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『おだいじに 未菜』
その文字を、指でそっと撫でる。同じようにあの人も、この文字に触れてくれただろうか。もしそうならば、時間のずれを今すぐ歪めてあの人の手にもう一度触れたかった。誓いのあとのように。暗闇の中何度交差しても、最後には磁石に引き寄せられるように、指先を重ね合わせることができたなら。
「広人くん」
もう何度心の中で呼んだだろうか。
さっきはもう声に出していた。心の中で留めておくことなどできない。未菜は螺旋階段を駆け上がった。ずっと下を見ていたせいで目が回りそうになる。でも決して足を止めることなく上り続ける。そうして、
あの空間に、辿り着いた。
未菜は息を呑む。広人がいた頃の痕跡が、まだ残っていた。
あの日床に散乱していた本は、壁に沿うように積まれていた。お菓子のゴミなんかも一つの袋にまとめられて隅に置かれている。未だ捨てていないことにも何か意味があるように思える。これはきっと広人の父が片付けたのだろう。ただ、途中まで片付けたきり、やめたようにも見えた。
未菜はその薄暗い空間を旋回するように歩き回った。天体望遠鏡は相変わらずの存在感を放ち、未菜をも近づけないような佇まいだ。曇った窓の外からの唯一の光は、いつの間にかオレンジ色に変わっている。
その中の、どこかに。
広人からの返事があるはずだから。
それだけは分かっている。私はちゃんと誓いを守った。今再びこの空間へ帰ってきた。
───予感、事故、いじめ、病気。
もしそんなものがなかったら、この空間に広人はいたかもしれなかった。
何食わぬ顔で未菜を待っていたかもしれなかった。
いくら過去を取り戻そうとしても、意味がないことは分かっていたけど。
柔らかなカーペットの床に、ふと未菜は膝を折った。
景色が濡れていく。ただそれは冬の初めの凍りかけた時雨なんかじゃなくて、穏やかな太陽と重なる、霧吹きで優しく吹きかけたような雨粒の涙だった。
それが夕日と共に溶けて、地面に水溜りを作っていく。
改めて、純粋に広人のために涙を流すなんて初めてだった。もう二度と止められないかもしれない、とまで思う。
それがふと、世界から切り離されたような文字によって消し去られる。
どうしようもなく歪で、傷のような文字が目に入った。
カーテンで隠れた柱のような部分の、身をかがめなければ決して目に留まらないような位置に、それはあった。
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