第5話 夏休み

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第5話 夏休み

 あの日の帰り道、風が攫っていった三藤くんの白い包帯は、山の上の遥か向こうへ飛んで見えなくなった。  青空に、ぽっかりと浮かんだ白い雲の間に、まるでするりと消えてしまったみたいに。  その時、目にしたもの。  三藤くんの首にあった細い紫色の痣こそ、見間違いではなかったと思う。  ぼくだけじゃなく、ユーキも見たのは確かだから。  なぜなら三藤くんと別れた後、見てはいけないものを見てしまったような気がして、二人共無言のまま、しばらく歩いていたんだ。  ついに黙っていられなくなった時、ユーキがこんなことを言うまでは。 「首、怪我したのかな? ……あの包帯。てっきり喉に穴の痕があるんだと思ってた。ウチのお父さんが事故に遭った時みたいに、入院していた時に開けた穴の痕を気にして、隠してるんだと思った……。お父さんもさ、まだ痕が残ってるんだよね」  そうだ。  ユーキのお父さんは、大きな事故に遭ったって聞いたことがあったっけ。  ぼくもなんとなく、自分と三藤くんを重ねて見てしまっていた。  校庭の活発な様子で体育の授業を受ける三藤くんの姿が、思い出される。  この村に来る転校生は誰もが皆んな、病弱だったりする過去を持つという訳じゃないんだってことを、改めて思い知らされた瞬間だった。  ……だけど、あの痣。  首にぐるりと巻かれた紐のような、細い痣。生まれつきだったら隠す必要もないし、あまりにも変わっている。  あれは……。 「待たせたなッ!!」 「……ユーキ。完全に、遅刻だよね?」  えへへと笑ってごまかしているけど、待ち合わせの時間から、二十分は余裕で過ぎてしまっていると思う。  川遊びに行こうと学校前で待ち合わせの約束したぼくとユーキの夏休みは、こうしてユーキの遅刻から始まったんだ。  村は山に囲まれている盆地に分類されるらしいけど、ぼくらの生活圏は村の外れ、つまり山との境目が曖昧なところにある。小学校は山の中腹にあるし、ぼくの叔父さんの家は山の麓から少し登ったところだ。  雑木林に囲まれた坂道ばかりで、いつの間にか山の中の奥深いところまで入ってしまうようなこの場所は、気がつけば車一台がやっとの道幅になり、やがて舗装されていない剥き出しの地面が見える頃になると、辺りは影ばかりになる。そうすると梢の隙間から葉を通した柔らかな光が線となって、いくつも斜めに差し込む息を呑むような光景の中を歩いていることに気づくんだ。  木洩れ日の光。掌にその光を掬い取り、上を見上げると濃淡のある様々な形の葉が、日の光を受けて瞬いているのが見える。ちらと覗く空の紺碧の青さが眩しくて、ぼくは瞬きを繰り返す。  ユーキの案内で、川遊びに最適な場所というところに連れて行って貰った。子どもだけで遊びに行くときは、水が浅く流れが急ではないところしか駄目だと、きつく言われてきたそうだ。 「足首までの深さがあれば、人は溺れるに充分だって祖父(ジイ)ちゃんが言うんだ。だから小さい頃、お父さんとよく遊びに来たここにしようと思って」  小さな橋の上から下を覗き込むと、ユーキが言う川があった。  巨大な岩に囲まれた、深いエメラルドグリーンの色が鮮やかな淵の上に深い緑色の樹々の枝が迫り出し、岩の上に斑ら模様の影を作り出している。  ユーキが下流に向かって指し示す、その反対側の河原に近い辺りは、上から見ても川底の石がよく見えた。すでに何人かの家族連れが遊ぶ様子を見れば、子どもの足首から深いところで腿辺りのようだ。 「ここは流れが緩やかなんだ。遊ぶとしたら、小さな子がいるあの辺かな。あっちのあの辺りは、ちょっと深い。水はここまであるかな。そんで、あそこのすごく綺麗な色をしたところは、この辺までくる深さ。中学生とかが、あの岩から飛び込んで遊んでる。今日は、まだ居ないみたいだね」  はじめにユーキが臍の辺りに水平にした掌を当て、次に頭の上に当てて深さを教えてくれる。 