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3.凡児
婀娜花凡児は、息子である六歳の川太郎とふたり暮らしだ。妻の紙魚子を交通事故で亡くして早二ヶ月、ようやく幼い子どもとの生活にも慣れてきた。
川太郎はまだ母親の死が実感出来ないのか、病院でも葬儀でも泣きわめいたりはしなかった。その代わりにリビングでテレビを見ている時や、風呂場で髪の毛を乾かしている時など、不意に動きを止めて何もない方向を見つめたりした。凡児は気味悪がってその都度訳を尋ねたが、川太郎はいつもなんだか言いにくそうに、
「わかんない」
と口を尖らせるだけだった。
凡児は昼間会社員として働き、田舎から呼び寄せた実家の母に、川太郎の保育園の送り迎えを頼んでいた。だがひと月ほど前に凡児の父が病に倒れ、母は実家との行き来で疲れ果ててしまっていた。そんな折、紙魚子の妹である鄙美が手伝いに来てくれるようになった。
鄙美は紙魚子と三つ違いの二十四歳で、凡児とも五つしか違わずお互いにまだ若い。鄙美には今恋人はいないと言うが、いくら子どもがいるとは言っても妙齢の女性を頻繁に家に上げることに凡児なりの抵抗があった。ただ、川太郎が鄙美になついていた。
病に伏せることも多かった線の細い紙魚子とは違い、鄙美は活発な明るい性格で押しも強かった。凡児もきっぱりと断れば良かったのだが、急に母を亡くした川太郎の精神状態と、男手ひとつで生活を切り盛りすることへの難しさもあって、ついつい甘えがちになっていた。
「どこ見てるの?」
ある晩、鄙美が川太郎にそう尋ねた。夕ご飯の後片付けをするべく食卓から立ち上がった、そんな何気ないタイミングだった。
(ああ、まただ)
凡児は焦った。また川太郎が何もない場所を見つめている。鄙美を怖がらせたりしたら、もう手伝いに来てもらえなくなるかもしれない。
「子どもってこういう所あるよねえ」
なんて取り繕ってみても、子どものいない鄙美にはまるで通用しない。だが鄙美は意外にも、
「何か見えるの?」
川太郎の前に両膝を着いて優しく尋ねた。恐怖心よりも思いやりが勝っているような、柔らかな声色だった。
川太郎はリビングに置かれたテレビの方を見ていた。だがこの時テレビの電源はオフ。画面には何も映っていなかった。そして川太郎の視線はテレビ画面よりも上、やや後ろに向けられていた。
「川太郎くん?」
テレビの後ろは、壁である。凡児には何も見えず、川太郎の視線を追って顔を振り向かせた鄙美にも何も見えなかった。川太郎は怖がりもせず、ただ、じっと壁を見ていた。
「そういうことが何度も続いて、私が家にいない時でも嫌な気配を感じているそうなんです。なんか、幽霊でもいる……んじゃないかって」
鄙美の話を聞きながら、魔美子はどうしようと考えていた。
トイレットペーパーの残量が少ない。
頑張って節約してもあと二回分しかないだろう。
どうする、二回おしりを拭いて、その直後に濁流が押し寄せて来たらどうする。まずいぞ、替え置きはこんな時に限って廊下の奥の、居間だ。
「ううーん、私はどうすれば」
「相談に乗ってもらえませんか?」
「私は……そ、何だって!?」
「あの」
「今何か言ったか?」
「助けて下さい」
「助けてほしいのは私も一緒だ」
「え?」
「じゃあこうしようよ鄙美。今すぐ廊下を奥に進んで居間に行って、『サラサーラ』を持って来てくれないか」
「さ、さらさら?」
とりあえず立ち上がり、言われた通り廊下の奥へと視線を向けた鄙美は、古ぼけた壁掛け時計が視界に入った途端、
「しまったぁ!」
と大声で叫んだ。
「ど、何々、鄙美どうした何!」
「川太郎くんを保育園に迎えに行かなくちゃ!すみませんまた来ます!」
「おい!」
鄙美はそのままどたどたと廊下を走って玄関から飛び出して行った。魔美子はひとりトイレに取り残され、
「私はどうしたら」
と呟いた。
その時、誰もいないはずの廊下の奥から、微かな物音が聞こえた。
絶望に打ちひしがれていた魔美子は顔を上げて耳を澄ました。
確かに、小さな物体を引き摺るような、摩擦音に似た物音が聞こえてくる。
「……おーい」
トイレの中から魔美子は声をかけた。
しかし数秒待っても返事はない。
「おーい、ちょっと頼みがあるー。居間に置きっ放しにしてあるサラサーラを今すぐここへー……」
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