1人が本棚に入れています
本棚に追加
第4話 転校生
ユーキと一緒に宿題をやった日から、ずいぶん経った。
気づけばもう夏休みまで、あと二週間。
あの日以来、なかなか遊ぶ時間が作れなくてユーキは残念そうにしているけど、それはぼくも同じだ。
だけどまた、同じくらい遊べないことに、ほっとしているぼくがいる。
正直言って、ちょっとだけ怖いんだ。
なぜって?
あの日だけが、楽しくて特別な一日だったらどうしよう。次に遊んだ時も、同じくらい楽しいかな。もしかしたら、ユーキをがっかりさせてしまうんじゃないかな、と心配してしまうからなんだ。
だったらもういっそのこと、遊ぶのをやめたらどうだろう。そんなことを考えてしまう。こんな気持ちを誰かに聞かれたら、そんなこと考えるなんて変だって言うかもしれない。だけど、友達と呼べる人が今までいなかったんだから仕方ないよね?
そんな意気地のないぼくの毎日に、変化は突然訪れた。
「すんごい大ニュースだよ! なんと、なんと転校生発見かも!! 背が高いんだ! いま見ちゃった」
いつもと変わらない朝の筈だった。
教室でぼくがランドセルの中身を机に仕舞っている時、興奮で顔を赤くしたユーキが、大きな声でそう言いながら教室に飛び込んで来た。
転校生なんて珍しくないってこの前言ってたのに、ちょっと背が高いくらいで随分な反応じゃない?
え? 背が低いことを気にしているぼくの、過剰反応だって?
……まあね。
「さっき校長室に入って行くとこ見ちゃったんだけど、アレ多分、そうだよ。何年生かな?」
「ふーん。そうなんだ……」
「なんだよ。喜ぶと思ったのに」
どこで喜ぶのさ?
まだ本当に転校生か、分からないし。もしそうだったとしても同じクラスかどうか、まだ分からないんだよ?
ぼくの反応のイマイチな様子に、ユーキががっかりした顔で席に座る。
「それにさ。だって、あと二週間で夏休みだよ? ユーキの見間違いじゃない?」
「えーッ。そうかなぁ? でもあれ、絶対ランドセル持ってたと思ったんだけどな」
ちえッ、て言葉に出して言いながら、リュックの中身を乱暴に机の中にしまっているユーキに、ぼくは尋ねた。
「そうだ。見たっていえば、今朝、用務員のおじさん見た?」
ぴたりと手を動かすのを止めたユーキが、ぼくを見て顔を顰めた。
「……見た。すっげーデカい殺虫剤のスプレー持って、あちこち撒きながら歩いてた。何あれ?」
そう。そうなんだ。
ぼくも見たのは、それ。
手にしている大きなスプレー缶ひとつじゃ足りないとばかりに、もうひとつを作業服のズボンの後ろポケットに入れて、西側の保健室のある廊下からじりじりと、東側に向かって歩きながら白い煙を噴射させていた。
それを昇降口に立って、見ていたぼくに気づいた用務員のおじさんは、あの魚の干物を思わせる濁った空洞のような目で、ゆっくりとぼくに焦点を合わせる。
おはようございますと言いたいのに、喉の奥に何かが引っかかってしまったようで、声が出ない。
そして用務員のおじさんは、ぼくの方に向けて、わざとスプレーを噴射させた。
……ように見えたんだ。
気のせいなんだろうか?
