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第7話 村の祭り
夜空にたくさんの星があることを、ぼくはいつ知ったんだろう。
……そう。
最初は、病室の本の中で。
星空の観察図鑑。
星座にまつわる神話や伝説。
飽きもせず、同じ本を何度も眺めていた。
あの頃、夜になって見上げる目に映った実際の空はあまりにも明るすぎて、図鑑とは違ったそれを現実とはこんなものだと受け止めていたぼくに、このことを教えてあげたい。
そうなんだ。ぼくは叔父さんの家に来てから、本物の夜空が図鑑よりも素晴らしいものであることを初めて知ったんだ。
隣りにいるユーキと同じ空を見上げながら、ぼくは胸が張り裂けそうになる。
星座を見つけるのは、得意だ。
何度も読んだ本に書いてあった夏の星座を、記憶から引っ張り出す。
ほら、見て。
あの明るく光っている三つの星。
ダネブ、ベガ、アルタイルの夏の大三角形が分かれば、白鳥座、こと座、わし座がすぐに見つかる。カシオペア座は特徴的な形だし、それをいうなら北斗七星は見落とすことなど出来ない柄杓の形をしている。
そのまましばらく夜空を眺めていると、だんだんと目が慣れてきてもっともっと細かな煌めく星を、捉えはじめるんだ。そうして気づかなかった、たくさんの光の粒が瞬いていることに驚く。
「もうすぐ夏の流星群があるね。その時は一緒に見ようよ」
今にも空から降って来そうな星を見ながら、ぼくの隣りでユーキが微笑んだ。
山の御社でお祭りがあることを聞いてきたユーキが、ぼくを誘いに来たのは、その日の朝だった。
なんて気の早いことだろうと、くたびれたパジャマ姿の叔父さんが呆れた顔で、玄関先に立つユーキを見ていたのが、午前八時ちょっと前の話。
最近、遊べていなかったこともあって、早朝からの農園の手伝いが終わったから居ても立っても居られなくて、思わず来ちゃったんだとか。
朝ごはんは食べて来たと言いながら、ぼくと叔父さんに少しだけでもと勧められて断れなくなってしまったユーキは、一緒に二回目の朝ごはんを食べることになった。
微妙な色の粥の朝ごはんに、最初は戸惑っていたユーキも、ひと口食べた途端にその美味しさに驚いた顔で、ぼくと叔父さんを交互に見ると、ふた口目からは、遠慮のない大きな口を開けて食べ始めた。
そんな様子を目を細めて見ている叔父さんを見られるのが、ぼくは嬉しい。
「ウチ、今朝はパンだったんだ。お菜は和食の、お味噌汁もあるやつ。何でか分かる? お母さんのうっかりで、炊飯器のスイッチを押した筈が、押し忘れ。ひと仕事終えて農園から帰ってきて、さあ食べましょうで、炊飯器開けたら出来てなかったんだよねー。みんなお腹空いてるから、焼きたての塩鮭に、出来立てのお味噌汁を前にもう待てないからパンで良いやって。お米が恋しくなる組み合わせだった」
屈託ない様子で話をするユーキに、叔父さんは笑顔で相槌を打つ。
「ユーキ、お祭りは夜なんでしょ?」
ひと足先に、お茶を飲むユーキにぼくがそう尋ねるとうんと頷いた。
「そうだよ。昼一回ウチに帰って、昼寝して夕方また誘いに来るつもり。明日の手伝いはパスして貰ったからさ」
「じゃあさ、午前中は三藤くんの家に行く? それとも川遊びする?」
「川遊びは支度しにウチ戻るの面倒だから、三藤くんの家にしようよ」
それを聞いた叔父さんが、車を出しても良いよと言ってくれたんだけど、ユーキは首を横に振った。
「ありがとうございます。でも、いいや。川遊びしたらさすがに昼寝どころか、朝まで疲れて寝ちゃう。お祭り楽しみにしてるから、辞めときます。川遊びは、明日にしようよ。お昼ご飯持ってさ」
「いいね」
叔父さん……。それは、ぼくが言うセリフなんじゃないの? まあ良いんだけど。
「それに……」
なんだかくすぐったそうに、ユーキが笑いながら「自転車でここまで来たんだ。行きは押して行くしかないけど帰りは坂道を下るから、楽だしさ」と言った。
喫茶店は十時には開けるって、三藤くんが言ってたから、これから支度をして歩いて行けば丁度いい。
ユーキを台所に残して支度を済ませると、ぼくは自分の部屋へ行く。ちょっと考えて、この間の中身が入ったままにしたリュックを背負い、また台所に戻った。
ユーキがぼくを見て、ぱっと笑顔になる。
「準備出来たんだ? じゃあ、行こう。おじさん、ごちそうさまでした」
