シーン6

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シーン6

 休日ということもあって朝から渋谷は賑っていた。駅前のスクランブル交差点は人込みで溢れ、向かいのカフェの二階から外国人観光客がその光景をスマホで撮影している。  二人とは交差点の角にある喫煙所で待ち合わせをしていたのだけれど、姿が見えなかったのでパーテーションに囲まれた一角を覗いてみたところ、サトルが一人で退屈そうにビル壁面にある大型ビジョンを眺めながら煙だか白い息だかを吐き出していた。声をかけると彼は、早かったな、と軽い調子で賛辞を述べた。先に到着していた奴に言われても嫌味にしか聞こえない。そうはいっても指摘するほどのことではないので速やかにリホの居場所を尋ねると、彼は顎を振って道路のほうを示した。リホは、ガードレールに腰を掛けて人波を眺めていた。歩み寄って、面白い?と話しかけてみると、彼女からは、寒いのにアイスを食べてる人がいた、というチグハグな答えだけが返ってきた。  リホの足元にはどういうわけかキャスター付きの旅行用鞄があった。今日は渋谷の街で遊ぶだけなので所持品のすべてを持ち歩く必要はないはずだ。 ――次の宿泊先でも決まった?  鞄を指して尋ねると、彼女は人波を眺めたまま口を開いた。 ――衝動的にいますぐ死にたいって思った時、そのタイミングで死ねるよう荷物を持ち歩いてるの。わたしが死んで、私物がサトルくんの家に残ったら迷惑でしょ。  信号の色が変わって目の前を何台もの車が勢いよく走り抜けていく。リホは足を道路側にぶら下げていた。彼女が言うところの衝動的瞬間がいま訪れるのではないかと不安になり、慌てて、ただし表面的には落ち着いた口調で、行こうか、と告げる。彼女は首肯でのみ応じ、ガードレールをまたいで後についてきた。  サトルはすでにカメラを構えていた。録画中ランプが点灯しているので、いつの間にか撮影は開始されていたようだ。一言くらい声をかけてくれても良いではないかと思ったものの、かけられたところで結果は何も変わらないということに考えが至り、黙ったままレンズを一瞥してまずはセンター街に向けて歩き始める。  撮影は順調に進行した。詳細な予定は決めていなかったけれど、リホ自ら積極的にあちらこちらへと赴いていくので、どこへ行くかで迷うこともなかった。  彼女は東京ネイティブではないだろう。出身地は知らないし、本当のことを教えてくれるとは思えないので尋ねてもいないけれど、そうだろうことは察しがついた。地元民ならば、こんなにも楽しそうに街を歩けるわけがない。リホは、城の模型を見上げては感嘆の溜め息を漏らし、雑貨屋の前では仕掛け時計を何分間も眺め、トルコ料理店では行列に並んでまでドネルケバブのピタサンドを求めたのだった。 ――これ美味しい。初めて食べた。 ――僕も渋谷には何度も来てるけど初めて食べたよ。  ケバブをかじりながら歩く。うち一人は大きな荷物を引きずっているので、どこからどう見ても遠方から来た観光客という風情だ。そのせいもあってか、サトルが執拗にカメラを回していようと周りから一切不審がられることはなかった。せいぜい記念撮影中の浮かれた若者程度に思われていることだろう。いや、仮に記念撮影と思われていなかったとしても、この街で他人の行動に興味を示す者は少ないか。  ただ一つだけ気掛かりがあった。リホはおそらく家出中であり、捜索願いを出されているかもしれない。日中だろうと警察の目に留まれば補導される恐れがある。  けれども、それはすぐに杞憂だということが分かった。彼女は舳先のような形をした交番に堂々と近付き、カメラに向かって敬礼ポーズで微笑んだのだった。思うに彼女は、捜索はされていないという確信を持っているのだろう。そのことについてサトルがどう考えているのか気になって視線を向けてみたけれど、彼は一心不乱にカメラのモニターを見つめていて、その感情を読み取ることはできなかった。  一通り街を散策し終え、誰が提案したというわけでもなく、午後はプラネタリウムへ行くことにした。