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44.世界ってさ
「あ?」
目を細める凡児の足元で動いているのは、茶色い毛並みの細長い腕だ。
ぬいぐるみの、ジョージだった。
魔美子の声は、そのジョージから聞こえてくるようだった。
「もー嫌だ!」
怒りの籠った声が発せられた瞬間、魔美子の背中が、ぐい、と真上に盛り上がった。それはまるで、下敷きになっていたジョージが魔美子の体を下から持ち上げたように見えた。
「う」
凡児がその場から跳び退いた。
「やっぱりこの世界にはクソみたいな人間しかいない、クソったれでクソまみれのクソだよクソ、クソ!」
毒づきながら魔美子が立ち上がる。
声はこの時、はっきりと魔美子の口から聞こえていた。
左手にはジョージを持っている。
「服装が決まんない時点で気付くべきだった。私は今日、絶対にここに来るべきじゃなかったんだ」
「魔美子さん!」
鄙美が涙ながらに叫ぶ。
「良かった。生きてた!」
「はあ!?なんで、どうなってる!」
包丁の柄を握り返す凡児に、
「やめとけ」
と霊次郎が止めた。
「話せば長い。とりあえず魔美子には何をやったって無駄だ、やるだけ無駄なんだ。それに今は俺だっているし、お前には何もさせねえよ。もう終わりだ」
「何分けの分かんないこと言ってるんだ?何が終わりなんだよ」
凡児は上唇を引き攣らせて笑った。
「いいから、諦めて観念しやがれ」
「するわけない。何も終わらないさ。始まりだろ。そうだ。始まりじゃないか」
「凡児、お前」
「何の始まりだ?」
凡児に背を向けたまま魔美子が尋ねた。
全身が血に染まっている。
その血は全て魔美子自身の血だ。だが、包丁が喰い込んだはずの首筋は、すでに固まりつつある血の下で元通りにくっついていた。塞がったというよりも、傷そのものが消えていた。
凡児は目を輝かせ、刃を下に向けたまま耳の横で包丁を構えた。
「だってまたお前を殺せるだろ。僕、趣味なんだよね。人殺すのが好きなんだ。人を殺さないと生きてけないんだ」
「はあ」
がく、と魔美子は両肩を落とした。
「心から残念だよ。生憎私の運命はここにはなかったってわけだ」
「何のことだか知らないけどそうみたいだね、ここにあるのは僕の運命だよ。僕の家だもの!」
魔美子はゆっくりと振り返り、静かだが悲しみを称えた目で凡児を見つめた。
「紙魚子を殺したのは、どうして?」
「え?」
「噂話に踊らされて勘違いしたんだとしても、渦巻十四夫を殺したんだからそれでいいじゃない。なんで紙魚子まで殺したのよ。趣味と嫁さん天秤にかけて、それでも殺人衝動が勝っちまったって言いたいの?」
「爪だよ」
凡児は即答した。
最早勿体ぶる気も、殺人という己の業を隠す気も毛頭ない様子だった。
「爪って?ひき逃げにあって無くなったっていう、例の両手の爪のこと?」
「そうだよ。僕は紙魚子の爪が好きになって結婚したんだ。だから自分の趣味よりも優先してちゃんと紙魚子を大切にしてたんだ。もちろん本体は爪だけど」
「は?」
「綺麗な爪だったぁ」
「馬鹿にしてんのかお前、本気で言ってるのか?ちゃんと向き合えよ、ちゃんと人の命に向きあえよ!」
「魔美子」
霊次郎が背後から魔美子の肩を掴んだ。
「話はもうそれくらいにしとけ。鄙美さんや川太郎が聞いてる」
魔美子は片頬を霊次郎に向け、
「ジョージの件、許してないからな」
と、一段と声を低くして答えた。
「ああ、分かってんよ」
「そうか。もうお開きか」
