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天使のくちづけ
わたしの左耳のななめうしろには髪の生えていない箇所があり、母はそれを天使のくちづけたあとだと言っていた。天使のもたらす奇蹟というのは、たとえば不治の病が治るだとか、銅像がなみだを流すだとかふつうとは真逆のことなので、あたまにくちづけて髪が生えなくなるのはぜんぜんふしぎなことではないのだそうだ。いまでもずっと生えないのは天使のご加護がつづいているからで、それはとてもめずらしくてすてきなことなのだとも言っていた。
むかしは信じていたものの、小学三年生あたりから疑いはじめ、五年生になった頃には母がわたしに引け目を感じさせないためについた嘘だとわかっていた。けれどそれをわざわざ指摘するような意地の悪い娘になりたくなかったので、気づいたともいまだ信じているとも言わず、ただ気にしていないそぶりを見せた。
ところでわたしのクラスにはあんじゅという女の子がいて、その子は天使と書いてあんじゅと読むのだった。天使はとてもきれいな女の子で、すっきりとしたひとえのまぶたに長いまつげ、頬のそばかすは星を散らしたようだった。けれど彼女はあまりしあわせそうではなく、目はふせがちでいつもしわくちゃの服を着ていた。
わたしたちははじめただのクラスメイトだったが、出席番号の関係で給食当番や掃除場所のかさなることが多く、帰り道が途中までおなじだとわかると毎日一緒に帰るようになった。天使はわたしよりも背が高く、見上げるとうつくしい鼻すじに光が流れてわたしはいつもほれぼれした。
そのため、ある日彼女が「わたし、じぶんの顔がきらいなの」とつぶやいたとき、わたしはびっくりして手に持っていたねこじゃらしを落としてしまった。
「どうして?」
「だってこんなそばかす、きたならしいじゃない」
「そんなことない。星空みたいですてきよ。はじめて見たときもいまも、ずっとそう思っているわ」
天使はぱっと顔を赤くしてはずかしそうにうつむいた。そのようすを見ているとわたしもだんだんはずかしくなってきて、とりつくろうために押し出した声はあたまがひっくりかえっていた。
「わたしにもすこしひとと違うところがあって、それは顔ではないのだけれど、このあたりに髪が生えていないのよ」
ふだんその箇所がかくれるように髪を結っているので、わたしはゴムをはずし髪をかきわけて見せた。髪の生えていない皮膚はそうでない箇所よりも強く太陽の熱と風の動きを感じた。天使はきれながの目をまるくしてわたしの耳のうしろを見つめた。
「生まれつき?」
「そうみたい。母さんは天使のくちづけたあとだなんて言っていたわ。ご加護があるそうよ」
「すてきね」
「あなたの星空だってすてきよ」
わたしたちは視線を交わし、照れながら笑いあった。
学年が上がってもわたしたちはおなじ教室にふりわけられた。人数がすくなく三クラスしかないので、むしろこれまで一度もおなじにならなかったことがふしぎなくらいだった。わたしたちの関係に変化はなく、このまま一緒の中学校に通うことになるのだと思っていたが、その秋に天使の引っ越しが決まった。
「もうここにはいられないらしいの。ほんとうはだれにも言ってはいけないのだけれど、あなたはいちばんのともだちだから」
天使は信号が変わるのを待つあいだ、周囲にだれもいないことを確認してからわたしの耳もとにささやいた。彼女の傷んだ髪がちくちくと頬に刺さり思考はその感触に逃げようとした。仰いださきの彼女はあいかわらずうつくしく、ふせたまつげのはかなさ、青白い顔に浮かぶ星のまばゆさといったらなく、わたしはたまらない気持ちになってだらりと下げられたその手をつかんだ。
「手紙を書くわ。住所を教えて」
「それが、わたしもまだ引っ越しさきを知らないの。何度聞いても教えてくれなかった」
「でも、また会えるものね」
「もちろん。約束する」
わたしたちはそう誓ったが、それをまっすぐにしんじられるほどこどもではなかった。わたしたちはまだしばらく親の管理下にあり、ひとりでなにかなすことのゆるされないあいだに再会することはとてもむずかしいだろうし、それをどうにかおこなえるほどおとなになったとき、いまのこのたえがたいくるしみをそのままのかたちでいだいてはいないだろう。
わたしたちはたがいの目にその想像を見てとり、未来に傷ついて沈黙した。信号が青に変わり、停止線でとまった車の視線を感じながら立ち尽くし、そしてふたたび車が断続的に通りすぎてゆく音を聞いた。
「ねえ、わたしにくちづけをしてよ」
わたしがなにを言うかも決めないまま口をひらきかけたとき、切りこむように天使が言った。
