青紫のしるべ

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 あのときの男性の顔を忘れるはずはなかった。  それなのに、いや、それだからこそ、古典の教科書片手に3年2組の教室に入って来たときには驚いたのだ。  でも、その背中もまた、忘れてはいなかったから、自己紹介のために名前を板書し始めた男性が、その人であることは紛れもない事実だった。  岩倉(いわくら)先生は、悲しみの影をちらつかせながらも、私の人生の中にさりげなく足を踏み入れた人だった。  私は岩倉先生のことを相当に気にしていた。けれども、気にしていることを悟られないように注意してもいた。  岩倉先生は始業式の日の、あの自転車の件は覚えていたとしても、倒した本人が私であることにはおそらく気づいていないはずだった。  本当ならば、自分から改めて礼を言うべきなのはわかってた。でも、どうしてか、先生に接近するのがためらわれた。迷っているうちに、どんどん時間だけが過ぎてゆき、とうとう言い出すタイミングを逃してしまった。  が、授業を受けるたびに、もしも岩倉先生が気づいていたとしたら――という気持ちがちらついた。そんな考えがよぎると、気が気ではなかったが、でも6月に入った頃には、もう2ヶ月もたつのだから、気づいていたらそれなりのそぶりを見せるのではないか、などと都合よく解釈する癖がついてしまっていたのだ。
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