「初心者は、飛び込み禁止! って言うか、泳げないよね? 川の中で履く靴と浮き輪は、ちゃんと持って来た?」 「もちろん、用意したよ。あと着替えとタオルに水筒でしょ?」 「ちょっと心配だなー。水遊びしたことない人なんだから、絶対ライフジャケットがあった方が良いんだけど。それに川の水は冷たいんだよ? 分かって……ないか。初めてなんだもんね」  ユーキが心配そうな顔で、ぼくを見る。  ぼくはユーキを真似て、にやっと笑う。  結論から言えば、初めての川遊びは、とにかく最高だった。  きらきらと光が反射する水面。  水底の石がくっきりと見えるほど、綺麗で透明な川の水。  目の前に広がるその光景を見ただけで、興奮が抑え切れなくなる。  支度なんて水着を既に着ているんだから、靴を履き替えるだけなのに、もどかしい気持ちでそれを終えると、恐るおそる足を水の中に入れた。  水の中に光を跳ね返す、ぼくの足がある。  石に取られそうになる足元をしっかりと踏ん張り、両足で川の中に立った。  最初こそ、水に触れている箇所が千切れそうなほど冷たく感じたけど、すぐにそれが気にならなくなるほど、足の間を掻き分けて流れる水の感触に夢中になる。掌で水を掬うと、黄金色に輝く光も一緒に掬い取れるんだ。  なんて気持ちが良いんだろう。  ふとユーキを見れば、少し離れたところでシュノーケルを付けて腹這いになり、捕まらない魚を、捕まえようと遊んでいる。  そろそろと慎重に、ユーキの近くまで行って、思い切って川底に座ってみた。膝下までの水が、胸の辺りまでくる。  ラッシュガードが、お腹で膨らんだので空気を逃してやると、やがてぴたりと肌に張り付いた。 「ひゃぁぁ」  ぼくの情け無い声を聞いて、水から顔を出したユーキがゲラゲラと大笑いしたから、ぼくもつられて笑う。  持ってきた浮き輪を膨らませ、水に浮かぶコツを教えてもらった。ユーキは、ぼくのぎこちない浮き輪の使い方に「まさか浮き輪も使ったことないなんて……」と呆れていたから、ぼくが「実は、お風呂以外の水は初めてなんだ」って言ったら、シュノーケル越しになんとも言えない表情をした後、ぼくの肩を二度叩いた。  ぽん、ぽん。  そっか良かったな、って感じかな。 「気持ち良いね」 「……うん」  河原の近くで寝そべり、足のほうだけを水の中に入れ、浮き輪に頭を預け目を瞑った。  瞼の裏は赤く、顔や腕に当たる太陽の熱が、じりじりと音を立てている。  ぼくの隣りでユーキも仰向けになって、シュノーケルを額にずらし同じように目を瞑っていた。 「ねえ、ユーキ」 「……何?」 「また来ようね」 「そうだねー。……お腹空いたから、次来る時は、おやつを持ってね」 「賛成」  川を流れる水音が絶え間ない。それを縫うように遠くから小さな子どもの甲高い声が、聞こえてくる。 「……が、見えないんだね」 「え? 何?」 「ここからは、火の見櫓が見えないって言ったの」  ぼくは空に掌を翳して見る。  指の隙間から、真っ青な空が覗いていた。 「木が隠しちゃってるんだね」  今いる川の中から見上げてみれば、川崖のその上にある樹々が、せり出すように空に覆い被さり、火の見櫓の姿を認めることは出来なかった。 「気にしすぎるから、目につくんだよ」  確かに。  ユーキが言うように、嫌いなものほどすぐ目に入ってくるのは、そういうことなんだと思う。 「今日は、もう上がろうよ。お腹空いたし」  言われて辺りを見回せば、ぼくたちの近くで遊んでいた家族連れも、帰り支度をしているところだった。それと入れ替わるように、中学生の人たちが岩場の辺りに集まって飛び込みを始めている。 「ぼくの叔父さん()で、ご飯食べてく?」 「そうしたいけど、今日はダメだな。昼は家で食べるって言っちゃった。また、次にしよう。三藤くんとこの喫茶店も遊びに行ってみたいし、夏休みは、まだまだあるからね」  ユーキは指折り数えながら、言う。 「まずは三藤くんとこの喫茶店でしょ。