凡児が言った。
「残念だな、楽しい時間にはすぐに終わりが来る」
「始まりだとか終わりだとか。いい加減にしろよお前!」
魔美子が睨み上げて言うと、
「ああ」
と凡児は小首を傾げた。
「そうだよ。いい加減お前が死ねってことだよ」
凡児が右足を前に踏み出した瞬間、バツン、と婀娜花家の明かりが落ちた。
照明が消えたのではない。
この家全体が再び闇に呑まれたのだ。
またかよ、と凡児が叫ぶ。
カカカカカカ……
ギィィィィ
キリキリキリキリキ……
ボヘァァァァァァ
「紙魚子だ」
魔美子が独り言ちる。
「この音と暗闇はまさか」
と霊次郎が囁いた。
「ああ、婀娜花家で起こるラップ現象の正体だ」
魔美子は頷いて答えた。
「これは干渉音だよ。今にもあっちの世界がこっちの世界に侵入して来る。やかましい音をたてて現実をすり潰しながらじりじりと近づいて来るのさ!」
「くぅぅ!」
凡児の口から、口惜し気な高い声が漏れた。
次の瞬間、
「いて!」
と魔美子が声を上げた。
「大丈夫か!」
魔美子を庇うように両手を回した霊次郎の肩に、ドン、と何かがぶつかって来た。
「待て!」
霊次郎はぶつかって来たのが凡児だとすぐに分かった。
血の匂いを纏わせた刃物が鼻先を掠めたからだ。
だが凡児は止まらず、魔美子と霊次郎の側を走り抜けた。
「逃がすんじゃねえぞ!」
魔美子が叫ぶ。
「そうは言っても何も見えんぜこいつぁ!」
だが二人の杞憂をよそに、凡児は家から逃げ出すことをしなかった。
激しい衝突音とともに、どこかで扉の開く音が聞こえたのだ。
玄関の重たい扉ではなく、木製だがもう少し軽い印象の音だった。
「何だ?」
何も見えない霊次郎が誰にでもなく問う。
「げ、玄関のすぐ側に部屋があります!」
どこかで鄙美が叫んだ。
「魔美子さん!私が寝泊まりしてた部屋です、凡児さんはきっとその部屋に!」
魔美子の手元で懐中電灯が光った。
「あ、それ」
と霊次郎が指さした。うちの店で買った……。
「店長に言っとけよ、もっと長持ちする乾電池売れって」
魔美子は走ってその部屋に向かった。一度死んで生き返ったせいか、腰の痛みは噓のように無くなっていた。
「凡児!」
鄙美が使っていた部屋の入り口に立って、魔美子は室内を照らした。すぐ後から霊次郎が追いかけて来て、魔美子の背後に立って部屋の中を覗いた。
「あ!」
紙魚子が立っていた。
紙魚子は、大型のクローゼットを開けて放心したように立ち尽くしている凡児のすぐ隣に立っていた。
「紙魚子」
魔美子が声をかけるも、紙魚子はこちらに背を向て、震える爪のない手を凡児の両肩へと忍び寄らせた。
「大事にしてたのに」
と、凡児が呟いた。
紙魚子の手が止まる。
「心から大切に思ってたんだぞ!」
凡児が魔美子たちを振り返った。
その瞬間、クローゼットの中から無数の手と顔が現れた。そしてそのどれもが無惨に傷つき、赤黒く乾いた血に覆われていた。男のものも、女のものもある。だがそのどれもが、ただの死者ではなかった。
「せっかく苦労して集めたのに。僕のたったひとつの趣味なのに」
暗黒の中を手探りし、魔美子たちの声を頼りに歩み寄って来ていた鄙美が、凡児のその一言に腰を抜かして座り込んだ。
(凡児さんの……趣味部屋)
(本もフィギュアもCDもなにもない殺風景な部屋)
(私が借りて寝泊りしてた部屋)
「まーいーや」
凡児の、乾いた声が聞こえた。
また集めればいーや。
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