飛び跳ねるように椅子から降りると、ぼくに向かっていつものごとく、にやりと笑ってみせた。
晴れ渡る青空に風もなく、じっとりと纏わりつくような暑さが、早くもぼくたちの体力を奪い始める。
緩い坂道を、ユーキが自転車を押して歩くその隣りで、三藤くんの家に着くまでの間、ぼくは学校の図書室で知ったことを話した。
最後まで黙って聞いていたユーキが、しばらくして口を開く。
「白鳥美雪って言うんだ。シラユキ先生……」
ああ、そうか。
だから生徒に、シラユキ先生と呼ばれても、特に気にしなかったんだ。
「シラユキ先生は、さ。あんな風で表情も変わらないから、ちょっとアレだけど……誰も気づかないようなことにも、気づいてくれるんだ。先生に、こっそり助けて貰った子は結構いるんじゃないかな?」
「……そうなんだ」
どんなことか、なんて聞けないけれど、きっとユーキもその一人なんだね。
「シラユキ先生に聞いたんだけど、先生はね、いつも誰かが期待するその人にとって『都合良く当て嵌められた自分』を演じてきたんだって。その人の自分に対する期待を、裏切りたくないからってさ。
それでも、誰かの為にどんなに自分を押し殺しても、結局は期待に沿うことは無理だったって。
そして期待に応えられない自分を、他人の所為にして、自分の弱さから逃げていたって言うんだ。
だけどね? すぐに誰かを信じて裏切られるのは、結局は、相手のことを自分の都合で良く見てただけだった。嫌なことから逃げて、目をつぶっていたからって今なら分かるけど、その頃は裏切られるのは他人のせいばかりで、自分のせいじゃないと思ってたって。そのくせ常に人の顔色ばかり伺うだけの弱い自分が嫌だった、って言ってたんだよ。
ずいぶん前に、シラユキ先生が話してくれたんだけどさ。先生は、そういうことに疲れちゃったんだって」
そう言ってユーキは、寂しそうに笑った。
ユーキがぼくを『お子ちゃま』とからかっていた朝を思い出す。先生のことを何も知らず、中身を知ろうともせず、ぼくは外側ばかり見ていた自分を少し情け無く思う。
いや、まあね。不気味すぎるってのも……あるけどさ?
強い、とか弱い、とかって何だろう。
確かに、悪いことに流されてしまうのは弱さかもしれない。それは断る強さが必要だよね。
でもさ、誰かの幸せのために……いつもじゃないよ? 時には、自分を押し殺すことがあるのは、弱いだけじゃ出来ないような気もするんだよね。
それに誰しもが強く、自身の考えを貫き通すことが出来る人ばかりで、世の中は上手くいくんだろうか。
……そんなこと、ないんじゃないかなぁ。
自分を殺すのも自分を貫き通すのも、どっちにしろ、極端過ぎたらそりゃあ、疲れちゃうのも当たり前だよ。
強いとか弱いとかに拘らず、何にも流されない自分を持つ努力も大事かもしれない。
だけど、ぼくは思うんだ。それよりも、自分が何かをして起きた結果を見て、それが間違いだと気づいた時に、自分という人間を弱いと責めるだけじゃなくて、認めたり、『赦すことの出来る』気持ちや、そう思える心が大切なんじゃないのかな。
なかなか自分を赦すのは、難しいけど。
ぼくがユーキにそう言うと、ユーキはぼくの顔をじっと見つめた。
「そうか。……優しいんだね」
真顔のユーキになんだか照れてしまったぼくは、慌てて話の方向を変える。
「だけどどうして、卒業アルバムに載っていないんだろう?」
「本物の先生じゃないとか?」
校長室でのやり取りを思い出す。
「うーん『期限はとうに切れている』とか『貴女は特例中の特例』だとか言われていたのも、そういうことなのかも」
ぼくはそう言いながらも、校長先生の『限界なのを自分でも分かっているはずだ』という台詞が頭にこびり付いて離れない。
さらには図書室でのシラユキ先生の言葉『誰かが私を、こんなふうにした』せいで、それが今は『あちこち崩れて』るって……いったい何が起きているんだろう。
つんとした腐敗臭。
たくさんの飛び交うハエ。
まさか……まさかね。
ぼくは恐ろしい考えを追い払うように、頭を振った。
「自由研究、どうする? 地図作るんでしょ?」
ユーキの声に、はっと我に返る。
そうか、まだ言ってなかった。
三藤くんの参加できないことを、ユーキに教える。それから、なぜそうなってしまったのか、ぼくが思う事も併せて。
ぼくの話を聞き終えたあとの少しの間、ユーキは何かを考えていた。