でもこのところ、すごい勢いでハエが増えているのは確かだ。
ほら、今だって。
窓ガラスに何匹も、ちらちらと動き回るそのハエは、時折立ち止まっては足を擦り合わせ、落ち着きなく何か獲物が現れるのを待っている。
窓が開いているんだから、外に出て行けば良いのに。
「それに最近、何か臭いがしない?……」
ぼくの言葉に、ユーキは笑って言った。
「えー? 牛とか豚じゃないの? それか肥料とか? あれさ、たまーに風に乗って臭うじゃん」
そうなのかな? そう言われれば違うとも言えなくて、ぼくは曖昧に頷く。
だけど山の下ならともかく、この学校の周りにそういう施設があったかな? でもまあね。少し考えてみると、それをぼくが知らないだけで、あり得る話だ。ユーキが言うように、風に乗って、遠くまで運ばれているだけなんだろうか。
「おはようございまーす。ハイっ席に着くーッ! よーし、みんな揃ってるな」
やたら元気な田向先生が教室に入って来る。Tシャツに、いつものジャージ姿。
三年生の双子みたいな二人も、教卓の目の前の席にいつの間にか座って顔を寄せ合い、お喋りしていた。今日もまた、お揃いのような服を着ている。ユーキと話に夢中になっていて、二人が登校してきたことに気づかなかったみたいだ。
クラス全員が前を向き、先生を見上げる。
「今日は、転入生を紹介します。……入って良いよー。もっと、こっち来て。……五年生だから悠貴と同じだな。藤田悠貴、手を上げて」
合図を受けて、教室に一人のすらりと背の高い男の子が入って来た。遠慮がちに先生の隣りに並ぶ。
名指しされたユーキは、ぼくの隣りで先生と転校生に向けて、さっと手を上げてすぐに下ろした。
「さて、みんな。今日からこの同じクラスで一緒に勉強する三藤陽奈太くんです。……ハイ。三藤くん、どうぞ」
「三藤陽奈太です。……二学期から、通う予定だったんだけど……夏休みまでに、出来れば、友達を……作れたらって、少し、早めに、来ました。……よろしく、お願いします」
喉から搾り出すように、休みやすみ喋る声は、ちょっぴり掠れている。
首元を隠すようにきっちりと留められたボタンダウンは、白地にライムグリーンの爽やかな色をしたギンガム柄の半袖シャツ。濃いめの色のジーンズを履いて、この村の学校の六年生の誰よりも大人っぽい。
ぼくは、ちらりとユーキを見る。
何も考えていなそうな顔で、前を見ていた。
うん。何も考えてないと思う……多分。
それからクラス全員を一人ひとり紹介した先生が、さっと腕時計に目をやって言った。
「よし。じゃあ、三藤くんには……ユーキの隣りに座ってもらおうかな。席に着いたら机にランドセルの中身を仕舞って、一時間目の準備していて下さい。先生は一旦、校長室に戻って、三藤くんのお母さんに挨拶してきます」
それだけ言って、急ぐように先生が再び廊下に消えると、教卓の前に座る三年生の二人が身体ごと全部後ろに向いて、じろじろと遠慮のない視線を三藤くんに浴びせている。
いや、遠慮がないというよりも何か言いたそうな口元に歪んだ笑みを見れば、例えるならそれは、邪悪な視線だろう。
こういう視線を、ぼくは知っている。
興味や好奇心だったり、同情を寄せるフリをして、遠慮のない質問をした挙句、自身の優位を見せびらかしたいだけの視線。
その視線に気づかないのか、気づいていて無視しているのかは分からないけれど、三藤くんは教室の後ろの方にある指定された席に向かって、真っ直ぐに背筋を伸ばして歩いてくる。
「三藤くん、よろしくね」
ぼくは横を通る三藤くんに、少し緊張しながら声を掛けた。
「うん。よろしく」
掠れた声でそう言って、にっこりと笑ってくれる。
その屈託のない笑顔につられて、ぼくもにっこり笑った。
なんだか、良い人みたい。
ユーキを見れば、人見知りセンサーが発動しているらしく、窓の外に視線を泳がせていた。
ユーキったら……。
そういえば、ぼくとユーキが今みたいに話すようになるまで、結構時間かかったよね。
なんとなく、あの頃を思い出そうとしたときだ。頭のどこかが引き攣れるような感覚がして、軽い目眩を覚える。
なぜか瞼の裏に、あの真っ黒な火の見櫓がぽっと浮かんだ。耳元で一瞬ごおっ、という吹き荒ぶ風の音が、聞こえたような気がする。やがて、火の見櫓に灯る篝火のように燃える赤い色を残して消えた。
あれ?
今のは何だろう?
