空っぽランドセル

5/29
前へ
/30ページ
次へ
 夜、桜は学校であったことをぼくに話した。  家庭科でサバの味噌煮を作った話だった。  すこし形がくずれてしまったけど、おいしかったらしい。 「えへへ……今度、作ってあげるね」  バンと勢いよく玄関扉が閉められる音が、ぼくたちの部屋にまでひびいた。  桜の体が、音に合わせてビクンと跳ねた。カタカタとふるえ、泣きそうになった。  父さんが桜を呼んでいる。声のかんじからして、酔っぱらっているらしい。 「ごめんね、にーにー。ちょっといってくる」  桜が部屋からでていくと、ぼくはお風呂に入ることにした。  お風呂からあがり、ぼくは算数のプリントとりかかった。  途中から数字が兵士になった。  ぼくは先のちびたエンピツをつかって、数字の兵士たちに銃をもたせた。  銃から発射した弾は、兵士をつらぬいた。  赤色のクレパスをつかって、兵士たちの血を描いた。  算数のプリントが真っ赤になってしまったので、ぼくは布団に入ることにした。といっても眠ることはできないので、暗い天井をながめるだけだ。  今日の帰り道をおもいだした。  ミヅキはぼくに、病院にいけといった。  しかし、父さんは病院にいくお金をくれないだろうし、そんなことをいえば、殴ってくるだろう。  部屋のふすまが開いて、桜の嗚咽がきこえた。  じつに一週間ぶりに、桜がぼくの寝床にきた。パジャマがとても、乱れていて、花びらが散っているようだ。  桜は嗚咽を噛みつぶしながら、ぼくの布団にもぐりこんだ。 「桜、どうして泣いているの」  桜はなにもいわずに、泣いていた。そして、あの腐った魚のような臭いがただよっていた。  桜の右手を口にふくもうとした時だった。  イヤっとちいさくうめいて、桜は手をひっこめようとした。だけど、ぼくはその手をのがさなかった。むりやりにひっぱって、ぼくはそのちいさくか細い、人差し指と中指、そして薬指も口にふくんだ。  へんな味がした。  それは、桜の体からただよっている、腐った魚の臭いと、にたような味だった。  苦い。 「ダメ……ダメだよぉ」 「おいしいよ?」  だけどそんな臭いはどうでもよかった。  うまれつき桜の右手に備わっていた花の香りは、苦みより、強かった。  眠くなってくる。  やがて、ぺたんと右手を布団のうえにおとすと、桜は腕の力を抜き、されるがままになった。  ぼくはストローでジュースを飲むように、桜の指を吸いまくった。 「あたし……早く、大人になりたい」  ぼくは桜のパジャマの袖をめくりあげた。  暗闇に目が慣れてきたのか、子どもの時に、ぼくが桜の肘につけた歯形が、じんわりとうかびあがった。 「にーにーは、お母さんにあいたくない?」  きっと、この細い腕のなかには、果物の果実のように、いっぱい、いっぱい、果肉と、おいしいエキスがつまっているにちがいない。  ぼくはお腹が空いていた。  それはきっと、桜もだった。  ぼくたちは、給食以外にまともにご飯をたべていないのだから。  だけど、この歯形を食い破ることができれば、ぼくたちはきっと、お腹いっぱいになるはずだ。    ぼくは黒い歯形へと歯をあて、やさしく噛んだ。 「ツゥ……」  でも、ぼくは昔のぼくとはちがう。  もうあの時とはちがい、十二歳だった。善悪について、ある程度判断がつく。  だから。妹の腕を噛みちぎってはいけないことくらい、わかっている。 「あたし……あたし、また、お母さんといっしょに、にーにーと、すごしたい……」 「母さんは、もう死んだ。子供みたいなこというな」 「しってるよ」  桜のヒッグヒッグと泣きながら、なんかいっている。  もうだめだ。眠い。限界だ。  ぼくは、ぼくのヨダレでびしょびしょになった、桜の指を口から放り出すと、目をつむった。 「あたしが……お母さんだったら、いいのに」  翌朝、学校で月乃さんとすれちがった。  ふりむいて確認したけど、それは、月乃さんではなかった。  ならば、ぼくはなぜ、その子を月乃さんと勘違いしたのだろう。  その答えはすぐにわかった。    教室でも、月乃さんによく似た子をみた。  だけど、その子も月乃さんではなかった。  でも、月乃さんと同じ、マネキンの目をしていた。
/30ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加