それから、ぽつぽつと話し始めたユーキの話は、ぼくの思うところを裏付けるようなことだった。
「……そっか。実は噂があるんだ。三藤くんの来る前からね。大人たちが話していたんだけど、村長さんには愛人がいるって言う話。もしかしたら、もしかして、そうなのかもしれないけど……村に連れて来るかな? 奥さんが来ないことを良いことに、そんなことする? でもさ、噂って嫌だよね。嘘かホントか分からないし、本人にだって聞きたくないことまで、耳に入ってきちゃうし」
それに、と続ける。
「大人のことは知らないけど……たとえそうだったとしても、三藤くんは何も悪くないよね? そんなんで外に出られないって、なんか腑に落ちない。と、思うんだけど……抜け出したらバレちゃうかな」
ユーキがそう言いいながら目を向けた喫茶店の駐車場には、派手な外車があった。
「我慢するのは、子どもばっかりなのも変だと思う」
ユーキが足元の小石を蹴り上げた。
守りたいんだろうな……大人は、子どもを守りたくてすることなんだと、分かるけど。
子どもだって耳を塞いでいるばかりじゃないんだ。聞きたくないことも、色々聞こえてきてしまうし、それについて考えることも思うこともある。
自分たちが子どもだった頃を思い出して、大人たちは、もっと子どもにどうしたいのか聞いてくれたら良いのに。
玄関前で呼び鈴を鳴らそうとしたとき、ちょうど良いタイミングで扉が開いた。
「うっわ! びっくりした」
ユーキが思わず仰反る。
「びっくり、は、こっち、だよ」
驚いた顔の三藤くんは、一転して笑顔になった。
「遊びに、来て、くれたんだ? やっ、た!」
これから喫茶店に手伝いに行くところだった三藤くんは、先に上がって待っててと言い残して階段を下りて行く。
「友達、来たって、言って、来る」
跳ねるように階段を下りる三藤くんの背後姿を見て、ユーキは「やっぱり、そのうち抜け出すしか、なくない?」と笑った。
どうやったらバレないか、考えなくちゃと呟きながら靴を脱ぐユーキに、乾いた笑い声で応えるぼくを見て、またいつもの顔でにやりとすると耳元で囁いた。
不可能は、ないって?
……言ってくれたな。
「とにかくさ、簡単に言えば気づかれないうちに行って、帰ってくればいんじゃん」
床の上で胡座を組んで、ソファに寄り掛かりながらユーキはきっぱりと言った。
お、おう。と押され気味の、ぼくと三藤くんの顔を見ながらユーキは「そっちのが、びっくりだよ。行きたくないなら、別にいいんだけど」と言った。
「行きたい、けど、さ。怒られ、るのは、僕なんだ、よ?」
「あ、そうだね。そっか。……じゃあ、一緒に怒られたらいんじゃない?」
やっぱ天才すぎるワ、と笑顔を向けてくるユーキに、三藤くんが堪え切れず笑い出した。
「ユーキ、には、敵わない、よ」
そりゃあユーキの言うように、簡単に物事が済めば良いんだけど、そうはいかないんじゃないかな。
「常にお店にいるわけじゃないし、どんなタイミングで家に帰って来るかも分からないんだよ? 階段さえ上がればここは、すぐなんだし」
「それが問題なんだけどさ、ある程度パターンがあるんじゃない?」
「お、客さんが、いっぱい、とか?」
確かに接客中は、無理だけど……はっきり言って三藤くんとこの喫茶店、そんなにお客さん来ないよね。それに、注文が揃ってお客さんがゆっくりしている時こそ、上の部屋に顔を出すくらいの余裕があるとも言えるし。
「だわな……」
がっくりと肩を落とす二人。ぼくの意見で、途端に戦意喪失してしまった感は否めない。
だから思わず、あまりにも悲しそうな二人に「でっ、でもさ。パターンくらいは、あるかもしれないよね?」と言葉をかけてしまったのは、ぼくの致命的ミスだ。
あーあ、やっちゃった。
やる気ばかりが空回りしそうなユーキと、実際のところ本気かどうか分からない三藤くんと、乗り気でないぼくの『ターゲット監視作戦』は、こうして立ち上がる……んだけど……。
「監視するんだよね。でさ、どうやって?」
「あのねユーキ……それが出来たら苦労は無いんだよ」
「あ、そっか」
さっそく壁にぶつかるんだから、これやる意味あるんだろうか。
「ひとまず、何日か続けて遊びに来て、三藤くんのお母さんが部屋に来るタイミングや、時間を記録するしかないんじゃない?」
なるほど、と二人が頷く。
店内を覗くカメラがあるわけでもなければ、店がある床下が見えるわけでもないんだし……それしかないよね?
