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8.サイレン
婀娜花家の朝、慣れない部屋で目を覚ました鄙美は、突然住宅街に滑り込んで来た救急車のサイレンに身を固くした。
(……五時)
早朝、五時である。
救急車は婀娜花家の真ん前に停車し、回転する赤色ランプの光が、鄙美のいる部屋のカーテンに複雑な模様を描いた。窓辺に立って外の様子を伺うと、早朝だというのに既に人だかりが出来ていた。鄙美は薄手のカーディガンを羽織って部屋から出ると、まだ二階で寝ている凡児と川太郎を起こさぬよう玄関の鍵を開け、外に出た。
「え」
斜向かいの家から、救急隊が慎重に担架を運び出して来るのが見えた。集まっていた野次馬から悲鳴が上がる。担架には大きな白い布が被せられており、それが明らかに死体であることを物語っていた。
(噓)
鄙美が動揺したままその光景を見つめていると、その家の中から泣き叫ぶ夫人が走り出て来た。
「何でー!あんたー!何でよー!」
(自殺だ)
と鄙美は直感した。
その時、不意に野次馬たちの視線が一斉に鄙美を振り返った。
「え?」
年齢性別様々な野次馬たちの目が、鄙美の全身を舐めるように見た。鄙美は薄手のカーディガンこそ羽織っていたものの、下はショート丈のパンツに上はタンクトップという出で立ちだった。僅か二ヵ月前に死人が出た家に、若い薄着の女。
(まずい)
鄙美の顔から血の気が引いた。
鄙ちゃん?
突然背後から凡児に声をかけられ、鄙美は慌てて家の中に引き返して扉を閉めた。
「実は、これが初めてじゃないんだよ」
と凡児は打ち明けた。
近く、とは言っても同じ町内に住んでいるわけではない。鄙美は凡児の口から、隣近所で自殺が相次いで起きていることを初めて聞かされ、肝の冷える思いがした。同じ町内でこの半年間、凡児の知っているだけで四人の自殺者が出ているという。
「そんなに?」
と鄙美は青ざめた。
「何なんだろう、これ」
「皆、病気とかじゃなくて自殺なの?」
「そうらしいね。僕も詳しく聞いたわけじゃないけど」
「そのこと、川太郎くんは?」
「え?」
食卓で向かいあって座っていた凡児は、顔を上げて鄙美を見た。
「川太郎? いや、知らないと思うけど、なんで?」
「だって、お姉ちゃんのこともあるし、いい影響があるわけないもん。黙っておいた方がいいと思って」
「それはそうだね。うん、もちろん僕からは何も言ってないよ。でもその内誰かの口からぽろっと聞かされるかもしれないね、立ち話してる連中、結構いるから」
「気を付けて見とくね」
「ありがとう鄙ちゃん」
「うん」
「それで、昨日はよく眠れた?」
「え?うん」
「変わった音とかしなかった?」
「変わったって、どんな?」
「え、いや、ほら」
と凡児は斜向かいの家を指さした。本当は家鳴りを聞いたかどうかが知りたかったのだが、これ以上鄙美に怖い思いをさせてはならぬと凡児は気遣った。
「あー、ううん、何も。私の方こそ大丈夫だった?」
「何が?」
「あんまし言いたくないけど、私歯ぎしりが凄いらしくて」
凡児は笑った。
「まさか!二階まで聞こえるなんてことあるわけないよ」
「そ、良かった。でも恥ずかしい」
「いやいや、そんな事言い出したら、その格好の方がちょっとまずいんじゃないかな」
「ごめんなさい」
鄙美は素直に頭を下げた。
「あんまり人の家で冷房とか付けるのアレかなと思って、つい薄着で寝ちゃって」
「いいよいいよ冷房くらい」
「気を付けます」
この日は凡児の仕事が休みだった。
気晴らしに川太郎を連れて、隣県の大きな公園へと出かける予定になっていた。早朝に起きた自殺騒動のおかげで予期せぬ時間に叩き起こされた凡事だが、その時はまだ川太郎は隣ですやすやと寝息をたてていた。
「七時か。そろそろ起こすかな」
「早くない?」
「休みの日でも保育園と同じ時間に起きるようにしてるんだ。生活リズムは大事だから」
「なるほど」
二人して、寝室で眠っている筈の川太郎を起こしに向かった。
「しー」
寝室の前で凡児がひとさし指を唇に添えると、それを見た鄙美は楽しそうに両手で口元を隠した。
「川太郎!」
凡児が声を上げて扉を開けると、ベッドの上に、長い髪の女がこちらに背を向けて座っていた。
「あ」
その時だ。
――― コココココ……。
一瞬、鄙美たちはいずこかで鳴く鶏のような声を聞いた気がした。
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