46.側にいた鬼

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46.側にいた鬼

「けーる」  魔美子はジョージを胸に抱き、廊下でひっくり返っていたリュックを掴んで肩に背負った。 「ま、魔美子さん!」  鄙美が立ち上がり、 「あ、あの、あ、あ、あ」  瞼を瞬かせながら言葉を発しようと頑張った。  だが、どんなに頑張っても、鄙美の口からありがとうという言葉は出て来なかった。 「無理しなくていーよ、別に、私何もやってないしな」  魔美子は鄙美に背中を向けたままそう言い、 「じゃ」  と言って玄関へ向かった。 「で、でも!」 「いいすんよ、別に何も言わなくて」  霊次郎が間に入った。 「これは別にうちが請け負った正式な仕事じゃないし、それに、まあ、こういう残酷な結果を被害者であるあんたらに突き付けちまったわけだし」 「霊次郎さん」 「そんなことより、今日あんたが見た、魔美子の特異体質のこと、絶対口外しないでくれよな」 「特異、体質」  鄙美は目をぱちくりとさせた。  あれを単なる特異体質という言葉だけで済ませてよいものだろうか。  誰も死なずにすんだのだから、結果的には良かったのだ。  だが、絶対に死んだと思ったはずの怨霊魔美子が、まるで何もなかったように起き上がって来たのである。首を絞められ、刃物で骨を断ち切られたというのにだ。 (あれが、特異体質だって?) (それに、あのぬいぐるみだって絶対に普通じゃない……)  一瞬、頬に血のこびり付いた魔美子の目が鄙美を睨んだ。  だが、 「チョーシ来いてんじゃねーぞレージロ、金髪ド腐れハイエナ大泥棒」  魔美子の怒号は雛美ではなく霊次郎のもとへ飛んだ。 「おい!」  言い過ぎだぞ、と霊次郎は魔美子に向き直り、二人は振り返ることなくそのまま婀娜花家の敷居を跨いで外に出た。とそこへ、 「川太郎」  両手首を後ろで縛られた凡児が魔美子らの前に立ちはだかった。その目は二人ではなく家の中の息子へと向けられている。額には真新しい赤痣が膨らんでいたが、この期に及んでまだ、凡児の顔には笑みが浮かんでいた。 「所長、お疲れ様です」  と霊次郎が声をかけた。凡児の後ろに立つ鋏蝸牛に対してである。蝸牛は自身の杖を右肩にかついで、凡児の後頭部を睨んだまま無言でうなずいた。 「ひとつだけ答えて」  魔美子が凡児向かって聞いた。  凡児の目が魔美子を捉えた。「……何だよ」 「お前は最低最悪の極悪人だけど、でも川太郎のことだけはちゃんと愛し……」 「川太郎」 「な」  凡児は魔美子の質問を最後まで聞かずに視線を切った。玄関まで歩み出てきた川太郎に声をかけ、目線を合わせるようにその場にしゃがみ込んだ。顔には、満面の笑みが浮かんでいた。 「ごめんな川太郎」  凡児の穏やかな声に、魔美子は振り返って川太郎を見つめた。 「川太郎。父さんはな……父さんは、大きくなったらお前も殺そうと思ってた」  霊次郎が凡児に掴みかかった。  魔美子はあまりの衝撃に目を見開いたまま動けなかった。  だが、川太郎は父親の言葉を聞かずに済んだ。  鄙美が、川太郎の背後に立って彼の両耳を塞いでくれたからだ。咄嗟の判断だった。鄙美の目には、凡児の浮かべた笑みが邪悪なものにしか映らなかったのだ。愛する姉であり、凡児にとっては愛すべき妻だった筈の紙魚子を撲殺した男が、ここへきて満面の笑みを浮かべる事などありえない……川太郎の両耳を塞いだのは無意識だったが、鄙美はすでに凡児の人間性を少しも信じられなくなっていた。  凡児は霊次郎と鋏蝸牛に馬乗りになって取り押さえられながら、それでも川太郎へ話しかけるのをやめなかった。 「川太郎!父さんはお前を一人前の男に育てあげてから殺すつもりだったんだ。だから父さん絶対!紙魚子にお前を取られたくなかったんだ!父さん自分で!自分の手でお前を殺したかったから!」  魔美子は天を仰ぎ、自分の体を使って、交錯する凡児と川太郎の視線を遮った。そこへ、サイレンを響かせながらパトカーが滑り込んで来た。蝸牛は到着の遅れたかつての部下を叱責し、 「この鬼畜を早い所連れていけ」  と杖で凡児を叩いた。縮録助は狼狽し、事態を飲み込めぬまま蝸牛に言われた通り凡児を車に乗せた。 「マイクラ」  魔美子が、川太郎の目の前に座って声をかけた。川太郎はきょとんとした顔で魔美子を見つめ返した。鄙美が川太郎の両耳から手を離すも、その手はブルブルと震えていた。 「マイクラ」  ともう一度魔美子は言った。 「うん」 「今度、一緒にエンダードラゴン倒そうぜ」 「……うん!」  そんな二人の光景に涙し、「……?」  鄙美は不意に声を聴いた気がして振り返った。凡児の趣味部屋から、姉の声が聞こえた気がしたのだ。数日間鄙美が寝泊まりした、簡素で殺風景な凡児の部屋。その部屋の前に立つと、開け放たれたクローゼットの前に、紙魚子がこちらを向いて立っていた。捜査の手が入れば、紙魚子の背後からはたくさんのコレクションが出て来ることだろう。それらは皆、凡児が殺した死者たちの遺体、その一部であるはずだ。 「お姉ちゃん」  紙魚子は、魚のイラストが描かれたエプロンを外して足元に捨てると、優しい目で鄙美を見つめたまま、クローゼットの中に消えた。きっと、紙魚子の失われた爪も、あの中から見つかるだろう。  川太郎が失踪した時、自分が寝泊まりしていたこの部屋をもっと隈なく探していれば、もっと早くに姉の手掛かりを発見出来ていたのだろうか? そんな後悔に似た思いに、鄙美の目からは大粒の涙が溢れ出た。 「ごめんね、お姉ちゃん」  思い返せば初めて会った時、魔美子も魚のイラストが描かれた変わった服を着ていたっけ。やはり姉が魔美子に引き合わせてくれたのだと、鄙美はそう思うことにした。 「ありがとう……お姉ちゃん」
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