ぼくは何か、を思い出しそうになった。
「……だよね? ……ねぇ……ねえッ! 聞いてる?」
ユーキの声に、はっと我に返った。
「ごめん……ぼく……今、何考えてたんだっけ?」
「そんなの知らないし。ってか、全然話聞いてなかったな? 三藤くん家って、喫茶店なんだって。ほら、あそこのさ、駐在さん家のそばの……」
「うん〜? ……ああ! あの昔ドライブインだったとか言う空き家? なんか最近、綺麗に片付けたりしてたよね? そうなの?」
取り壊すにしては、丁寧に中の物を運び出している様子をユーキと二人で眺めて、もしかしたら何かまたお店が始まるんじゃないかって、期待していたんだよね。
近所にある駐在のお巡りさんに聞いたら何か分かるかもって、二人で聞きに行ったら「さあね」って首を傾げるばかりで何も知らないみたいだったから、期待は萎んでいく一方だったんだけど、逆転勝ちっていうの? 何に勝ったのかは分からないけど、ぼくとユーキは、まさにそんな気分。
あれ? それは良いとして、いつの間にかユーキったら三藤くんに普通に話しかけてる。
えー。なんてゆーか、先を越された感。
「……喫茶店が、始まるのは……夏休みに入ってからだから……良かったら、いつでも、遊びに来てよ」
声が掠れてしまうため、ゆっくりと丁寧に喋る三藤くん。
「うん。もちろんだよ!」
ぼくは三藤くんの目を見て頷く。
ユーキを見れば、すでに行く気になってワクワクしているのが手に取るように分かる。
まったく、ユーキったら。
本当は、人見知りじゃないんじゃない?
……ああ、そうか。
こっちを覗き見しながら、聞き耳を立てている教卓の前の三年生の二人が目に入った時、ユーキの態度の理由が分かったような気がした。
三藤くんに、人見知りをしていたわけじゃない。さっき視線を泳がせていたのは、あの三年生の二人が三藤くんに何か酷いことを言うんじゃないかって、見ていられなかったんだと気がついたんだ。
もしかしたら、ユーキはわざと快活で単純なフリをしているだけで、本当は人の気持ちに敏感で、それによって傷つくことを恐れているのかもしれない。
いや、ただ単に優しいのかも分からないけど。
とにかくそんなだから、ひょっとすると実際は、誰よりも周りをよく見ているんじゃないかな。悪意が滲み出てしまうような人には、近寄らないように気をつけるために。そして何かを見てしまった時には、何も気づかなかったことにして、視線をそらすのだろう。
それは一種の自己防衛本能とでも言うんだろうか。
そう。……悪意。
ぼくだって、それを感じることがある。
特に何をされるわけではなくても、ただ側にいるだけなのに、どうしてか嫌な気持ちになる人には、共通して、仕草や口にする言葉の端々に、感じる何かがあるんだ。
ちょっとした意地の悪さが透けて見えてしまう、とでも言うのだろうか?
……上手く言葉には出来ないけど。
不器用な人なんじゃないのかって?
悪意なんて気のせい?
そうかな?
不器用な人が、粗暴な言動や仕草をしてもそこに見えるのは、意地の悪さではない。
そんな自分のことを恥じている感情や、思い通りに表現出来ないことのもどかしさを、どこかに垣間見ることが出来るんだ。
悪意は、それとは違う。
……滲み出るんだ。その本人が、さりげなく隠そうとするほどに、それは顔を覗かせてこっちを見る。
「さーて。一時間目を始めるから、支度してー。算数だったな。ほれ、プリントを配るぞ。四、五年生は机を後ろの黒板の方に向けること。まもなく副担任の森田先生が来るから、それまでそのプリントをよく読んでいて下さい。ほら、ほら三年生の二人! いつまでも後ろを気にしない。三藤くんとは休み時間に、お話し出来るだろう? さあさあ、教科書出して」
校長室から帰った田向先生が、せかせかした動きで、早口で喋りながら教室に入ってきて指示を出す。言い終えると、ちゃんと伝わったのかを確認するように、腰に手を当てて教卓の前からぼくたちを見回した。
促された三年生の二人が、しぶしぶといった様子で前を向いて机の中から教科書を取り出したのを見て、先生はプリントを配り始める。
ぼくたち三人それぞれが、机と椅子を後ろに向ける賑やかな床を引っ掻く音と共に、慌しく一時間目が始まった。
なんだろう……。
計算プリントを解いていたぼくは、不意にどこからか視線を感じて顔を上げる。
森田先生かな?