「あなたとおなじところにくちづけのあとをつけて。天使のご加護なんでしょう? わたしにもわけてちょうだい」
わたしたちはスーパーマーケットのなかにある百円ショップではさみと毛抜きを買い、大きな川にかかる橋の下にもぐりこんだ。舗装されていないので草が生い茂り、ひざをつくとズボンがじんわり湿ってゆくのがわかった。
天使はわたしのまえにすわり、邪魔な髪をかきあげ手でおさえた。わたしはなにもないところではさみを開閉させた。
「ほんとうにいいの? もとの長さまで伸ばすにはかなり時間がかかるわよ」
「そのほうがいいじゃない。それだけご加護がつづいているということなのだから」
迷いのない口調に覚悟を決め、わたしはじぶんの結わえていた髪をほどいた。そして髪の生えていない皮膚に触れ確認しながら、場所と範囲がまったくおなじになるように天使の髪をつまんだ。これ以上一本も増やしたり減らしたりする必要がないだろうというところまで調整し、根もとから一センチほど残してはさみを入れる。長い髪が切り離され、わたしはその束をどうするか迷い、じぶんのランドセルの上に置く。天使の目がちらりとそちらに動いたが何も言わない。わたしははさみを毛抜きに持ちかえ、極端にみじかくなった髪の一本を引き抜く。
「痛っ」
天使の肩がびくんと揺れ、わたしのすべての臓器が体内で跳ねた。天使はわたしをふりむき、なみだのにじむひとみで「ごめんなさい」とちいさくあやまった。
「思ったよりも痛くて」
「毛抜きはやめて、はさみでもっとみじかく切ろうか」
「だめ。わたしのことは気にせずつづけて」
彼女はそう言ってななめまえに向きなおったが、わたしにそのようなことのできるわけがなかった。どうすれば痛みをやわらげられるかかんがえるうち、からだをあたためると毛穴がひろがるという話を思い出した。しかしまだ懐炉の季節でもなければあたたかい飲み物の買える場所もなかった。ここにあるのは湿った土とつめたい川だけだった。しかたなく儀式を再開しようとして、わたしはじぶんじしんがあることに気がついた。
わたしは天使のあたまにくちづけた。髪がちくちくとくちびるを刺したが気にならなかった。くちびるだけでは足りないかと思い、そっと舌を押しあてた。切ったばかりの毛さきが唾液に濡れしっとりと倒れる。天使の肩に置いた手から彼女がリラックスしているとわかる。
舌に触れる頭皮がはじめよりあたたかくなったところで、わたしはまた髪を抜きはじめた。左のゆびで周囲の皮膚を押さえできるだけ負担がかからないようにする。天使はときどき肩を揺らしたが最初ほどこわばってはいない。わたしはときどきくちづけを落としながら、一本ずつていねいに髪を抜いてゆく。
みじかく切った髪をすべて抜き終えると、天使の左耳のななめうしろにはまったく髪の生えていない箇所があらわれていた。その見た目はわたしが合わせ鏡でじぶんのその箇所を見たときとまるきりおなじだった。
「終わったわ」
「ありがとう」
「切った髪はどうする?」
「持って帰って捨てるわ」
「捨てるくらいなら埋めましょう。悪いものはぜんぶここに置いてゆけばいいわ」
わたしは地面を掘り、ランドセルの上に置いていた髪を埋めた。うつむいた視界に入る天使のゆびさきで彼女がわたしを向いているとわかる。見られていると思うと変に緊張し、彼女の意にそわないことをしているのではないかと不安になった。
髪に土をかぶせ、汚れた手を払っていると天使がたずねた。
「ねえ、わたしのあたまっていまどんな感じ?」
「鏡なんて持っていないわ」
「あなたとおなじなんでしょう? 見せてよ」
わたしは以前やったように、そしてついさきほどまで天使がやっていたように髪をかきわけ、彼女に見えるよう首をめぐらせた。するとすこしおくれてやわらかな感触があり、次いでなまぬるい熱が触れた。ふりむくといたずらっぽいひとみに迎えられた。
「どんな感じ?」
「舌ってあんがい熱くないのね」
「そうみたい」
わたしたちは楽しいようなせつないような、さかいめのわからない感情を飲みこんでほほえんだ。
気づくとあたりはうす暗くなっていて、わたしたちはランドセルをつかみ慌てて橋の下から這い出した。ときどき地面に手をつきながら土手をのぼっていると、となりの天使の髪がぱらぱらと揺れ、そのすきまからまるい空白が見えた。うす桃色の皮膚はわたしの唾液でまだ光っていた。わたしはそれがほんものの天使の唾液であればよいと思い、わたしの天使の髪がずっと生えないように願った。
2023.3
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