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シーン4
授業を終えてからサトルと共に彼の家へ行くと、リホがシングルベッドの上で仰向けに寝転びながら、表紙に赤い蛙の写真がプリントされた本を読んでいた。変なものを読んでいるな、などと思いながらぼんやりとそのタイトルに視線を移すと、彼女は本をパタリと音を立てて閉じ、身体を起こした。
――おかえりサトルくん。撮影の協力は得られた?
どこまで彼女に話が通っているのか正確なことは分からないけれど、少なくともプロジェクトを三人で実行しようという申し合わせはすでに済んでいるようだ。
リホの言葉を聞いたサトルは、上々だ、と短く返事をし、得意げな笑みを浮かべてさっそく準備に取りかかった。三脚を立て、ハンディカメラをセットする。学校から業務用機材や一眼レフなどを借りることもできたけれど、リホの日常に密着するという作品の性質上、持ち運びに便利かつバッテリー駆動時間の長い民生機をサトルが自前で用意したのだった。民生機といっても、4K対応の高解像、色域も広くて白飛びや黒潰れを起こしにくいという、家電量販店で入手できるカメラの中では最高位機種だ。別売りの外付けマイクも繋いであるし、一式揃えるのに二十万はしたことだろう。
サトルが作業をしている間に、リホが、床の上の、カメラのフレームに収まる位置に移動したので、それにならって隣に座る。事前にサトルからインタビュアを務めるよう言われていた。改めて彼女のことを見てみると、昨日とは打って変わって小綺麗な身なりをしている上に、顔立ちも、化粧のせいだろうか、落ち着いて見える。なにより口元にあった痣がすっかり消えていた。もう治ったんだ?と言ってその箇所を示すと、彼女は、コンシーラー、とだけ述べた。会話が噛み合っているのかいないのか良く分からない。こんな調子でインタビューが成立するのだろうかと不安になる。
――さあ、撮影開始するぞ。
サトルの声が聞こえ、緊張する。それに対してリホは余裕そうな素振りをするばかりか好奇の眼差しをこちらに向けている。録画中を示すカメラの赤いランプが点灯し、サトルが手でもって合図を出す。まず口火を切ったのは、リホだった。
――そういえば名前を聞いてなかったね。
昨日の会話の中で自己紹介をしたような気もするし、そうでなくともサトルから協力者の名前くらい聞かされていても良さそうなものだ。またもや適当なことを言って他人をからかっているだけかもしれない。そう警戒をしていると、サトルがカメラの液晶モニターを見つめながら代わりに問いに答えた。
――そいつは、ピースケだ。
リホは本当に初耳だったらしく目を丸くしてサトルのほうへ首を振り、それからすぐこちらに向き直って何度も頷いた。
――ピースケなんて、変わった名前だね。本名?
――そんなわけないだろ。あだ名だよ。
――だよね。よろしく、ピーくん。
彼女は首を傾げて悪戯っ子のように微笑んだ。完全にイニシアチブを握られてしまっていて、これではどちらがインタビュアなのか分かったものではない。そこで、こちらこそよろしく、と返事をしてから急いで思い付いたことを口にしてみる。
――自殺なんてやめたほうが良い。
リホは途端に表情を曇らせ、カメラを操るサトルに、こういう企画なの?と不満げに訴えた。ところがサトルが、続けろ、というジェスチャーのみしかしなかったため、彼女は諦めたように鼻から息を吐き出して再びこちらを向いた。
――もう決めたことなの。余計なお世話だよ。
――常識的に考えて倫理に反する。
――だけど、ここにいるってことは見たいんでしょ? わたしが死ぬとこを。
違う。弁明のために適切な言葉を探して視線を泳がせる。
――見たいのは、本質だよ。
どうにか見つけた言葉はサトルが言いそうなフレーズだった。
彼女は納得したように深く頷き、どういう意図があるのか、それ、と言いながらこちらに向かって人差指を突き出した。
――引き留められるのが嫌なら言い回しを変えるよ。どうして死ぬことにしたんだよ。
リホは、そこに回答案でも書かれているかのように、天井に視線を向けた。
――特に理由はないよ。
――それじゃあ、死ぬ必要なんてないじゃないか。
――理由がないからこそ、死ぬんじゃないかな。
――僕には理解できないな。
――ねえ、こんな話もうやめない?
そう言って彼女はチラとサトルに視線を送った。
――わたしがどうして死にたいのか、それを明確に言語化したいだけなら、カメラなんて回さないでレポートでも書かせれば良いじゃない。ねえ、どんな映像を撮りたいの?
サトルはカメラから視線を外し、当然のことのように言った。
――世界だ。
短い沈黙の後、再びリホが話し始める。
――わたしにとっての世界はこんな禅問答みたいな話をする場所じゃないよ。どこの料理が美味しいとか、あの映画が面白いとか、誰がカッコ良いとか、そんな、低刺激な情報が溢れる、うん、肌に優しい泡みたいな環境かな。
その言い方はもはや投げやりだ。とはいえ、彼女の言い分にも一理あると思えた。確かに多くの十代二十代の人間にとって生きるか死ぬかなんて話題は非日常、つまりは世界の外にある。ならば日常を映すためには。
――分かったよ。じゃあ、泡のように一瞬で記憶から弾けて消えるどうでもいい話でもしようか。そうだな。僕とサトル、どちらのほうが好み?
茶化すように尋ねると、彼女は即答した。
――ピーくんかな。
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