43.嘆き

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43.嘆き

 婀娜花紙魚子が勤めていた弁当屋に、渦巻十四夫という名の若い男性店員がいた。仕事の出来るフリーアルバイターで、時間の融通が利いたことから夕方のシフトに入る紙魚子と同じ勤務帯になることが多かった。  若く綺麗な二人だった。  店の利用客はほとんどが顔馴染みで、この辺りに棲む男たちが割合の多く占めていた。だから、 「あの二人、出来てんじゃねえの?」  下卑た噂が囁かれるのにそう時間はかからなかった。  凡児は怒った。  共働きである以上、妻に強く出られない立場だ。  紙魚子はそんな立場を利用して、自分より若い男と不倫している。  些細な噂話を広めることで日頃の憂さ晴らしをしていた近所の男どもは、罪悪感に苛まれながらも険悪になる婀娜花家の様子を遠巻きに見て楽しんだ。だが、他人だからこそ静観していられたある種の平和な光景は、脆くあっさりと崩れ去った。  凡児が十四夫を自殺に見せかけて殺してしまったのである。  そしてあろうことか凡児はその足で、噂を振り撒いた六人の男たちのもとへ赴き、一人一人に対してこんな言葉をかけて回ったという。 「十四夫ぉ。最後に、僕は絶対に不倫なんかしてませんって泣いてたよぉ。なんかぁ、間違って殺しちゃったみたいなんだけど、これってぇ、噓の噂流したお前のせいでもあるんじゃない?」  そして凡児は、男どもに自身のアリバイを成立させる手助けを強要した。  問題は、その後だった。 「本当ならそこで終わる筈だろ」  と言ったのは、紙魚子と十四夫の噂を流した男たちの一人である、如月だ。 「俺たちは余計なこと言わずにちゃんと黙ってた。黙ってたし、あいつのアリバイ作りにも協力した。一緒に家で酒飲んでたってちゃんと証言したんだ。なのに、あいつ、俺たちが黙ってるの利用して、また自殺に見せかけて」  ひとりずつ殺し始めた、というのである。  如月や蝶番たちも、最初のうちは本当に自殺だと思ったそうだ。自分たちが流したデマがもとで、将来ある若い男が死んだのだ。その直後に事故で紙魚子が亡くなったことで、自責の念はさらに増していった。だが、 「これはやばいんじゃないかって思った。もしかしたら紙魚子さんが死んだのも」  凡児の仕業ではないか……そう思ようになったのも、誰かが言い始めたからではなく、ごく自然な流れだったそうだ。自分を責めて気持ちの落ち込んだと心へ、魔が差して命を断つ人間も一人や二人ならいるかもしれない。だが、《 《続くのはおかしい》》。 「何でそこまでされて黙っとったんじゃ」  という蝸牛の問いに、 「ううう」  蝶番はボロボロと涙を零し、嗚咽した。  如月が言う。 「何度も警察に相談しようと思いました。俺らは実際には紙魚子さんと十四夫の噂話をしてただけだし、こんなことになるなんて思ってもみなかった。だから他の連中とも何度もここで顔合わせて、どうしたらいいのか、どうすべきだったのかって、今後のことも含めて散々話し合ったんです。でも、ある時仲間内の一人が、やっぱり黙ってる方がいいって言い出して」 「何でじゃ」  さらに問う蝸牛に、 「だって」  と、如月は口を尖らせて答えた。 「考えてもみてくださいよ。あいつ。凡児。言わなくてもいいのに自分から、自分の方から十四夫を殺したって打ち明けて来たんですよ」  最初のうちは如月らも、アリバイ作りに加担しろという要求に対してだけ神経を擦り減らしていた。だが、凡児が自ら殺人を告白する必要なんてどこにもなかった筈だと気付いた時から、如月たちの心中は全く別の恐怖に支配されていった。 「警察に捕まるとか、取り調べを受けるかもしれないとか、もう全く考えられなくなったんです。次は俺たちが狙われるんじゃないかって思ったら……だから」 「ほいで、黙っておくことにしたんか」  霊次郎の言葉に如月は頷き、蝶番はテーブルに突っ伏して泣いた。 「連続自殺なんて最初っから起きてなかったんだ」  霊次郎は言う。  婀娜花家の周囲で起きていたのは最初から、連続殺人事件だったのだ。 (じゃあ、あの時、買い物から戻った私と川太郎くんが人垣の向こう側に見た凡児さんは……凡児さん自身が殺した吉富さんを見つめてたっていうの?)  鄙美は震えた。  川太郎の震えが移ったんじゃないかと思う程に、意識を越えた本能的な恐怖が全身をガタガタと揺さぶった。そして鄙美の魂は、揺さぶられた入れ物から今にもパーンと弾き出されてどこかに消えてしまいそうなくらい小さく弱く縮こまっていた。 (お姉ちゃん) (お姉ちゃんを殺したのは……本当に凡児さんなの!?)  その時だった。  ……ああーーーぁ 「は」  霊次郎の体のどこに刃を突き立てようか思案していた凡児はその瞬間、舌なめずりをやめて、下を向いた。  足元には首を絞めて殺した魔美子が血塗れで横たわっている。  全力で首を絞めた。  包丁で首を切った。  皮膚を裂いて、肉と骨を音がする程激しく叩いた。  凡児の足元にあるのは、少女のような見た目の、死骸であるはずだった。  だが、 「こんなの死に損じゃねーかぁ」  その死骸が、喋ったのである。 「もういやだ。もうまじでいやだ。あんなに痛いの我慢して色々試して、恥ずかしいのも堪えて必死にここまで来て、ようやく綺麗な人間の心に出会えたと思ったのに」  そして、うつ伏せでこと切れていた魔美子の体の下で、不意に、もぞもぞと何かが蠢いた。
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