「でもこれはある程度のパターンしか分からないんだよ? 三藤くんのお母さんの、タイミングで、部屋に顔を出しているんだからさ」
「ん〜……じゃあ、あれだ。裏を返せば、部屋に来る用事がなければ来ないんでしょ? 用事を作らせなければ大丈夫かもよ」
「だからどんな用事があるのか無いのかは、三藤くんのお母さんしか分からないってことだよ」
「完璧無理ゲーだね」
「気に、しないで、外に、行っちゃう?」
三藤くんも、それ言っちゃう?
早くも『ターゲット監視作戦』は頓挫してしまうようだった。まあ、最初から無理だったけど。
「あらっ? みんなで難しい顔をして、どうしたの?」
玄関の扉が開いたことすら気づかなかったことに、ぼくたち三人は驚いていた。
近くで声がしたと思って見れば、三藤くんのお母さんがすぐ目の前で、ぼくたちを見下ろして首を傾げている。
全然、分からなかった。
足音も、しなかったんじゃない?
話、聞かれてしまったかもしれない。
その時慌てたユーキが、反対側にある壁の時計に思い切り体ごと振り返って目を向けたのを、ぼくは見てしまう。
えっと時間見ようとは言ったけどさ……。
「宿題、の、ことで、悩んでる」
お母さんの問いに対する答えを、三藤くんが、さらりと言った。
うん? うん。全く、その通りです。
「まあ、そうなの。大変ね。少し休憩したら? 今、お客さん誰も居ないから喫茶店に来ない? ご馳走するわよ」
「いい、や。また、今度」
「そうなの? せっかくそれを言いに来たのに、残念だわ。じゃあ、後で差し入れするわね」
ゆっくりしていって、と三藤くんのお母さんは、ぼくとユーキに言うと喫茶店へ戻って行った。
「思う、んだけど。お母さん、の方が、ぼくたち、を、監視、してそう」
確かに。
頻繁に家の方に顔を出しに来るのも、三藤くんの言う通りなのかもしれない。
「喫茶店、ちょっとだけ行きたかったなー」
「……ユーキったら」
「まあ、別にいいんだけどさ。次誘われたら、行こうよ。ね?」
そう続けたユーキと、ぼくの苦笑いを見て三藤くんも笑っている。
「だけど、監視してまで外出されたくない理由って、いったい何だろう。外に出るのは危険ってこと? 三藤くんには、心当たりがあるの?」
それ聞いちゃうのかと、ぎょっとした顔のユーキの視線を無視して、ぼくは三藤くんに聞く。
三藤くんは、しばらく真一文字に結んでいた唇を、ゆっくりと開いて答えた。
「……ある」
その顔はすっかり青ざめ、見ているぼくも苦しくなる。
そっか。そうだよね。
村長さんと似ているっていうのが、問題なんだと思っていたけど、流石におかしい。
だって、それなら喫茶店で手伝いなんて、させないよね?
なんだかそれは、ぼくが考えていることよりも、もっと深刻そうだった。
「ねえ、その話。聞いてもいいやつ?」
ユーキがそう言うと、三藤くんは首を横に振った。
「じゃあ、聞かないし。この話も終わり、ね?」
ぼくの方を見ながら、ユーキが念を押すように言う。そんなのぼくだって、無理には聞かないよ。
三藤くんは、口を開きかけて閉じた後、また少ししてから言った。
「ぼくも、聞いたばかりで、悩んで、るんだ。いつか、話す、かも、しれない。けど、ゴメン。今は、まだ」
ぼくたち三人は、黙って顔を見合わせる。
「そうだ!」
なんとなく重くなってしまった空気を、明るくしようとユーキが自分のリュックを開けて、中からボードゲームを取り出してみせた。ガサガサと音を立てて箱の中身を開けると床の上に広げる。
へぇー面白そう。
「これ持って来た。ウチの家族で今ハマってるんだ。ひと言で言えば、開拓ゲームだね。陣取り合戦って祖父ちゃんは言うけど。今日はとりあえず、これで遊ぼうよ」
ルールを読み上げるユーキの声が、天井に吸い込まれていくのを、半分うわの空でぼくは聞いていた。
「あ、お昼だ。帰らなきゃ」
ボードゲームが思っていた以上に楽しくて、ぼくたちはすっかり時間を忘れて夢中になっていた。
時計は、すでに十二時を回っている。
「差し、入れ、来なかった、ね」
残念だったね、と三藤くんが笑ってユーキに言う。