ぼくたちの指導にあたる森田先生はといえば、ユーキを挟んで向こうに座る三藤くんの机の前にしゃがみ込む姿勢で、プリントに何かを書き込みながら説明をしていた。
三藤くんは時々顔を上げ、先生を見て熱心に頷いている。
副担任の森田先生の年齢は、叔父さんよりもうんと歳上だ。ユーキに聞いたら、もうあと何年かで定年だって話。
いつも後ろでひとつに結えている髪は、白髪混じりで……ううん、違う。混じっているというより白髪ばかりで、黒髪の少ないその真っ白に近い頭を染めたりしないでいるから、おばあちゃん先生と渾名をつけられちゃったらしい。
なんとなく昔話のおばあちゃんを想像しちゃうんだけど、顔を見れば全然若い。
いや、当たり前なんだけどね。
とにかくその白髪頭のせいで、おばあちゃん先生と呼ばれているのは確かだ。
だけど渾名とは良くできたもので、森田先生は、誰もが思い描くおばあちゃんのようにいつもにこにこ笑顔で、とても優しいし、教え方も丁寧だ。もちろん、悪いことをすれば怒る……らしい。
ぼくは、まだ先生が怒るところは見たことがない。滅多に怒らない森田先生の、怒るところを一度だけ見たことがあるユーキが言うには、すごく悲しそうな顔をして怒るんだって。そりゃもう効果抜群だよって言ったユーキは、口をへの字に曲げた顔で続けてこうも言った。
「絶望を感じるね。怖い顔で怒られるよりも、あんなに悲しそうな顔をされると、自分はもう救いようがないのかなって、誰でもそう思っちゃうよ」
下手に怒られるより、よほど怖いらしい。それって、どんな悲しい顔なんだろう。見てみたいような、絶対見ちゃいけないような。
まあともかく、その先生に三藤くんが時折はにかむような笑顔を見せて話す様子はまるで、本当の孫と若いおばあちゃんを見ているみたいで、ぼくはなんだか微笑ましくなってしまう。
それにしても……。
この視線。どこから感じるんだろう?
ぼくは何気なく教室を見回す。廊下の方に、目を向けた時……ぎくっとした。
風が通るように開け放したままの、教室の後ろ扉。
教室は明るい日差しが差し込み、少し汗ばむくらい暑いというのに、いつでも薄暗く冷んやりした廊下。
その開いた扉から半分覗く暗い廊下に立っている人影。
……シラユキ先生だ。
シラユキ先生が、ぼくを見ている?
いや、その真っ黒で虚ろな目は、どこを見ているのかここからでは、はっきりとは分からないので正確には何とも言えない。
それでもぼくは、異様な様子のシラユキ先生に、冷たい手で身体中を撫でられたように感じて、全身の鳥肌が立った。
あんなところで、何をしているんだろう?
その時シラユキ先生は突然、顔を歪めた。
……いや、違う。
顔が……歪んだ?
不自然なほど白い色で塗られた顔。その頬の辺りにある一箇所が大きくボコリ、と動くのが見えた。
錯覚? それとも痙攣?
……痙攣なんかじゃない。
それはもう見間違いではなかった。
ボコ、ボコッ。ボコリ。
ある箇所で盛り上がったと思ったら、引っ込んで、また違うところが迫り上がる。
それは確かに、蠢うごめいている。
皮膚の下に、這いまわる何か……?
ぞっとする眺めだった。
いまやシラユキ先生の顔の半分が、奇妙に歪んでいる。
ぼくは顔を背けた。叫び出さないよう、慌てて口を押さえて俯く。
ぽんっ、と肩を叩かれた。
思わず身体が飛び上がる。
「どうしたの? 具合が悪くなっちゃった?」
森田先生の顔を見上げる。
ぼくは、今どんな顔をしているんだろう。
一瞬身体が浮くほど驚いたぼくに、目を丸くした先生だったけど、顔を見てすぐに心配そうな表情で言った。
「あら、大変。真っ青な顔して……。保健室に行く?」
咄嗟のことに、ぼくは懸命に首を左右に振る。心の中で必死に訴えかけた。
嫌だ。
保健室には、行きたくない。
絶対に。
だって、そこには……。
声を出さず首を横に振り続けるぼくに「それなら少し、落ち着くまで机の上に頭を横にしたらどうかしら?」と言うので、ぼくは素直に机の上に突っ伏す。
「大丈夫? 無理はしないのよ?」
森田先生は、机に伏せるぼくの頭を優しく撫でてくれる。
ぼくはその姿勢で、顔を再び廊下に向けて、腕の陰から恐るおそるそっと、扉の方を窺ってみた。
まだ、そこに居るのだろうか?