御社でお祭りもあるし、花火もやんなきゃならない。川遊びもまだやるし。あ、あとウチにも遊びに来てよ。ただし問題はひとつ。宿題だな」 「そういえばユーキ、宿題はちゃんとやってる?」 「えー? 夏休みが終わるまでに、やればいんじゃね?」  ぼくは、わざとらしい口調のユーキに、これ見よがしな溜め息を吐く。 「夏休み前に、漢ド終わらなくて先生に怒られてたよね? ちなみに、ぼく夏ドリルはもう終わってるから。後は読書感想文と交通安全の絵と日記三日分……だけど今日の川遊びを書く予定だから、日記は後二日分だね」 「何だよそれーッ。夏ドリル二日か三日くらいで全部終わらせたってこと?! じゃあ、自由研究か工作は? どっちやるの?」 「工作と思ってたんだけど、自由研究は一人じゃなくても良いって言ってたでしょ? ユーキと三藤くんが良ければ、三人で学校の周りの地図とか作るのどう? 遊びながら出来そうじゃない?」 「……ふうむ。おぬし、なかなか策士よのう。じゃっソレ、いただきました」  川から出てみれば、すっかり身体の芯まで冷えてしまっているのが分かった。  タオルが温かくて気持ち良い。  手術跡が見えないようにユーキに背を向けて、寒さで震える手で体を拭いてぎこちなく着替えると、さっさと先に着替えを終えたユーキが頭にタオルを巻き、腰に手を当てて水筒を飲んでいるのが目に入る。  ……うん。いつもどおり、逞しい。 「何?」 「なんでもないデス」  疲れた体を引き摺るようにして、もと来た道を折り返しで行く。 「疲れちゃった? 水から上がると身体が重く感じるよね」 「うん。もうクタクタ。……指が皺々になってるよ、ほら」 「ねえ。魚ってさ、捕まえたことあるの?」  ユーキは笑って「あるけど、持って帰らないよ」と言った。 「捕まえるにしても、手では、無理。小さな魚を、網に追い込んで掬うようにして捕まえるのが精一杯だし」 「そうなんだ」 「それに、めちゃくちゃツイてたとしてさ、大きいの捕まえられても、食べるわけいかないし……」  うんうん。  ユーキの話を聞きながら、ぼくは半分、自由研究のことを考えていた。  学校の周りの地図を作る。  それはあくまでも名目にすぎない。  本当に調べたいこと、それはあの変わった火の見櫓だ。  この村の火の見櫓が変わっていることは、何となく知っていたけど、どこか他の地域にも似たようなものがあるんじゃないだろうか。  そう思ったぼくは、まずは普通の火の見櫓とはどんなものなのか、夏休みに入る前に学校の図書室で調べたんだ。  火の見櫓とは、集落の安全を守る目的があって、火災をいち早く見つける為だったり警鐘の発信元だったりするものなのだと、その本には書いてあった。  色々な形の火の見櫓があることも、写真と共に説明されていたけど、この村にある火の見櫓のように『火が焚べられている』ものはない。  それに、そもそも半鐘は集落に急を知らせるため、火の見櫓に無くてはならないものの筈が、それがない、ということ自体おかしな話だった。  さらには全体が黒く塗られ、奇妙な装飾の施された屋根と手摺りの付いた火の見台、梯子と一体になった蜘蛛のように節のある八本脚のこの村の火の見櫓は、どんなものとも似通ったところがない。  あの火の見櫓は、いつからこの村にあって、いったい何の為に作られたものなんだろう。火を絶やさないのは、何の意味があるのだろう。  空を見上げる。  火の見櫓が、道路を歩くぼくを見下ろしていた。  分かれ道の少し手前で、叔父さんに送って貰おうか? と聞いたけどユーキは首を振る。のんびり一人で歩いて行くのが好きなんだって。  それならいいけど、すごい体力だね。  明日は三藤くんの家に行く約束をして、そのまま分かれ道で手を振った。  宿題の夏ドリルをユーキは持って行くらしいけど、ひょっとして三藤くんのを写すつもりなんじゃないかな。  うん、あり得る。  ぼくたちは始まったばかりの夏休みを、目一杯遊ぶことを誓い合って別れた。  