「それは別にいいんだけどさ。来ると思わせて来ないパターンがあるってことが分かったよね? つまり、来ないと見せかけて来るパターンもあるってことだから……。外に出るの、難しいかもなー」
まだ諦めていなかったユーキに、三藤くんはびっくりした顔をした。
「え? そこ驚くとこ? だって三藤くん外で遊びたいんじゃないの?」
「遊び、たいけど、二人、がいれば、楽しいから。ムリ、しなくても、いつか外で、遊べるかも、しれない、し」
そう言った三藤くんの視線の先には、窓の外に広がる空があった。
夏らしい入道雲が、くっきりと空に浮かんでいる。
こうして冷房の効いた室内から空を眺めていると、病室にいたあの頃を思い出す。
たとえ外に出られても、海に行くこともなければ、駆け回って遊べる筈もないのに、夏が来るといつもワクワクした。夏にしか見ることが出来ないあの独特な空や雲は、なぜか外へ飛び出して行きたくなる魔法があるみたいなんだ。
「そうだよね。夏休みは、まだまだあるんだから、三藤くんのお母さんも考えが変わるかもしれないよね」
玄関に見送りに来てくれる三藤くんに、ぼくはそう言った。本当にそうなるように。心から、祈るような気持ちで。
一足先に階段を下りてしまったユーキを、ちらっとみた三藤くんは、ぼくに低い声で「火の見櫓に、関した、ことなんだ、けど」と、言った。
もしかしたら、灯りが見える人には何かしら『決まり』みたいのがあるんじゃないかな。それか、共通点みたいなもの。
三藤くんは、そう言いながら不安そうに包帯の巻かれた首に手を当てて、眉を顰めた。
それは一体どんな決まりで、どんな共通点かは、まだはっきり言えないけど、と言うその様子から、三藤くんが何かに気づいているのは間違いないようだった。
「火が、見える、んだよ、ね?」
ぼくは頷く。
「ユーキ、は? 何か、見える、って?」
まだ聞いていないと、ぼくは首を横に振りながら答える。それに対して、三藤くんは、やっぱり思った通りだと呟く。
「多分、ユーキ、は……」
そう三藤くんが言いかけたとき「ねぇ? どうしたのー?」と、ユーキの焦れたような声が、ぼくたちの会話を中断させた。
「ごめん、ごめん。今、行くよ!」
ぼくは慌てて声を上げた。
途端に黙ってしまった三藤くんを、ちらっと横目で見ると何やら申し訳なさそうな、悲しげな顔でぼくを見ている。
「じゃあ、またね」
短くそう言ってぼくは、何かを振り切るように階段を下りた。
それ以上、三藤くんが口を開かないうちに、ぼくは早足でその場を去る。
なぜなら、三藤くんが何を言わなかったのか、何を言おうとしていたのか、気づいていたからなんだ。
『多分、ユーキには見えない』
そう言われると、分かっていたから。
ぼくたちとユーキが違うのは、ユーキはこの村の人だってこと。だから、村の外から来たぼくたちには火の見櫓の灯りが見える。
きっと、きっと……それだけ。
三藤くんが言いたいのは、そういうことなんじゃないのかな。
そうだよね?
でも、それだけじゃないと、何かがぼくに告げる。正直に言えば、そんな単純なことじゃないってどこかで分かっているから。
そのせいもあって、別れ際の三藤くんがひどく悲しそうな顔でぼくを見ていたのが余計に気に触って、一度も振り返らずに階段を下り切ると、ユーキに合流した。
酷く胸が、痛い。
だけどこれは前に感じていた心臓の苦しみとは違う、何かだった。
もう、考えるのはよそう。
片手で自転車を押しながら、体半分後ろを向いて手を振るユーキの隣で、ぼくは胸をぎゅっと押さえて前だけを見ていた。
「元気ないね、どうした?」
顔を覗き込むユーキに、ぼくは小さく笑いながら「ちょっとね」と答える。
「そっか、大丈夫? お祭り行けそう?」
ぼくが、うんと言うと、ユーキは目に見えてほっとした様子で言った。
「でも後からまた具合が悪くなって、一緒にお祭り行けなくなっても、気にしないからさ。いつもお父さんと行ってたんだ。二人で行けなかったら、今年は祖父ちゃんかな」
お父さんは? と聞こうとして、ぼくは開けた口を閉じる。ユーキの様子を見れば、一緒に行けない理由が分かる気がした。
そのあとユーキは突然、天を仰ぐと大きな声で言った。
「あーあ。火の見櫓の御呪いも、もう効かないのかなぁ」
え?
おまじない?