ちょうどそのとき扉の隅に、その場を立ち去ろうとするシラユキ先生の白衣の裾だけがちらりと見えた。
保健室の方へと行くようだった。
安堵の息を吐き出そうとしたその時。
え?
ぼくは目を眇めた。
シラユキ先生の居た場所に、飛び回る無数の黒い点が見える。
黒い点は……。
……ハエだ。
何匹ものその大きなハエは、その場でしばらく宙を旋回していたかと思うと、まるでシラユキ先生の後を追うように歪な隊列を組みながら保健室へ向かって消えたのだった。
それを目にしたぼくは、ついに吐き気を催してしまう。
耐えられない。
口元を押さえたまま椅子からずり落ちるようにして床の上に蹲った。
教室の反対側から、ぼくに駆け寄る田向先生の足音が聞こえる。
だんだんと目の前が白くなってゆく。
気が遠くなるのが分かった。
……闇の中だ。
全てを飲み込んでしまったような、闇の中に居た。
ママ……?
何処からか、ぼくを呼ぶ声が聞こえる。
真っ暗で何も見えない。
そうするうちに、やがて頭上が、じわりじわりと明るくなってくる。
これは……。
なんていう色なんだろう。
胸の中を掻きむしりたくなるような、腹の底から叫び出したくなるような、色。
いつの間にか、涙が頬を濡らしている。
誰もいない。
果ての見えない空間。
ぼくの外には、誰も。
こんな恐ろしい処にぼくを呼んだのは誰?
また声が聞こえる。
……お祖母ちゃん? そうなの?
なあに? 何を言ってるの?
誰でもいいから姿を見せて。
ぼくひとりで、こんな処に居たくない。
後ろを振り向いた。
そして、ぎょっとする。
突然目の前に現れた巨大で真っ黒な蜘蛛。
……ああ。
ちがう……これは、火の見櫓だ。
でも、どうして?
ここには、誰もいないんだろう。
……。
「びっくりしたよー。もう大丈夫なの?」
目を開けたぼくの目に、見知らぬ天井が見える。声のした方に顔を向けると、ユーキが居た。
ベッドの脇の椅子に座っていたユーキは、ぼくが目を覚ましたのを見て、声をかけてくれたみたいだ。
保健室の白いシーツの間に、身体を横たえたぼくを覗き込むユーキの心配そうな顔を見て、大丈夫、と頷いた。
「先生が、おじさんに迎えに来てもらうかどうか聞いて来いって言うんだけど、どうする? 早退にして、迎えに来てもらう?」
ぼくはベッドの上に起き上がると、首を横に振りながら言う。
「……ううん。もう、平気だから。ぼく、どのくらい眠ってた?」
「いま一時間目の授業が終わって、顔を出したとこなんだ。だから……三十分くらいかなぁ? 分かんないけど」
「……吐いちゃった?」
「吐いてない。何か、貧血? じゃないかって、森田先生が言ってたよ」
安心したのか、ユーキは椅子に掛けた姿勢を崩して少し前屈みになると、両手を足の間に置き、足をぶらぶら動かしながら喋っている。
「具合悪くなりそうだって分かってたんだから、森田先生に言われた時、保健室に嫌がらないで行けば良かったのに」
保健室が嫌なんじゃなくて、シラユキ先生が怖いんだよと、言おうとして開けた口を閉じた。
ベッドの周りにある白いカーテンで、そこにシラユキ先生が居るのかどうか分からないからだ。
それに先生の甘ったるい香水の匂いが、保健室にすっかり染みついてしまっていて判別出来ない。
「……先生は? いる?」
「田向先生? 呼ぶの?」
ぼくは顔を顰めて、小さな声で聞く。
「違う……シラユキ先生」
ユーキは頭の上にクエスチョンマークを大きく浮かべて、ぼくに聞いた。
「呼ぶの? 具合悪いの?」
必死に首を振る。
「違う……。ちょっと確かめてよ。そしたら訳を話すからさ」
こそこそと話しをするぼくに、首を傾げながらもユーキは弾みをつけて、椅子から素早く立ち上がる。黙ったまま、いきなりカーテンレールをジャッと鳴らす音と共に大きくカーテンを開けた。
うわっ。
思わず目を閉じてしまう。
ユーキ。そういう時って、隙間からチラッと覗くんじゃないの?