叔父さんの家の近くで、この辺りではあまり見かけない派手で高そうな車とすれ違う。  左ハンドルのその車の運転席に座る人を、どこかで見たような気がして、ぼくは思わず過ぎ去る車を振り返ってしまった。  誰かに似ている?  その誰かが思い出せそうで、なかなか浮かんでこないまま、家の裏手に回る。  普段ならきちんと閉じているのに、今日ばかりなぜか開け放したままの玄関を、誰だったのかと考えながら潜ったせいで、ただいまを言うのを忘れてしまった。  外から帰ったぼくには、家の中は真っ暗で何も見えない。廊下の奥にある窓だけが暗闇を小さく四角に切り取って、砂防林の鮮やかな緑色を覗かせている。やがて暗がりに目が慣れてくる頃、キラキラ光る埃の中に斜めに傾ぐ階段のようなものが、廊下の先にぼんやりと浮かび上がって目に入ってきた。  ……階段?  いや間違いなく、階段だ。  ……と、いうことは?  ユーキが見つけた、あの天井にあった不自然な四角い枠は、屋根裏に続く跳ね上げ式の階段になっているようだった。  その階段の上の方に視線をずらしたぼくは、叔父さんの足が消えていく瞬間を目の当たりにしたことで、それは確信に変わる。  このときは蜘蛛のことも、何もかもすっかり忘れて、ユーキと一緒に夏休みにすることがまた一つ増えたとぼくの頭は、単純に喜んでいたんだ。  そしてさしたる理由はないまま、なぜか忍足で階段の下まで行って上を覗き見た。  暗くてよく分からない。  階段に足を掛けようとしたんだけど、上がってはいけないと、何かがぼくを引きとめる。  せめて様子を窺おうと耳を澄ましてみても、叔父さんが何か荷物のようなものを動かしたり、引きずる音が聞こえるだけだった。  音だけで分かるのは、紙を捲る音。何かの引き出しを開け閉めする音。重そうな荷物を引きずる音に、軽い何かを移動させている様子だけ。  何をしているんだろう?  お店の品物かな?  けれど店で使うものや売り物は、商品棚の一番下のダンボール箱に入っていることを、ぼくは知っていた。  それに……とぼくは思う。  叔父さんの家を案内してくれた時、屋根裏部屋があることは教えてくれなかったのは、なぜだろう?  理由は、ないのだろうか。  それなら、なぜ……。  屋根裏部屋から階段を降りてきた叔父さんは、下に佇むぼくの姿を見て、拙いところに出くわしてしまったかのような仕草を一瞬覗かせた後で、それを誤魔化すかのようにわざとらしく酷く驚いた顔をしたんだ。 「驚いた。帰ったなんて気づかなかったよ」 「……うん。ただいま」  やましいことなど無いはずなのに、ぼくは叔父さんの目を、真っ直ぐに見ることが出来ない。 「川遊びは、面白かったかい? お風呂にでも入りなさい。汚れを落としてから、お昼ご飯にしよう」  叔父さんは、何もなかったような顔で階段を元の通りに戻す。 「……玄関。開けっ放しだったけど、誰か来てたの?」 「そうだったか? ……だから帰って来たのに気づかなかったんだな」  今度は叔父さんが、ぼくの方を見ないで答えた。 「さあ、お風呂だ。叔父さんは、ご飯の支度をするよ」  ぼくの頭を軽く撫でて、台所へと行く叔父さんの背後姿は、明確な答えは避けたものの、この家に誰かが来ていたことを物語る何かがあった。  それはきっとあの車に乗っていた人だと、ぼくの中で何かが告げる。 「叔父さん。ぼく車、見たんだ」  叔父さんの背中に向かって、そう言ってみた。 「……そうか」  背後姿のまま、叔父さんはそれだけ言うと振り返ることなく台所に消える。  ぼくと叔父さんは良く似ているんだ。  明るい陽の射すお風呂場で、水色のタイルの上に立って熱いシャワーを浴びながら、ぼくは叔父さんが隠そうとしているのは何だろうと考えていた。  三藤くんの家の喫茶店が開店したのは、終業式と同じ日だったけど、ぼくとユーキは夏休みを待って、三藤くんの家に行くことにしていた。  その方がゆっくり遊べるし、何より初めて友達の家に行くだけでも一大事なのに、そこが子どもだけで行く初めての喫茶店ともなれば、かなりの勇気がいるからね。  