぼくは眺めた。空の色は、このところぐっと青さを増して、樹々の濃い緑色はまもなく夏が訪れようとしているのを教えてくれている。爽やかな風が、教室に吹き込む。
ぼくは初めての夏休みが、待ち遠しい。
「やぁ、おはよう。みんな、ちゃんといるみたいだね? さて、朝の会を始める前に、昨日の宿題を前まで持ってきてもらおうかな?」
挨拶とともに、担任の田向先生が教室に入って来た。
相変わらずの白いTシャツ、黒いジャージ姿で、髪の毛は短く刈り上げているから、パッと見ると体育教師みたいだけど、よく見れば身長に比べて手足が長く、ひょろひょろしていかにも不器用そうだ。実際のところ、結構な頻度で自分の足に躓いているのを見かける。聞けば専門は社会科というから納得。
「そういえば漢字ドリル、どこまで進んだ? かなりやばいんだよね。期限までに終わんなそー」
ユーキは宿題のプリントを提出したあと、各自期限までに終わらせることになっているドリルの進み具合を尋ねてきた。
「計算の方は、もう終わったんだけど漢字は、ぼくもマズいかも」
「あのさ、今日放課後一緒にやんない? 家に帰ると手伝いしなくちゃなんなくなるからさ」
「え……? ぼくの……叔父さん家ってこと?」
ユーキの家は果樹農園をしている。今の時期は、ぶどうと梨だ。それから秋から冬に向けての、りんご。本当に忙しいときを除いて、ユーキの祖父母と両親の家族だけで農園を管理しているんだとか。けれどユーキのお父さんが事故にあって身体を壊してからは、ユーキを頼ることが多くなったのだそうだ。
「そう。家に帰るとさ、農園の仕事があるから、つい勉強を後回しにしちゃうんだよなぁ」
登下校も大変なユーキは、きっと夕飯を食べたら疲れて寝ちゃうんだと思う。
今日は店番を頼まれているけど、二人で店番しながら宿題とドリルをやるのも良いかもしれない。どうせ、お客さんなんて来ないだろうし。
それになんと言っても、友達と一緒に勉強出来るなんて、本や漫画で憧れていただけに、すっごく嬉しい。
店番は気が進まなかったんだけど、これでいっきに放課後が待ち遠しくなった。
「うあっッ。痛ッたー」
物思いに耽っていたぼくの耳に、突然ユーキが短く叫ぶ声が聞こえた。
顔を向けると、ぱたぱたっと音を立てて赤い血が、白いノートに落ちるのをぼくは目にする。
ユーキが人差し指を強く握り、顔を顰めていた。紙で指を切ったのだ。
「……深くやっちゃったみたい。保健室で絆創膏貰ってくるから、付き合ってよ」
先生に断りを入れたぼくたちは、授業が始まる前のざわついた廊下を、並んで保健室へ向かう。
「すぱっと切れたはずなのに、紙で切るといつまでも地味に痛いよね」
指を握ったままのユーキが、痛そうに顔を歪めながら言う。
「知ってた? 紙で切ったところは、真っ直ぐじゃないんだって。実はノコギリの刃で切ったみたいに、じぐざぐだから痛いらしいよ……ってこれ、テレビで見たんだけどね」
ちらっとユーキを見る。
あ、やっぱり。
聞いてないよね。
「……何、考えてるの?」
ぼくの言葉に、別にとユーキが答える。
「何にも考えてない。痛いなぁ、くらい」
それからは、ぼくたちは黙々と保健室を目指す。
校舎は複雑さも何もない。ただ横長に延びた平屋建てなので、教室や職員室を過ぎて真っ直ぐ行った西側の突き当たりに、保健室はあった。ちなみに昇降口を中心にその反対側の東側には、校長室を過ぎたところに美術室、音楽室、そして突き当たりに体育館として使用している大きな教室がある。
「失礼しまーす」
中からの返事も待たずに、ユーキが声を掛けながら磨りガラスのはまった引き戸を開けて、勝手にずかずかと入っていく。
むわっとぼくの鼻に、強烈な匂いが押し寄せる。果物が腐ったような甘ったるい香水の匂いと、病院で馴染みの消毒液の匂いが混じったやつ。
扉の開く音で気がついたシラユキ先生は、ぼくたちを振り返る。銀色の容器がいくつも並ぶ、白い塗料のあちこちが剥がれた大きな机に両手を置いて、器用に首だけをこちらに向けた。
「どうしたの?」
シラユキ先生の喋り方は若いのに、もごもごしていて、お婆さんを連想させる。
なんでだろう?