「……んー? 居ない、な」
ユーキは、それだけ言うとカーテンを戻さずにまた椅子に座って、ぼくに詰め寄った。
「何? なんなの? 気になるから早く教えてよ」
ぼくは、さっき目にした信じられないことを、ユーキに教える。
廊下からシラユキ先生が、こっちをじいっと見ていたこと。
ほっぺたがグニュグニュ動いて、まるで中に何か、虫がいるみたいだったこと。
大きなハエが何匹も、シラユキ先生の後をついて行くのを見たこと。
黙って聞いていたユーキは、最初の方こそ真剣な表情をしていたものの、話が終わりに近くなるにつれ、にやにやと顔が歪み、笑い出すのを我慢しているのが分かった。
「笑いごとじゃないんだよ。本当なんだってば!」
「ぶはッ!! ぷぷッ……ふっ。あは、あはははッ!」
ぼくがそう言うのと、ユーキが噴き出すのは一緒だった。
「何かと思えば……ぶふッ。……ごめん、ごめん。それー? 見間違えでしょ? 最後のハエは完全に話、盛ってるし。でしょ?」
ムッとしたぼくは、ユーキを睨む。
「嘘だと思うの?」
ぼくの顔があまりにも真剣だったせいか、調子が狂ってしまったユーキは、すぐ真顔に戻ると、思わずといった様子で椅子に座る姿勢を正した。
「ごめん……。嘘ついたって思ったんじゃないよ。怖がらせようと、大袈裟にしてるのかと思って……違うんだ?」
ぼくは頷く。
「シラユキ先生には、気をつけた方が良いと思う。先生は……上手く言えないけど、もう前のユーキが知ってる先生じゃないのかも」
ユーキは、いまいち信じられないような目をぼくに向けたけど、それ以上は何も言わなかった。
ぼくも、それ以上言うことはなかったので、何となく二人で黙ってしまう。
ぎこちない沈黙。
何か話を変えようと、周りを見渡した。
窓が開いていて、爽やかな風がカーテンを揺らしている。
ベッドを囲む、コの字型カーテンを全部開けてしまったので、ぼくが寝ていたベッドは保健室にある全部で三つあるうちのいちばん奥だったことが分かった。
すぐ目の前には、先生の事務机。
顔の左側に窓があり、頭の方にも南に向いた窓はあるのだけど、ベッドからは天井から吊らされたカーテンで隠れて見えない。
ぼくは顔を左にむけて、ベッドの上からでも見える窓の外に目をやった。
どきっ、とする。
すごい大きさだ。
あの気味の悪い真っ黒な火の見櫓が、あんなに近くにあることに、ぼくは驚く。
相変わらず赤い火の燃えているのが、ここからだと良く見える。
「……火の見櫓」
ああ、とユーキが椅子から立ち上がって窓まで近寄った。
「ここから良く見えるね」
窓の外を見ていたユーキが振り返って、ぼくに言う。
「火の見櫓も、怖いんだったよね」
ぼくは何て言ったらいいのか分からずに、ユーキを見つめた。
「怖いって、理屈じゃないんだよね。……ごめん。笑って」
ああ、ユーキ……。
「……ぼくの方こそ……何か、ごめん」
照れたように笑うユーキに、ぼくは心の中でもう一度、謝った。
ごめん。
それと仲直りのきっかけを、ありがとう。
「二時間目の体育は、見学でしょ? また一緒に見学しよっか? それとも、このまま保健室で休んでる? 田向先生に伝えるけど」
「天気が良いから、外で見学するよ。ユーキは、ムリして一緒にいなくても大丈夫だよ」
ぼくがそう言うと、ユーキは少し考えてから答えた。
「正直に言うと……友達をだしに、サボりたいっていうの? 外に出て、ボーッとしてたい。昨日の夜、貸してもらった漫画読んでてさ、寝るの遅くなっちゃったんだ。で、また今度あの続き貸してくれる?」
もちろん。
ぼくはにっこり笑う。
「じゃあさ、今日はムリだけど明日取りに行ってもいい? 返すのは……」
「返すのは、ずっと後で良いよ。通して読みたいでしょ? ちょっとずつ持って行っても、夏休みまでには全部貸せるから、最後にまとめて返してくれれば良いよ。そん時は重いから、叔父さんに車出してもらえば良いし」
「でりゃっ!!」