あの日、包帯が取れてしまった三藤くんは、次の日もその後も、それからもずっと首に包帯を巻いて、衿のあるシャツで首元を隠したまま学校へ通っていた。  だから、ぼくたちが目にしてしまったあの痣は、あの時以来見ていない。それが今、どうなっているのかも分からない。  三藤くんも、ぼくたちも何もなかったことにして、少ない一学期を終えたんだ。  ユーキと途中で待ち合わせをして、一緒に三藤くんの家に行く。  学校以外で三藤くんに会うのは初めてだから、何となく緊張する。二人していつもより口数が少なくなっているのを考えれば、それはユーキも同じようだった。 「ね、まずは喫茶店の方に行くの? それとも玄関? あ、玄関の場所が分かんないから、喫茶店?」  緊張が増したのか、三藤くんの家が近くになるにつれて口数の少なかったユーキが、いきなり早口で喋り始める。 「お母さんがさ、持って行きなさいって葡萄をくれたんだけど、これいつ渡すの? 誰に渡すのが正解?」 「玄関、分かんないから喫茶店で良いんじゃない? 葡萄は三藤くんのお母さんに渡せば良いと思うよ」  あーもうユーキったら、ちょっと落ち着こうよ。  何だかぼくまで、そわそわする。  駐在所の前で、お巡りさんがぼくたちを見て手を振ってくれた。  ぼくとユーキが振り返したその時、家の方から大事そうに、お包みの小さな赤ちゃんを抱っこした奥さんらしき人が、お巡りさんの方へと歩いてくるのが見えて、ぼくたちは二人で目配せをした後、大きな声で「こんにちは」を言う。  にっこり笑った奥さんは、とても優しい声で「お出かけ? 気をつけてね」とぼくたちに声をかけてくれた。  お人形さんみたいに綺麗だけど、ひどく脆いような感じがするその笑顔にどきりとする。 「奥さん、初めて見たけど良い人そうだね」  ユーキがぺこりとお辞儀をした後、ぼくにそっと囁く。 「うん」  ぼくもお辞儀をしながら、ユーキに答えた。答えながらも、ぼくは奥さんとその腕に抱く小さな赤ちゃんに目をやっていた。  違和感? なんだろう? 「あ、着いたよ! 見て、駐車場に車が停まってるよ。観光客かなぁ?」  ユーキがはしゃいだ声を上げて、ぼくの思考を遮る。見ると、駐車場には三台ほど車が停まっていた。本当だ。どれもナンバープレートに書かれているのは、この辺りの地名ではないみたいだ。  あ、あの車。 「派手な外車だよねー。知ってる? これさ、村長さんの車なんだよ? あ、村長さんって聞いておじいさんを想像したな? チッチッチッ。なんと、ウチのお父さんと同級生だって。中学までは、この村の学校に通ってたらしいよ。先代の村長が亡くなったから、こっちに帰って来て、村長さんになったんだよ。この村の村長って大概は世襲で罷り通ってるからね」 「へぇー? そうなんだ。ユーキが詳しくて意外」 「親が喋ってるの聞いてただけだけどね。ちなみに村長さんの奥さんは、こんな田舎には居たくないって、この村には来ないで別居してるらしいよ」  それならあの時、叔父さんの家に来ていたのは村長さん?  叔父さんと村長さんは顔見知りどころじゃなくて、もしかしたらもっと親しいのかもしれない。  何かを預かるくらいに……?  ぼくの頭に、屋根裏から降りてくる叔父さんの姿が浮かぶ。 「あ! 三藤くんだ!」  おーい、と手を振るユーキに三藤くんが手を振り返すのが見えた。  相変わらず、首元まであるシャツの隙間からは白い包帯が覗いている。 「こっち、が、玄関なんだ。……家の方、に、まわって、くれる?」  ぼくたちの方に小走りで駆け寄ると、三藤くんは掠れた声でそう言いながら、右手を喫茶店の正面から裏側に回すような仕草をする。  三藤くんの背後に見える、学校と同じくらいの古さがあったお化け屋敷みたいだった小さな「ドライブイン」も、辺りの雑草は綺麗に刈り取られ駐車場が整備されたそこは、ログハウスのなかなか素敵な喫茶店へと様変わりしていた。  