思わず立ち止まる。
ユーキが、驚いて突然立ち止まったぼくに向かって、首を傾げた。
「え? 何? 前に言ったじゃん。火の見櫓は村のお守りみたいなものだって」
「それは聞いたよ。聞いたけど……御呪いって何? そんなこときいてないよ?」
「んー? あれ? 言ったことなかった? 火の見櫓には御呪いの力があって、正しい方法でお願いをすると、それを叶えてくれるんだ」
「その方法って?」
「山の御社に、願いを書いた絵馬と、あと何かを奉納するんだよ。それは、何だったか忘れちゃった。でもね、絵馬も普通に書くだけじゃダメなんだって。書き方みたいなのが、あるとか。お父さんのことをお願いしに行った時は、祖父ちゃんと一緒だったからその詳しい方法はホントのところ、知らないんだけどさ」
えへへ、とユーキは笑ってから続けて言った。
「その時、祖父ちゃんは言ったんだ。あくまでも御呪いなんだって、だからいつかは効き目がなくなるんだよって。その時が来ても、短くても叶えてくれたことを忘れて、恨んだりしちゃだめだぞってね。そんなわけで、それを信じる村の人は、短い間でも、それでもいいからって、お願いするんだけどね。昔は信じている人が、いっぱいいたんだけど、今はそんなでもないみたい。もしかしたら信じてない人の方が、多いんじゃないかな? そんな人は、御呪いを胡散臭いだけだと思ってるから、見て見ぬふり? って言うのかな」
ぼくはユーキの話を聞き、考えていた。
『おまじないの効き目』
絵馬と一緒に奉納する『何か』
短い間……期限があるってこと?
「その場合……効き目が無くなると、どうなるの?」
「考えたくないな」
恐るおそる聞いたぼくの質問に、ユーキは俯いてしまう。
ぼくはそれで、分かってしまった。
ユーキが絵馬に書いたこと。
それは多分、事故にあったユーキのお父さんに関係あるんだ。
「そうだ! 自転車、乗ったことある?」
殊更に明るい声で、ユーキがぼくに言った。
「ないけど……何で?」
いひひと悪戯そうに笑ったユーキは自転車に跨ると、荷台をぼくの方に向ける。
「ちょっと、乗ってみる? この先は坂が緩いから、二人乗りいけそうじゃない?」
危ないよ、と即座に断わろうとして考え直す。本当は乗ってみたい。だから……。
ちょっとだけ。
ちょっとだけなら……。
「大丈夫かな?」
「任せろって! 大丈夫だから」
よく分からない自信たっぷりのユーキを信じて、荷台に座わる。腰に手を回すように言われ、ユーキの背中のリュック越しに、ぎゅっと掴まり手を回した。
「よーーしっ!! 行くよー!」
途端ふわっと体が浮いたような気がした。
巻き上げられる髪。
地面を擦る自転車のタイヤの振動。
ホイールが回る軽快な音。
耳のそばで風を切る音がする。
思わず目をつぶっていたぼくに、ユーキの楽しげな笑い声が身体を通して聞こえてきて、そっと目を開けた。
景色が凄いスピードで後ろに消える。
樹々の緑色。
青空には入道雲。
ガードレールは白い滑らかな線を描き、まるでぼくたちをどこまでも誘導する道標のようだ。
緩く続いていく坂道を、ぼくとユーキは揃って大きな声で笑いながら走る。
ずっと……。
ずっと、こうしていられたら良いのに。
やがて下り坂は、平坦な道になる。
叔父さんの家の前で自転車から降りたぼくは、夕方また会う約束をして別れた。
山の御社のお祭りは、ごく普通の夏祭りを、映像や本でしか知らないぼくにも分かるくらいに、とても奇妙なものだった。
夕方、叔父さんの家へ誘いに来てくれたユーキは、ぼくと一緒に叔父さんの車に乗ってお祭りに向かう。
「七時になったらここに迎えに来るから、それまで楽しんでおいで」
御社へ続く階段の前にある鳥居のところで車を降りたぼくたちは、叔父さんに、ありがとうとそれぞれ手を振る。
ぼくは叔父さんが運転する白い軽トラックの後ろ姿を見送りながら、そこに書いてある文字をじっと眺めていた。
微かに読める『倉橋商店』と紺色の掠れて消えかけた文字……。
「……持ってる?」
「え?」
ユーキに話しかけられていたのに、聞いてなかった。
「時計だよ。持って来てないんだよね。持って来た?」
ぼくも持っていなかった。
「ま、いっか。おじさん迎えに来てくれるって言うんだから、時間になっても来ないからって帰っちゃうこともないでしょ」
それもそうだね、とぼくも頷く。
「じゃあさ、まず何買う?」
そこ?
