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ひたりと、冷たい感触を顔に感じ目を覚ました。
「…?」
「起きたか。済まない。顔にも怪我を」
頬に絞ったタオルがあてられている。そこで漸く自分のそこに痛みを感じた。
「俺、は…?」
見慣れない古めかしい彫りの入った天井。
「ああ。俺の犬があなたに飛びかかったんだ。鹿を追っていたんだが、何を間違ったのか、あなたの方へ…。すまなかった。幸い落ちた崖の下に茂みがあって。それがクッションになって、大怪我にならずに済んだ」
「俺の…連れは?」
「居間で休んでいる。アルドルとケオだろ? しかし、どうして、あんな森の奥へ?」
そこで俺は頬に置かれたタオルを手に取り、身体を起こした。傍らに置いた椅子に腰かけ、こちらを見ていた男と視線が合う。
あ…。
思わず、息を呑んだ。
艶のある黒い髪に、憂いを帯びた灰銀の瞳。その瞳がじっとこちらを見つめている。
闇に浮かぶ月の様だ。瞬間、そう思った。切れ長なそれは鋭くも見えたが、目が合ったとたん、小さくそれが見開かれた気がした。
「狩りで…」
ようやく言葉を継ぐと、男はああと頷いて。
「あの連れの二人だけならその答えで納得できたが…。彼らはこの地方に住む部族の者だからな。だがあなたは違う。見事な金糸の髪…。光の神子か?」
それは誰もが知る光の神子の特徴だった。そして、黒い髪を持つ者は──。
「…そうだと、言ったら?」
襲うだろうか。
手近に剣はない。光の力を発動させてもいいが、居間にいると言う二人に迷惑がかかりそうだった。うかつに手を出せば、彼らに害が及ぶ可能性がある。
「別に…。ここはただの古びた屋敷で、住まうのは俺の主人とその使いが数名。ここは数か月前にわが主が手に入れた。主人は人と関わることを極端に嫌う。だからこんな辺鄙な場所を選んで住んでいるんだ。光の神子が何を疑っているのか分からないが、ごく普通の民だよ」
「民…。ここで、闇を見たものがいる。それは幻だと?」
「そうだろう。あると思って疑いの眼でいれば、そうでないものもそう見える。それだけの事だ」
「…屋敷の中を見て回っても?」
「主人の許可が下りれば幾らでも。だが、気が済んだら、ここへは二度と近寄らない事だ。主人は美しいものが好きだ。特に金色に輝くものに目がない。気に入られればここから出られなくなるぞ?」
「それは脅しか?」
「忠告だ。今までも幾度かそういう目にあって来たものを見た。金糸の髪に美しい容姿。気に入れば何としても手に入れる。…皆、光の神子ではなかったが。末路は悲惨だ」
「助けはしなかったのか?」
「主人には逆らえない。それに、その間は大人しくもなる。他への害が減ったからな。好きにさせた」
「それでは主人と言うより、獣に近いな? そんなものに仕えていて、嫌気は差さないのか?」
「それが仕事だ。他に生きるすべもない」
男はどこか投げやりにそう口にした。
この男。
どこか付け入る隙がある様に思えた。
それより何より。
男の灰銀の瞳に、酷く魅入られている自分がいた。
「綺麗だな…」
「何がだ?」
「いや。言えば変な奴だと思うだろう」
「別に。いいから言ってみろ」
ルークスは躊躇ったのち。
「目が…綺麗だと。闇に浮かぶ月のようだと──」
ふと気がつくと、男がじっとこちらを凝視していた。
「…すまない。おかしな事を言った」
気恥かしくなって、視線を反らす。と、男の手が伸びルークスの顎を捉えた。
「あなたの目こそ、とても綺麗だ。透き通った遠浅の海の色。深く惹き込まれる──」
互いの視線が、熱く絡み合う。
この感覚はなんだろう? 初めて会った人物なのに…。
まるで、旧知のものの様に感じる。
「俺の名はシン。あなたは?」
「ルークス…」
ルークス、と小さく呟く、シンと名乗った男の口から自分の名が漏れた時、心が浮き立つ様な感覚を覚えた。
「では言う、ルークス。悪いことは言わない。ここを今すぐ立ち去れ。でなければ──」
「『でなければ』? どうなると?」
いつの間にか人が一人部屋の中にいた。
足音もなく、気配も感じさせず。
扉が開いた気配もなかった。まるでそこに降って湧いたよう。
真っ黒な衣装に身を包み、その髪も目も闇の黒。真っ白な肌との対比に、どこか人離れした不気味さを感じさせた。
シンは直ぐに身を翻し、そこへ伏す。この男が主か。
「これは…美しい。光の神子…ですかな?」
ルークスがベッドから降りようとすると、そのままで、と、手で制した。
歳の頃は四十過ぎと言った所か。長く黒い髪を緩く背でひとまとめしている。
ガッシリとした体つきではあるが、妙に骨ばって見えた。背は高く、頬は痩け、目ばかりがギョロリと光るよう。
「はい。ルークスと申します。この辺で闇を見た者がいると通報を受け、この周辺を探っておりました…」
今更嘘もつけない。既に猟師でないことはばれているのだ。これ以上、偽っても無意味だった。
それに、この男の反応を見たい一心もあった。もし、闇に関わるものなら通常とは何か違う反応が見られるのでは? そう思ったからだ。
主人はふっと笑むと。
「ほう。闇、ですか…。確かにこの辺りは闇が深い。一つや二つ、あっても良さそうなものですな。いいでしょう。私はデセーオと申します。この館の主人をしております。この屋敷含め、敷地内を好きなだけ探索して構いませんよ。その間、この館の一室を提供いたしましょう」
男に動揺の色は無かった。
「そうですか。しかし、それはご迷惑というもの。捜査はこちらの勝手。あなたにご迷惑をおかけするのは──」
「いいえ。構いませんよ。あなたのような美しい方と数日でも過ごせるのであれば喜んで。部屋を提供する代わりに、ぜひ客人として食事も共にしていただければ、嬉しい限りです。シン、部屋の準備を」
「…は」
恭しく頭を下げたシンは、部屋を退室していく。ちらとその視線がこちらに投げかけられたのは気のせいか。主人はこちらについと歩み寄り、
「その金糸は生まれつきで? 両親ともに?」
ベッドの端に腰かけた。重みでベッドがきしむ。
「いいえ。両親共に茶色の髪でした。家系にも誰ひとりいません。私は突然変異で生まれたようで──」
「そうですか。そんな不思議な事もあるのですね? どうぞ、滞在中は自分の家だと思って気楽にお過ごしください」
「…有難うございます」
主人の手がふと伸び、ルークスの髪をひと房手に取った。そこへゆったりとした動作で口づけて見せる。身体に緊張が走った。
「光の神子。確かに光の化身の様に美しい…」
ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。主人の舐めるような視線に居心地の悪さを覚える。
「ぜひ、お近づきになりたいものだ…」
デセーオは漸く髪から手を放し、部屋を後にした。
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