もともとしっかりとした丸太を使ったログハウスだったこともあり、塗装し直し、屋根を掛け替えたことで、さながら昔から喫茶店であったかのように澄ました顔で地面に建っている。  その建物が、それまでの姿を知るぼくに向かって、ちょっと古い感じがまた良い味を出してるでしょ、と言っているようでクスッと笑ってしまう。 「いま、笑った?」  ユーキが振り返ってそう聞くから、ぼくはその話をする。 「ああ、何となく分かる! なんかさ、前は雑草に埋もれて、見るからにしょんぼりしてたのに、いまは誇らしげ? っていうの?」  駐車場を横切り、玄関へと案内してくれる三藤くんは、ぼくとユーキの話すのを笑顔で聞きながら建物の脇にある階段で一旦立ち止まる。  指を差して玄関はこの上にあると教えてくれた。  玄関は階段を上がったところにあり、一階が喫茶店で、二階を住居として使っているんだそうだ。 「あ、コレ葡萄。良かったらどうぞ。あの、ウチから持って来たのだから、遠慮しないでくださいって三藤くんのお母さんに……」    玄関のその扉の前で、ユーキが葡萄の入ったビニール袋を手渡す。  その大きな袋には、藤田農園の文字と葡萄と梨の絵がすべて紫色で書かれていて、中には沢山の葡萄が入っていた。 「あり、がとう」  受け取った袋を覗き込みながら、三藤くんが嬉しそうに言う。 「ぶ、どう、大好きなんだ。僕も、お母さん、も」  えへへと照れ笑いするユーキとぼくを家の中へ案内してくれる。  天井まで見上げて、わぁっと声が出る。ログハウスなんだから当たり前かもしれないけど、室内の壁がみんな丸太でぷっくりしているから、ユーキとぼくは思わず掌で撫で回してしまう。  うん。見た目通りに手触りが優しくて、気持ちいい。  最初に案内してくれたのは、居間と台所が一緒になっている、いわゆるリビングダイニング。この大きな木のテーブルは、ここに以前からあったものなんだって三藤くんが言う前からそうと分かるくらいに、この建物にしっくりと馴染んでいる。  次に、三藤くんの部屋。中は荷物が少なく、小さな収納棚とベッドがあるだけ。  最後にお母さんの部屋、もちろん中は見せて貰えず扉の前まで。  それから、あのダイニングテーブルで宿題をしようと言う三藤くんの言葉に、うげぇーと、ユーキが潰れた蛙みたいな声で答えた。 「ユーキ、夏ドリル持って来たんでしょ?」  ぼくが聞くと、嫌そうな顔で頷きながら背中のリュックを下ろす。 「僕も、う終わった、から写す?」  それを聞いたユーキの顔ったら! 「三藤くんは、何やる? ぼくも夏ドリル終わったから、今日は感想文の下書きを原稿用紙に写すつもりで持って来たんだ」 「二人、とも偉い、ね。僕は、借り、た漫画、読むよ」  そう言うと、ユーキがリュックから取り出してテーブルに置いた漫画を手に取って、にっこり笑う。 「なんか…ズルくない? ドリル貸してくれたら家でやるんだけどなー」 「……多分、やらないと思うよ。ユーキは」  漢字ドリルの件で田向先生に怒られているのを知っているぼくと三藤くんは、顔を見合わせて大きく頷き合う。 「……見てろよ。今日一日で終わらせてやる」  えっと……写しだよね?   ドリルを黙々と写す作業に取り掛かったユーキを見て、ぼくも原稿用紙に下書きを写し始める。  ちらっと見れば、三藤くんは離れたところにあるソファに寝転んで、漫画本を読んでいた。  ぼくはもう読んだ漫画とはいえ、まあね。  ……何か羨ましい。  ユーキと違って、早々に終わってしまったぼくは、ダイニングテーブルから離れ、漫画を読む三藤くんのソファの下に座ると、自由研究の話を持ちかけた。  それからユーキには言えなかった火の見櫓についても、聞いてみる。  三藤くんはソファに座り直すと、読んでいる箇所を指で挟んだまま「自由、研究は、それ賛成。僕も、この村を、知りたい」と言った。  そのあと少し考えてから、ぼくに言ったのは、三藤くんもまた、この村の火の見櫓が気になっているということだった。