ぼくは一通り見てみたいとユーキに言う。
「あ、そうだね。どんなお店が出てるか、まずはじっくり見ないとね、うん」
いや、そうじゃないんだけど。
まあね、うん。ユーキらしくて良いよ。
山の御社は、行きと帰りに潜る鳥居が別だ。
行きは朱色の鳥居を潜り、急勾配で長いながい石階段を登る。
御社にお詣りを済ませると裏に周り、帰りは坂道を下り別の、今度は黒色をした鳥居から出る。
夜店は長い坂道の両脇に出ているから、自然、お詣りをした後に買い物を楽しむことになる。
ただ、鳥居のある場所だけ見ると緩いカーブの先、五百メートル程の間隔で横並びにあるため、今ぼくたちの立つ場所から神社がある小高い丘の裾周りの道沿いに移動すると、もう一つの黒色の鳥居に出くわす。そこの鳥居を潜り裏道を通れば、先に夜店を覗きながら御社に辿り着くのだ。
「ちゃんとした道でお詣りしてから、夜店を見ようよ」
「えーっ表の参道から階段登るの? これ結構キツいよ? これだから真面目くんは……」
やれやれ、といった様子でユーキが首を振るけど、夏祭りが初めてのぼくに免じて許してもらう。
鳥居の内側に足を踏み入れる。
明らかにそこは異空間だった。
鳥居とは境界線であり、別世界とを区別するものだということを、身をもって知る。
鬱蒼と樹々が生い茂り一段と薄暗く、ぴんと張り詰めるひんやりした空気。周囲とはかけ離れた厳かな雰囲気の中、目の前には苔生した石階段。
ぼくは、身体の中の何かが、すっと研ぎ澄まされるのを感じた。
覚悟を決めて、一歩を踏み出す。
階段を上る間は、話をしてはいけないとユーキに教えられたけど、声を出そうとする元気があったのも、はじめのうちだけ。
徐々に重くなる身体。
空気までが薄くなるように感じる。
最後の方は息を切らし、持ち上がらない太腿をなんとか次の石段に載せるので精一杯で話す余裕も、辺りを見回す余裕もなかった。
目の前の地面が視線と並行になった時、汗だくのぼくは、ようやく見えた終わりに足を踏み外しそうになって気を引き締める。
「……着いた」
荒い呼吸で両足を固い剥き出しの土の上に乗せ、前屈みで膝に両手をつく。
肩で息をするぼくを、気の毒そうに見るユーキの視線が痛い。
汗が、目に入って滲みる。
そして顔を上げて、はっと息を呑んだ。
白い提灯飾りが、ずらっと並んでいる。
中に灯る蝋燭の火が、周囲を妖しく照らし出していた。
頭巾を被った白装束の人がいる。
身体をこちらを向けた。
顔を見て、ぞくりとした。
表情の全くない、不自然な色と顔。
……仮面、だった。
その仮面は、木目も鮮やかな板を、顔に添うように楕円に整え削り、目の部分だけ細くくり抜いたものだ。同じ背格好の白装束に頭巾と仮面被った幾人かの人が、三人? 四人? 御社の周りをただ、ぐるぐると歩いているように見える。
口に穴が開いて無いのは、話すことを禁じられているからだろうか。
「……あの人たち、何?」
目的もなく、黙々と歩いているようにしか見えない木の仮面を被った白装束の人を目で追いながら、ぼくはユーキに尋ねる。
「ああ、アレがこの御社のお祭りなんだよね。後ろを振り返ることはだめ、話すこともだめ。見ててごらん。ほら、小さな子が来た」
ユーキに促されて見たそれは、歩き始めたばかりの幼な子。その手を親から引き渡されたのは、白装束の人。幼な子と手を繋くと、やや前屈みで歩みを進める。
「歩き始めた赤ちゃんを預けて、ああして手を引いて貰って、ぐるりと御社を周るんだ。あの子の親は、話しかけながら一緒に歩いちゃってるけど、本来は喋らず、振り向くことなく、赤ちゃんと白装束の人が歩いて戻って来るまで、親はその場で待ってなくちゃいけない決まり。だけどまあ、怖くて泣いちゃうから、親から離れなかったり、なかなか上手くいかないんだけどさ」
あの子は上手くいってるほうだよ。と、微笑ましげな顔で見ていたユーキは言う。
「……そうなんだ」
「与えられた新しい命はこうやって、ぐるーりと親元に戻るってことだったかな? んー転生輪廻する? 新しい命は、いつの世も巡り廻るってことを意味するんだったかな……? ごめん、忘れちゃったけど。ざっくり言えば歩けるようになって、これをやることで健やかに育ますように、みたいなことなんじゃないの?」
どうなるのか最後まで見たくて、長い時間待っていると、ひとり、ふたりと御社の正面、元の位置に戻ってきた。
白装束の人は、どうやら三人で、そのうち一人だけが、腰からぶら下げた筆に小さな鈴をつけている。
それから笑顔の両親に抱き上げられた赤ちゃんは、その額に白装束の人が腰から下げていた筆で何かを描かれていた。
ちり、と小さく鈴が音を立てる。
「額に紅く星を描くんだ。それで、終わり」
いつの間に日は落ち、見上げると群青色の空が小さく、暗闇に黒く染まる木の葉の間から見える。
提灯の灯りが、辺りを橙色に浮かび上がらせていた。
絵馬……。
目の端に、絵馬と小さな箱を抱えた人が通り過ぎる。
もしかして……。
ユーキを見ると全く気が付かない様子で、先程の幼い子とその両親を見ている。
あの箱には、何が入っているんだろう?
