キスの日

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※短編集「珊瑚の本屋さん」に収録された作品の一つです。もしよろしければ他の作品もどうぞ。 「今日ってキスの日らしいですよ」  私はその言葉に呑んでいたビールジョッキを少し強めにテーブルへ置いた。 「なに? それは最近、別れた私への嫌味? 煽ってんの?」 「いや、別にただ言っただけですって。ていうか考え過ぎです」  テーブルの向こうで後輩は首を振りながらそう言ったが実際はどうだか。 「全く、アンタは先輩への礼儀ってもんを知らないのね。こっち来なさい」  酔いは回っていたが私は素面だ。だからここはちゃんと先輩として教えてやらないと。  私が自分の隣を叩くと後輩は少し面倒な顔をしながら移動してきた。 「そもそもキスの日なんて一体どこのどいつが決めたのよ。全く。そんな日なくたってあいつらは毎日好き勝手にやってるっつーの」 「へー。先輩も彼氏がいた時は毎日好き勝手にやってたんすか?」  私は後輩の腕を殴ってやった。わざと言ったに決まってる。 「大体、アンタは彼女いないの? そんな話聞いた事ないけど?」 「いないです」 「全く。ダメよ。仕事もそうだけどちゃんとプライベートも充実させないと。バランスなんだから。あっ、そーだ。教育係の私が女心ってやつも教えてあげよーか?」 「別にいいっすよ」 「何? 私じゃ不満ってゆーの?」  なんだこいつ。言ってくれるじゃないか。よーしそれじゃあちょっとからかって仕返しでもしようかな。 「あーでも折角のキスの日なのに私、誰ともしてないなぁ。だからほら、後輩。特別にしてあげる」  後輩の首に手を回し顔を近づける。直前で止めて仕返し完了。まぁ頬にぐらいならしてもいいかも。  そう自分の計画に内心ニヤつきながら私が顔を近づけると後輩は顔を逸らした。 「嫌です」  後輩のその反応に私は何も言えなくなり元の位置に戻る。目頭が微かに熱いのは流石にショックだったからだろうか。 「そ、そうだよね。ちょっとふざけただけだけど、ごめん……」  ゆっくりと私の方へ戻る後輩の顔。でも私は逆に俯かせた。 「だから嫌なんです」 「え?」 「――俺がずっと彼女いないの。実は先輩がずっと好きだったからで、でも先輩彼氏いたし……」  私は後輩が何を言ってるのか分からなかった。 「だから先輩にそんな風に意味のないキスされるのは、嫌です」  なるほど。私はからかわれているんだ。仕返しをするつもりが更にしてやられたらしい。  私はそう思うとさっきまで感じていたショックが消えてなくなるのを感じながら顔を上げた。一体どんな表情をして……。  後輩の私を見つめる目は――表情は真剣そのものだった。 「じょ、冗談だよね?」 「本気です。だからもしキスしてくれるなら、俺は自分の想いに応えてくれたって判断します」 「えっ。ちょっと待って……」  後輩は私の方を向き何も言わず真剣な眼差しで見つめてくる。冗談じゃなさそう。  私は少しだけこれまでの後輩を思い出した。会社では気が利き、呑みに付き合ってくれる後輩。そう言えばミスした時とか彼氏と喧嘩した時とか私が落ち込んでる時はよく付き合ってくれてたっけ。愚痴も言わず私が満足するまでずっと。  もう一度、後輩の顔を見つめ返した。  そして私は微笑みを浮かべるとその顔へ一気に顔を近づけた。
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