三藤くんが言うには、あれを見ると、なぜか不安になるらしい。  そう言った後また口を閉じて、何か考え事をしていた三藤くんが「この村、に、来る前の、記憶が……」と、再び何かを言いかけて、首を横に振ってやめた。  ……記憶?  村に来る前? 「とに、かく。自由研究は、それで、いこうよ。外に出て、遊ぶ、言い訳に、なるし」  三藤くん?   外で遊ぶ言い訳ってどういうことなのって、聞いたらいけないような気がして、ぼくはやめる。  ぼくの勘違いでなければ、三藤くんは勝手に外に遊びに行くのを禁止されているってことでしょ? それを禁止しているのは、三藤くんのお母さん以外誰でもないんだから、どうしてなんて聞く方がおかしい。  その理由を知っているのは、大概、大人だけなんだよね。   「ぐあーッ! もう休憩しても良いよねぇ? 二人ともなんかズルくない? 一人でやってるのもう嫌なんですけどー」  一人離れてダイニングテーブルに突っ伏したユーキが、大きな声で喚く。  それを聞いた三藤くんが笑いながら、休憩しようと言った。 「下から、何か、貰ってくる、よ。食べ、るでしょ?」  賛成! 大賛成!   ぼくとユーキは両手を上げて喜ぶ。 「喫茶店に行きたい気持ちも半分あるけど、緊張するから、またにする」  ユーキが正直に言って、皆を笑わせた。  ちょっと待ってて、と三藤くんが玄関から下の喫茶店に消えた後、ぼくとユーキは窓から外を眺め、駐車場を見下ろす。 「まだ村長さん居るね」  村長の車ともう一台の、駐車場には二台の車があった。 「ねぇ、ね。アレ、ほら! シラユキ先生と田向先生じゃない?」  こっちに向かって歩いてくるのは、ユーキの言うように、その二人のようだった。 「お昼かな?」 「……うん」  シラユキ先生……。  ぼくはその異様さに、ぞっとする。  一学期を終える頃、つまりあの日以降、シラユキ先生は顔がほとんど隠れてしまう大きなマスクをするようになった。  さらに終業式の日、全校生徒の集合したところに後から遅れて現れたシラユキ先生は、マスクに加えて真っ黒なサングラスで、完全に顔を隠していたんだ。  さすがに校長先生は良い顔を見せなかったけど、どの先生も誰ひとりとして直接シラユキ先生に何かを言うつもりはないようで、ざわついているのは生徒ばかり。  そのことに触れないまま、終業式は終わって夏休みに入ってしまった。 「……シラユキ先生さ、どうしたのかな」  ぼくの言葉に、ユーキが答える。 「……噂だよ。噂なんだけど……整形していた顔が崩れてきちゃったって聞いた」  顔が、崩れた? 「えっ? そうなの? 誰に聞いたの?」 「うーん……。直接聞いた訳じゃないんだ。だから、誰にも言わないで……って、言わなくても誰にも言わないか」  それからユーキは、ひどく嫌そうな顔をして「三年生の二人。あの二人が話すの聞いちゃった」と言って俯く。それからしばらくして、がばっと顔を上げると窓ガラスに向かって叫ぶように言った。 「あーッすっきりした! なんか立ち聞きしてたの秘密にしてるみたいで嫌だったし、悪口のようで嫌だったんだ。先生ーッごめんなさーい」  その後ぼくに振り向いて「だから見間違いじゃなかったのかもね、あの日」と続ける。 「……うん」  だけど、ぼくが見たのは皮膚の下を這う、何かだ。  もしかしたら、アレが皮膚を破って出て来てしまったのではないだろうか。想像するだけで、恐ろしさに身体が震えた。  ユーキには言えないけれど、シラユキ先生が隠しているものは、おそらくぼくが目にしたものと関係している。  そうなんだろうと思って、間違いない。  でなければ、この真夏に長袖で手袋までするようになるだろうか?   校長室の前で聞いてしまった、悲鳴に近いシラユキ先生の声が耳に蘇る。  ぼくは想像してしまうんだ。  隠しきれなくなった先生の身体中を這い回る、何か。 「お待た、せー。サンドイッチ、とパフェ、だよ。さあ食べ、よう」  お盆の上に、美味しそうなものを沢山載せた三藤くんが現れて、ユーキは飛びつくようにそっちへ向かう。 