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桜の右手の手のひらは、花の香りがただよっている。
ぼくは花にはくわしくないから、なんの花なのかはしらない。でも、昆虫はあつまってこないようだった。
ちっぽけで、雨がしみこんだようなこの部屋に、花なんかおいていないし、土の臭いと、酒の臭いしかない。だからぼくは、桜がいなくなったあと、この家にはもう、母さんがいないことをしった。
耳鳴りと、暗い、天井の木目。
月灯りはどこにもなかった。
眠れない。
殴られた場所が痛い。
晩ご飯をたべる時、父さんは機嫌がわるかった。
また『ハケン』というお仕事の偉い人に怒られたんだとおもう。
父さんはイライラしている時、そして、お酒を飲む量が増えた時、ぼくと桜に暴力をふるう。
「にーにー」
父さんの部屋からもどってきた桜は、目に涙をうかべていた。
小学四年になってから、桜は時々、父さんの部屋によばれるようになっていた。
しばらくすると、その日はかならず、桜は泣きながらぼくの布団にもぐりこんだ。
腐った魚のような臭いが、桜の体から、ふわんと、ただよっていた。
妹の桜は、ぼくとおなじく頭が悪い子だった。
毎朝ぼくのために食パンを焼いてくれるが、電子レンジのタイマーの使い方がわからず、いつも真っ黒にしてしまう。でもおいしかった。
洗濯機の使い方もよくわからないみたいで、父さんの作業着を粉まみれにして、よく殴られている。
桜の体温は温かいけど、陽だまりほどではなかった。
ぼくは桜の右手の、人差し指と中指を口にふくんだ。
「にーにー? あたしの右手……ペロペロキャンディーじゃないよ」
おしゃぶりをしゃぶる、赤ちゃんみたい――。
初めて桜の右手をくわえた時、桜はくすぐったそうに、そうつぶやいた。
桜の右手。その手のひらには、花の香りがこびりついていた。
「また花の香りがする」
蜂やカナブンは花の蜜が好きだけど、どうやら桜の右手には蜜はついていないようで、彼らはちかよらない。
だから、ぼく専用の右手だった。
「いつもいってるね。あたしは、わかんないけど……なんのお花?」
「キンモクセイやアサガオのようにやさしい香りではないよ」
母さんがまだいた頃。
父さんの仕事がうまくいかない時は、ぼくと桜の晩ごはんはなかった。
お腹が減りすぎたぼくは、花の香りがただよう桜の右ひじに噛みついた。桜は泣き叫んでいたけど、ぼくはお腹が減っていた。
いくら噛みついても、人間の肉は丈夫みたいで、たべられなかった。
血がながれて、黒い痕ができた。
母さんがぼくをむりやり引き剥がした。
桜の右ひじには、今も黒い歯形が残っている。
桜はそれを友達にみられたくないようで、夏も長袖をきてすごしている。
「ねぇにーにー……。来年から中学生だね」
でも、長袖のしたからでも、花の香りはただよっている。
皆は、わからないのか?
眠れない夜が何日もつづくと、夜と昼間の区別がつかなくなる。
だけど、桜の右手を舐めていると、朝になっていた。
「でも……あたしはまだ小学生だ」
頭がぐわんぐわんするなかで、桜はなにかを話していた。
それは母さんのことだった。
母さんとまた会いたいね、とか、私も母さんみたいに綺麗になりたいとか。
よくわからないことをいっていた。
死んだ人にあえるわけない。
当たりまえのことだった。
母さんはもう死んでいた。
「学校の屋上におおきな樹が生えているでしょう? あたし、先生にきいてみたの。あの木はなんで生えているんですかって。でも、わかんないんだって。先生にもわからないこと、あるんだね」
天井の木目はやがてみえなくなった。
部屋は真っ暗で、月明かりもない夜だった。
「あの木には女の子が住んでいるんだよ。クラスのお友達がいっていた。それでね、満月の夜に木にむかうと、枝にかかったブランコでひとりの女の子が遊んでいる」
まぶたが重い。
桜の指はぼくのヨダレでべとべとになっていた。
頭のなかいっぱいに、水がつまってしまったように、重い。
「その子に願い事をすると、なんでも叶えてくれるんだって」
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