45.紙魚子の音

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45.紙魚子の音

 探偵墓場霊次郎とその師匠鋏蝸牛は、駅前の喫茶店にてさらに恐ろしい話を聞いた。話をしてくれたのは、終始青い顔で無言を貫いて来た蝶番だった。蝶番は、情報提供の礼を述べて立ち上がった霊次郎の手を掴み、 「やめとけ」  と言った。 「……ああ?」 「何をやめるんじゃ」  蝸牛が問うと、 「あいつは恐ろしい」  蝶番はテーブルに視線を落としたままそう答えた。 「分かるように言うてくれんかのう。どのように恐ろしいんじゃ」 「あいつは……あいつ、あいつの、し、紙魚子さんがどうやって死んだか、ちゃんと調べたか!?」  霊次郎と蝸牛は顔を見合わせた。 「ひき逃げだろ」  再び着席して霊次郎が答えると、 「違う」  蝶番はブンブンと頭を振った。 「それは事後工作だ」  隣の如月が、怪訝そうな表情を浮かべて蝶番を見つめ、眼鏡を直した。  蝶番が続ける。 「俺が車を貸して、あいつが現場で急ブレーキの後を残して走り去る……いかにもひき逃げ事故が起きたって見せかける為にそういう痕跡を残したんだ。だからひき逃げ犯を追いかけたって犯人は捕まらない」 「じ、じゃあ、紙魚子さんはどうやって死んだんだ。鑑識はひき逃げを疑いもしなかったんだぜ?」  霊次郎の問いに、 「撲殺」  と蝶番は答えた。 「車に跳ねられたと見間違えるだけの傷を、あいつ、紙魚子さんを殴り続けて負わせたんだ。木製バットを使ったそうだ。深夜の住宅街に、自分の嫁さん身体を叩く音がずっと響いてたって。ドン、ドガン、ドドン、ドスン、ドン……って、あいつ、俺の耳元でその音を再現しやがった、あいつ、あいつは本物の悪魔だ!」  後になってこの話を聞いた時、魔美子は、婀娜花家の存在しない一階と二階の間から聞こえていたあの音が、紙魚子の走り回る音ではなかったのだと思い知った。あの音は、紙魚子が夫である凡児から殴られ、死に至るまで聞き続けた音だったのだ。だが紙魚子はそれでも地面を這って、家に帰ろうとした。子供の待つ家に。 「道理で」  と魔美子は震える声を出した。 「道理で鄙美は変わり果てた姉ちゃんの姿を見なかったわけだ。川太郎が怯えもせずに母ちゃんの影に手を伸ばしたわけだよ。紙魚子は家族を取り殺すつもりなんかじゃなかった。川太郎と、この家を心配してやって来た妹を守る為に戻って来てたんだ」  魔美子がかざす、懐中電灯の光の輪のすぐ外側に、闇より出でた死者たちの手がうねうねと忍び寄って来ていた。凡児に殺された死者たちの魂が、どこにも行けず婀娜花家のクローゼットに押し込まれているのだ。 (私が懐中電灯のスイッチをオフれば、その瞬間凡児の命はあの世へ持って行かれるのかな) (消してやろーかな)  魔美子はそう考えた。 (どーでもいーもんな、こいつ) (どいつもこいつも、もーどーなったっていーもんなあ)   とそこへ、 「どうしてよ」  と鄙美が悲鳴に近い声を上げた。廊下にへたり込んだままである。そんな鄙美のすぐ背後に、表情の見えない川太郎の小さな足があった。 「お姉ちゃんが何したって言うのよ、どうしてお姉ちゃんを殺したのよ、返してよ!お姉ちゃん返してよ!」  そして、ママ、と言って泣く川太郎の声がそれに続いた。 「爪がね」  凡児は答えた。その声色にはしかし、あくまでも日常会話で用いる平坦な抑揚しかなかった。 「夕飯の後片付けかなんかしてる時、爪が割れたんだって。包丁の角っこがかすったかなんかで、パチンて爪切りで無造作に切ったんだ。いつも、爪を切るのは僕の役目だからって言い聞かせてあったのにさ。僕は紙魚子の爪と結婚したようなものなのに、勝手に傷ものにして、勝手に切り落としたりして。そんなのルール違反だろ。もともと爪が綺麗だから側に置いてたんだよ。でなけりゃとっくに殺してた。だから、もういいかなって」  凡児の首筋まで伸びていた紙魚子の爪のない両手が、スッと下に降りた。  親しみを込めて接し続けた義兄の告白を聞いた鄙美には、言葉で言い表すことの出来る感想がひとつも浮かんでこなかった。ただ涙が流れ、ただただ混乱するばかりだった。  そんな鄙美を見つめて、はあ、と霊次郎は溜息をついた。 (だから傷つくぞって言ったんだ) 「魔美子よう、もうこういう奴はぁ島に連れて帰って、魔美子の爺さんとこに突き出してやりゃいいんだよ」  霊次郎がそう言うと、 「ふざけんな。こんな奴一歩たりとも島には入れたくないね」  と魔美子は憤った。  その瞬間、二人の隙をついて凡児が猛然と突っ込んで来た。  懐中電灯の光の輪から出た凡児の背中に、クローゼットから現れた死者たちの霊魂が追いすがった。 「うお!」 「いてえ!」  だが、一瞬早く凡児の逃げ足が勝った。  魔美子と霊次郎を突き飛ばし、凡児は立ち止まらずに玄関から外へと飛び出した。 「う!」  夏の太陽が浴びせかける猛烈な日差しに、凡児の目が眩んだ。 「臭いなー、臭い臭い。匂うなー、匂う匂う」  凡児のすぐ側で、老人のしゃがれ声が聞こえた。 「誰だ!」  目元を覆った腕の下から前方を垣間見た凡児の視界に、一本の細長い木が飛び込んで来た。それは鋏蝸牛がフルスイングした、黒檀で出来た彼の杖だった。
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