「飲み、ものは、冷蔵庫、の中。ちょっと、待っ、てね」  食欲がなくなってしまったぼくに、気づきませんようにとユーキをそっと見る。  冷蔵庫から飲み物を取り出す三藤くんの後ろで、小躍りしている様子を見れば、その心配は杞憂に終わりそうだった。 「喫茶店で、ランチねぇ」  三人でパフェをそれぞれ突きながら、話題は自然とシラユキ先生と田向先生になる。  喫茶店のお手伝いでデート現場を見た三藤くんによれば、二人は大抵小学校で待ち合わせをして、喫茶店に来るというデートを繰り返しているらしい。  えーっと、ちょっとまってよ?  二人とも先生なんだから、学校にいるのは当たり前じゃないのかな。  ぼくたちは夏休みだけど、先生達は普通にお仕事だと思うんだけど。  三藤くんが言うには、仕事終わりに毎日のように二人で喫茶店、つまりは三藤くん()に来てずっとお喋りしている様子を見れば、田向先生は学校には仕事に行ってるってよりも、シラユキ先生に会うために行ってるに違いないんだって。  うーん。三藤くん……。  それでも今日みたいに、お昼に来るのは珍しいみたいだけど。  喫茶店にいる時は、何を話しているのかは三藤くんの居るところまで聞こえてこないから分からないけど、田向先生の幸せそうな顔ったら、見ているこっちが恥ずかしくなるくらいなんだとか。  それに比べて、やっぱりシラユキ先生の表情は、分からないそうだ。  なぜなら、あの大きなサングラスにマスク姿なのは喫茶店に入って来てもそのままで、何も頼まないどころか、水さえ飲まないらしい。 「ま、田向先生が幸せそうならいんじゃネ」  時々、口の悪くなるユーキが生クリームを頬張りながら、分かったようなことを言う。  ……まあね。  食欲がなくなってしまったと思っていたぼくも、気づいたらすっかり綺麗に食べ終えていた。  三人で食器を洗った後、喫茶店に持って行くことにする。  そうすれば三藤くんのお母さんに、ご馳走さまとお礼が言えるし、何よりあの「お化け屋敷ドライブイン」がどんな風な喫茶店になったのか、も分かるからね。  階段を降りて、喫茶店の裏口から入る。  髪は短く、すらっとした姿の白いシャツに黒いパンツ。レンガ色のサロンエプロンを腰に巻いた女性が忙しくしていた。  しばらくして、ぼくたちに気がついて振り向いたので、洗ってある食器を、三藤くんが掲げて見せた。 「あらッ? まぁ。ありがとう」  にっこり笑う笑い方が、三藤くんによく似ている。  ぼくとユーキは口々に、ご馳走さまでしたと、ありがとうございましたを言った。  嬉しそうに頷く三藤くんのお母さんは「ゆっくりしていってね」と言いながら、ぼくとユーキを交互に見る。  ぼくは、三藤くんのお母さんがユーキに改めて葡萄のお礼を言っている間に、さりげなく店内を見渡す。  天気が良いからだろうか。田向先生とシラユキ先生は、三席あるテラス席のひとつに座っているので、ここからはよく見えなかった。日陰になっているとはいえ、この時間、外は暑いだろうな、と思う。  店内には、それぞれのテーブルに観光客だろう女性二人に、村長さんと思われる男性がひとり。  その男性は、ぼくの視線を感じたのだろうか? 顔を上げてこっちを見た。  その瞬間、ぼくは誰に似ているのか気づいてしまう。  ……ああ、そうか。  ぼくが思い出せなかったのは、三藤くんだったんだ……。  カラン、カラン。  ドアに付けたベルが、意外と大きな音を立てる。  新しいお客さんが入って来たことで、三藤くんのお母さんは少し慌てた様子で、お店の扉の方を振り向いた。 「いらっしゃいませ」  ぼくに背を向けた三藤くんのお母さんの首元に巻いたスカーフが緩み、白いシャツの間から肌が覗く。  そこに、見える。  ……細く紐のような紫色の痣。  ぼくは思わず、目を逸らした。
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