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自分が『右利き』であるという意識をもったのは、中②の時。バレーをやっていて、ライバル校のエースがサウスポーだった。
とにかく嫌だった。右利きの人が打つ球とは違い、コースや回転も逆にきたりするし、レシーブの位置どりに戸惑う。いずくていずくてたまらなくて、同時に、【右利きの方がいいわ~】と思ったりした。
高校に入って、一個上の先輩にサウスポーセッターがいた。小柄ながら、抜群のキャプテンシーを持っていて、みんなに好かれてた。俺もよく可愛がられた。左打ちのサーブレシーブが苦手だったから、よく付き合ってもらったりもしたもんだ。先輩が引退して、ポジションを引き継いでから、俺もだいぶ左を使えるように意識して特訓をした。結果、左手でサーブを打ってみたり、ネット際のボールを処理できるようになった。
人は、自分にないものを、他人を見て知る。そして、それが欲しいと思うようになる。その想いが強ければ強いほど、それに対する執着も比例して強くなるのだ。俺の場合は、【左利きになったら、左を使えるようになったらプレイの幅が広がる】。その想いだけで、普通の右利きの人よりは左手でできることが多くなった。端から見れば、【無駄な努力】と思われていたかもしれないけれど、本人にとっちゃえらく真剣だから、決して無駄ではないのだ。
世の中では、“頑張る”ということにきれいなものを見出す風潮があるが、頑張ることは“泥臭いもの”でなければならないと思う。本気で欲しいのなら、なんとかしてでも手に入れたいという執念が絶対に必要である。
今の未成年たちを見ていると、どうもそういった貪欲さが著しくないように思う。現実を知りすぎていて、動かないことが多い。一昔前の、【やってみなくちゃわからないよ】という言葉が、通用しないのだ。彼らのせいではない。それを教えない親や社会が悪い。最近それを、切に思う日々が続いている……
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