「紙で指を切っちゃって、絆創膏くれませんか?」
ユーキが握ったままの指を、先生の方へ突き出しながら言った。
シラユキ先生は、今度は回る椅子で身体ごとぼくたちの方を振り返ると、指を見せてというように右の掌をユーキに向ける。手首のふわふわのレースが、ひらりと翻って先生の青白くて細い手首が少しだけ見える。
指を白くなるまできつく握りしめていたユーキは、そのまま固まってしまった拳を、ぎこちなくゆっくりと開いて見せた。
「……大丈夫よ。血を拭いて、絆創膏を貼りましょうね」
シラユキ先生が机に向き直り、その上に置かれている銀色の蓋付き容器から、ピンセットでコットンを取り出すと、その蓋を閉めたもう片方の手で消毒液をコットンに塗す。
そのとき、どこから入ったのだろう。
一匹の大きなハエが、シラユキ先生の顔の周りを飛び始める。
先生が嫌そうに手で払うも、なかなかしつこかった。
不快感のあるギラギラとした緑色のカラダに赤い目の大きなハエが、先生の周りを忙しなく飛び回る。
ぶーーん。ぶぅぅゥん。ぶ……。
「指を見せて」
ユーキは大人しく指を出す。
一瞬、先生の肩に止まったハエは、今はまた再び先生の頭の上を旋回している。
ユーキはハエを払いながら、絆創膏を貼ってもらうと、ありがとうございましたと頭を下げた。
先生はそんなユーキにはもう興味がないのか……いや、そうじゃない。
天井に向けられた、ぽっかりと開いたあのどこを見ているのか分からない黒い眼。
旋回するハエに目を奪われてしまったその眼玉は、空を睨んでいる。
ぼくたちのことをすっかり忘れて、ハエに夢中になってしまったみたいだった。
首や身体を動かさず、眼玉だけがハエを追って動いていた。
ぶぅーーん。ぶぅぅーん。
ぶぅヴゥん。
ぶヴヴぅヴヴヴヴヴん。
……ゥゥん。
ノ\" ン っッッ!!!
…… ……。
びくり、と思わず身体が動いた。
息を飲む。
音の消えた部屋。
動けないぼくと、ユーキ。
振り乱れた先生の髪。
机の上に置かれた先生の掌。
……ハエを殺した?
手で……?
「……早く教室に戻りなさい」
煩わしいハエがいなくなった途端、まるで唐突に、ぼくたちの存在を思い出したと見える仕草で先生は、その掌を机の上に乗せたまま何事もなかったように再び首だけを動かして、ぼくたちにそう言った。
ユーキと二人、それはもう素直に廊下へ出る。
そしてぼくは、保健室の扉を閉めようとして振り返って見てしまったんだ。
その瞬間、ぞわりとぼくの背中に冷たい虫が這う。
机を叩いた自身の手のひらを、ゆっくりと持ち上げて、覗き込むシラユキ先生。
その赤黒い滲みは、潰れたハエ……?
真っ赤な唇をかすかに歪め、薄く笑う先生の白い顔。片方だけが、ひっくり返ったように天井を向いている大きな黒い眼玉。
ぼくが扉を閉め終える前に、眼玉を正しい位置に戻す、きりきりという音が聞こえた気がした。
「……シラユキ先生。ちょっと怖かったね」
それまで黙ったままだったユーキが、教室に入る前にぼくを振り返ってようやく言った言葉だ。「ウチの担任。憧れのシラユキ先生が、手でハエを潰すの、見たことあるのかな? きっとないよね。祖父ちゃんだってあんなことしないよ。アレ見た後じゃ、一発で醒めちゃうかも」
頷く、ぼく。
……それどころか、不気味すぎて嫌いになるかも。
その言葉を口に出せないまま、ぼくはユーキの後から教室に入る。
あれ? もしかして……。
ユーキはシラユキ先生の、あの顔を見ていない?
あの奇妙な動きをする眼玉も?
何も知らない田向先生が、教壇の脇にある教員デスクに寄り掛かりながらぼくたちに、早く席につくよう言った。
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