絵馬と箱を、そっと隠すように白装束の人のひとり、またもや鈴をつけた人だ……に手渡すのを、ぼくはじっと見ていた。
あれ?
この人、ぼくたちが上がってきた階段を下りて行く。どうやら反対側の、黒色の鳥居から来たようだった。
『正しい方法で、お願いごとをする』必要があるってユーキは言ったよね?
絵馬の納め方やその様子を見れば、どうも決められた動作を辿っているようだ。
幼い子どものいる親子連れは、ぼくたちと同じ。朱い鳥居から入り黒い鳥居へ向かう。
絵馬を持ったこの人は、その真逆だ。
どんな意味があるんだろうか?
「お祭りも見たし。じゃ、行こうか」
目をキラキラさせたユーキが、ぼくの手を引っ張る。
足元さえ見えない提灯の光が届かない真っ暗な御社の後ろは、まさに闇の中だ。
それも少し歩くと、一転する。
その闇の中に突然ぽっかりと現れる、そこだけが奇妙なまでに明るい様子は、異質だ。
裏の鳥居まで続く道に沿って、賑やかな夜店がたくさん並んでいた。普段いっぺんに見ることのないたくさんの人たちが笑い、話す声で溢れている。
辺りを白く煙らせるのは、あちこちにある鉄板や蒸篭、炭に落ちる脂から立ち昇る独特の匂い。それらはやがて、夜空に吸い込まれてゆくのが見えた。
甘いあまい綿飴の薫り。
汗をかく人熱の匂い。
吊り下がるのは、提灯よりも明るい剥き出しの照明器具。
「お腹空いたなぁ。焼きそばとか、お好み焼きとかタコ焼きのソースの匂いって、強烈に罪だよね。イカ焼きとか貝焼の醤油が焦げた煙も。串焼きの炭に落ちる脂とか。あ、じゃがバターの蒸篭とかの湯気も……って、全部?」
「りんご飴とか、綿飴も甘い匂いがする。あっちは、バナナちょこだ。あんず飴に、いちご飴?」
「ヨーヨー掬いがあるよ。射的に、くじ。あ、亀掬い! 毎回捕まえた亀をさ、家の庭で水槽に入れて飼ってたんだけど、いつの間にか逃げちゃうんだよねー。あはは」
「金魚掬い、やってみたいな」
「それは、最後にしようよ。アレ持ってて、うっかり落としたりしちゃうんだよね。地面にバタバタする金魚は見たくないよ」
ぼくとユーキは、まず軽く腹拵えをすることで意見が一致した。
ユーキの言うところの、強烈な罪の匂いに喜んで負けたぼくたちは、意気揚々と闇の中にぽっかりと浮かぶ光の中を、歩き回った。
そして楽しい時間は、あっという間に過ぎるんだ。
そう……森田先生が、言ったように。
お小遣いを、すっかり使い果たしたユーキは、満足そうにぼくの隣で戦利品を眺めている。
「またカメ飼うの?」
「ユーモラスで可愛いじゃん。好きなんだよね。それより金魚、せっかく掬ったのに返しちゃったの? あ、そう。別にそれならいいけど……まあ、聞いてよ。それにこのカメさ、今までのカメと違うんだ。リクガメだよ?」
「それ、何が違うの?」
ユーキは、ばっかだなぁとぼくを見た。
「背中に乗れるくらい大きくなるんだよ? 凄くない? そんなに大きくなったこのカメと、散歩とかしたら楽しそうだと思わないかなぁ? その時になったら驚くなよー」
得意そうにカメの入った透明な袋を、ぼくに突き出す。
「そこまで言うなら……楽しみにしてるよ」
「よし、言ったな。ふっふっふ」
二人でくだらない話をしながら、ぶらぶらと叔父さんとの待ち合わせ場所まで歩く。
こんな毎日が、ずっと続いたら良いのに。
まだ来ていなかった叔父さんの車を待ちながら、夏の空を見上げて、闇の中に光るたくさんの星に願った。
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