青紫のしるべ

2/8
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
 魂が抜けたような状態のまま、気づけば半年が過ぎ、私は高校3年に進級していた。  あれは春休み明けの最初の登校日の出来事だった。  私はやはりあのときもかなりぼんやりと歩いていたに違いなかった。前からやってきた小学生の登校班の列とすれ違う際、歩道沿いの駐輪スペースに止めてあった自転車にバッグを引っかけてしまい、そのはずみで並んで止めてあった他の自転車をなぎ倒してしまったのだ。あっという間の出来事だった。  最後の自転車が倒れたすぐその横には、スモークガラスの艶やかな黒い車が止まっていた。思わず中を見たが誰も乗ってはいなかった。ほっとするのと同時にひやっとした。一歩間違えれば家計を脅かしたかもしれない事態を前に、腐抜けていた魂がぴりっと刺激されるようだった。  タイヤすれすれのところに横たわっているハンドルがやけに現実的で、ゴクリと飲み込んだ唾液の音がいつになく生々しく響いた。  自分は確かに生きているという感覚がはっきりと意識された。  大きな透明のカプセルか何かに覆われていたのではないかと錯覚するほどに、外界の音が遠ざかっていたが、そのうちに、ガチャガチャという金属音が徐々に耳に大きく響き始めた。 「あ、自転車……」  はっと我に返って振り向くと、50代半ばぐらいの、白髪交じりの小柄な男性が、倒れた自転車を次々と起こしてくれていた。 「……すみません」  ぽかんとしている場合ではなかった。私もまた、倒れた自転車を反対側から起こし始めた。 「ありがとうございました」  深々と頭を下げて礼を言うと、にこっと口元だけ動かして小さく笑った男性は、右手を軽くあげてすっと立ち去ってしまった。  遠ざかるグレーの背広……。  清潔感のあるきりっとした背中を見ているうちに、私の胸元や手のひらに、小さい頃におんぶしてもらったときの、父の背骨の感触や肌の匂いやぬくもりが、驚くほど鮮明に甦ってきたのだ。  お父さんの背中はあんなに大きかったはずなのに。あの男性の背中とは似ても似つかないはずなのに……。それなのに、どうしてなんだろう……。  おさまりどころのない悲しみが、やっと居場所を見つけたとでもいうように、涙が溢れ出てきて止めることができなくなった。  私はその日、学校を休んだ。初めてのずる休みだった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!