「何それ?」
「二人の間で流行らそうと思って」
カーテンが風に揺られて、ゆっくり動くのが、目の端に映った。ぼくとユーキを優しく風が撫でる。
「じゃあ、もう行こうよ。田向先生に言わなくちゃいけないし、それにもう二時間目始まっちゃうよー?」
ユーキに促されて、ぼくはベッドから降りた。目眩がするんじゃないかと、思わず構えてしまったが、何ともない。
よかった。
心配していた割には、ぼくが平気そうだったし、授業が始まりそうだったこともあってか、ユーキがさっさと先に歩いて行ってしまったので慌てて追いかける。
その時、ぼくは見てしまった。
ぼくの目に映るそれは、教員机の前や椅子の下にある無数のハエの死骸。大きなものから小さなものまで、苦しみ足掻いた様子の、その数のあまりの多さに、ぞっとする。
あまり、考えるな。
……そう。所詮は、ただの死骸だ。
何故か、考えたら終わりだと思った。
ぼくは立ち止まることなく、ユーキの後を追う。
「体育やってたら、倒れてたな。今日、すげー暑いじゃん」
埃っぽい地面が太陽を跳ね返すその強い光を見て、しかめ面のユーキが、ぼくの隣りで低く呟く。
ユーキの目論見通り、ユーキはぼくの付き添いとして、二人で体育を見学することとなった。
意外にも三藤くんは授業に参加し、運動神経の良さを披露している。
綺麗なフォームで、遠慮なくボールを投げる三藤くんは強い。
「……ドッチボールって苦手だな」
そう言って大きな欠伸をしたユーキは、膝頭に顔を埋めた。
「何で? 得意じゃん、ユーキ」
眠そうなのがよく分かる声で、ユーキは答えてくれる。
「当たると痛いの知ってて、当てないと負けちゃうのがね、嫌なんだ」
ユーキらしい答えだと思う。
校庭を照らしつける日射しは遮るものがないから、午前中にもかかわらずユーキが言うように、かなり暑かった。ぼくたち見学組は、風が吹いて涼しい木陰に座って、遠くで行われている授業を見ている。
隣りでこっくりこっくりと、舟を漕ぐユーキじゃないけど、涼しい所でみんなの楽しそうな声が反響する音を聞いていると、なんだか眠りに誘われてぼくも眠くなってしまった。
ぬけるような青空が気持ち良く、ぽっかりと浮かぶ綿雲を見ながら、嫌なことは忘れてしまおうと深呼吸する。
夏のぎゅっと詰まった匂いがした。
それからぼくはといえば、残りの授業をずっと田向先生に心配されながらも、身体におかしなことはなく、ごく普通に過ごすことが出来た。
ただ今日いちにち、あれ以来この狭い校舎でシラユキ先生の姿が見えないことが、奇妙といえばそうだったかもしれない。
「じゃあね!」
「また、明日ねー」
さっそく放課後の『徒歩連盟』に、また一人仲間が加わることになった。
これで三人。
もちろん転校生の三藤くんだ。
あれ? ひょっとしてユーキは、これを見込んで、ぼくが喜ぶって思ったって言ったのかな? ……考えすぎかな。
駐在所の近くで別れるまで、ぼくたち三人はダラダラと坂道を、ユーキが今ハマっているぼくの貸した漫画について熱弁を振るうのを聞きながら、歩いて来た。
三藤くんは興味を持ったらしく、その漫画は読んだことないから貸して欲しいとぼくに言ったので、夏休み中に、ユーキから三藤くんに漫画を回す約束をする。
初日から、まさかこんなに話せるようになるなんて思ってもみなかったから、嬉しい驚きだった。
どうしてかな。
波長が合うっていうのが、いちばんしっくりくる言い回しだけど、三藤くんの構えたりしない、ごく自然な様子が良いのかな。
ぼくとユーキが手を振りながら口々に、さよならの挨拶をするのを見ながら、三藤くんは、笑って手を大きく振る。
三藤くんが、家に向かって踵を返したその時、悪戯な風がぼくたちに強く吹きつけた。
舞い上げられた砂埃に細めた目の前を、さっと白いものが横切る。
目を開けたとき、三藤くんの首に巻かれていた包帯の端が解け、青い空に白くたなびくのが見えた。
最初のコメントを投稿しよう!