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4.川太郎
じっとりとした粘り気のある暑さが肌に張り付いてくる、とても不快な夜だった。その日も、鄙美は婀娜花家で夕飯の準備に取り掛かっていた。保育園から帰って来た時、川太郎は運動会の練習とやらでどろどろにした体操服を巾着袋から出して来た。鄙美はすぐさま洗濯機に放り込み、そのまま川太郎にシャワーを浴びさせた。川太郎はまだ六歳だがひとりで頭も洗えるし、体も洗える。冬場にひとりで浴槽に浸からせるのはまだ危険だが、シャワーを浴びるだけならひとりで何の問題もない。それでも、鄙美は台所で夕飯を作りながらちょくちょく風呂場の様子を確認しに行った。洗面所から声をかけ、
「大丈夫、泡が目に入っていたくない?」
としつこく聞いた。川太郎は、
「……大丈夫」
と静かに答えるのみで、その声も半ばシャワーにかき消されて聞き取り辛かった。鄙美は鼻から溜息を逃がし、腰に手を当ててしばし曇りガラスに映る川太郎の様子を眺めた。
(お姉ちゃんが亡くなるまでは、とても明るい子だったのにな。うるさいくらいに元気で、一日中走り回ってる子だったな)
だから、保育園で盛大に汚して来た体側服を見た時は嬉しかった。しかし、少しずつ慣れて来たとは言ってもやはり、以前とは比較にならない程物静かな子になってしまった。
(時間が解決するのを待つしかないよね、お姉ちゃん)
もう一度溜息をついて、鄙子は夕食の支度へ戻ろうとした。
「あはははははははは!」
鄙美が背を向けたその瞬間、突如風呂場で甲高い笑い声があがった。驚いて振り返るも、川太郎に変わった様子はない。念入りに泡を立てて髪の毛を洗っている。
「川太郎くん?」
「……大丈夫」
「……そう」
そこへ、玄関の鍵が開いて凡児が帰って来た。
鍵を開けて玄関の扉を開けた時、廊下に置かれたボストンバッグが目について、
(おや)
と凡児は思った。明らかに鄙美のものだと分かる女性もののバッグだった。鄙美にはこれまで何度も川太郎の保育園のお迎えを頼んでいるし、そのまま夕飯の支度までお願いすることも多かった。だが、泊まっていったことは一度もない。鄙美の住んでいるアパートが婀娜花家から近いこともあり、若い女の子を男しかいない家に泊めるのは周囲の目を気にして避けてきた。
(それは彼女も分かってるはずなのにな)
「ただいま戻りましたー。鄙ちゃん?」
凡児が声をかけると、廊下の右手にある洗面所から鄙美が後退りしながら出て来た。台所にいると思っていたので驚いた。しかもなんだか顔色が悪く、表情も心なしか強張っている。
「鄙、ちゃん?」
「ああ、凡児さん、おかえり」
「ただいま……どうかした?」
「あ、ううん。何でもないの。もうすぐ夕ご飯が出来るから」
「ああ、うん。でも鄙ちゃん」
「もうちょっと待ってて」
凡児の話も聞かずに、鄙美は半ば逃げるようにして台所へ戻って行った。凡児は首を傾げ、手洗いをすべく洗面所に入った。
「ただいま川太郎。今日は早風呂だなー」
蛇口を捻って水を出す。
石鹸をつけてごしごしと手を洗う。
シャワーの音がやけに大きかった。
「川太郎、お湯出し過ぎじゃないかー?」
「……大丈夫」
「何が大丈」
凡児が見やると、風呂場の曇りガラスに真っ黒な人影が映っていた。
「わ!」
知らない誰かがこちらを向いて立っている。
凡児は腰を抜かしそうになって背中から壁にぶつかった。
ガラスに映る影はよく見れば女性らしいシルエットで、髪の毛が腰のあたりまで長く伸びていた。そしてそのシルエットの横には、川太郎と同じ背丈の影がやはりこちらを向いて立っていた。
「は、入るぞ川太郎!」
凡児が風呂場のドアを開けると、タオルで背中を洗っていた川太郎が驚いた顔で凡児を見上げていた。川太郎以外、他には誰もいなかった。
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