駅の反対側へと渡って投影施設のある文化センターに着くと、次の上映時間まで三十分もあるとのことだったので、それまで時間を潰すことになった。  仕方なくロビーにある惑星の模型やら屈折望遠鏡やらの展示品を眺める。しばらくすると、撮影はお断りしております、と係員から柔らかな口調かつ直接的な表現で注意を受けてしまった。とりあえずカメラの電源を落とし、どうしたものかとサトルと目を合わせて逡巡する。そんな様子を見兼ねたのか、リホが、せっかく来たんだし、と声を張って、結局、撮影はできないものの、プラネタリウムは予定通り見ていくことで落ち着いた。  上映までは三十分あるとのことだったけれど開場は思いのほか早く、チョークアートによる十二星座一覧の前で、ピーくんは何座? リホちゃんは?などと会話をしている最中に、お好きな席にお掛けください、と柔らかな口調かつ柔らかな表現でアナウンスがなされて観音開きの扉が開かれた。ちなみに、リホは山羊座だそうだ。  さっそくリホと二人で中央最前列に座ると、サトルが気怠そうに、俺は離れたところで寝るよ、と言って宣言通り端の席に座り、リクライニングシートの背もたれを後ろに目一杯倒してから腕を組んで目を閉じた。  その様子を認めたリホが、大丈夫かなあ、と呟く。意図を掴めず、何が?と聞くと、彼女は上目遣いに視線を寄越し、サトルくんはイビキをかくの、と囁いた。そこまで熟睡はしないだろ、と返すと、納得したのかどうか分からないけれど、彼女はつまらなそうな顔をしてサトルと同じように背もたれを倒した。  そうして間もなく上映が開始されようとしていた時のこと、不意にリホが耳元に顔を近付けてきて小声で頼みごとを口にした。 ――ねえ、ピーくん。手を繋いでも良い?  少しばかり狼狽えながらその顔を覗き込むと、彼女は目を逸らし、まだ何も映し出されていない偽物の空を見上げた。 ――わたしね、暗いところが苦手なの。  そういえば以前にもそんな話を聞かされた気がするけれど、所詮は方便。他人をからかうことが目的に決まっている。とはいえ、そもそもはこちらから彼女にナンパを仕掛けたのであって握手程度のことについて断る理由は特にない。そこで、良いよ、と短く返事をすると、彼女は何も言わずに手の上に手を重ねてきた。  やがて星明かり点々。辺りが闇に包まれる。と同時に、強く手を握り締められた。上映プログラムは今夜の星空や世界の星空の解説で、手に力を込めるような内容ではない。むしろヒーリングミュージックも流れていて癒されるものだ。それにもかかわらずリホの手は次第に汗を滲ませ、ついにはガタガタと震えだした。暗闇が邪魔をして彼女の表情は窺えない。けれどもその心情は汲み取れたので、安心を促すよう細い手を握り返す。  約四十分の上映が終了して辺りが明るくなると、リホは牢獄から解放されたかのように清々しい顔をして大きく伸びをした。その様子を横目で見ながら尋ねる。 ――本当だったんだ?  ところが質問の意図が伝わらなかったらしく、彼女はただ不思議そうな顔をするだけだった。改めて、本当に暗いところが苦手だったんだね、と言葉を足して問い直すと、ようやく彼女は理解したようで小さく首を縦に振った。 ――幼い頃に暗い場所に閉じ込められたことがあって、いまでもトラウマなの。 ――本当のことを言うなんて珍しい。 ――いつだって本当のことしか言ってないでしょ。  会話をしながら出口へと向かう。そして扉をくぐってロビーに出たところで、サトルが眠そうな目を擦りながら声をかけてきた。 ――早く撮影を再開したいから、さっさと行こうぜ。  文化センターから出ると、時刻はまだ午後四時を過ぎたばかりだというのに、すでに薄暗くなっていた。日没の頃に屋外にいることなど滅多になく、こんなにも早く陽が沈み始めるとは思ってもいなかった。リホが、気持ちを代弁するかのように言う。 ――夜が早いね。  彼女の視線は薄紫色に染まる西の空に定められていた。 ――暗くなるけど平気? ――密室じゃなければ大丈夫。それにイルミネーションが明るい。 ――年末だからね。  その言葉を受けて背後に立つサトルが言葉を発した。 ――年内には撮影を終えたいな。  振り返ると、カメラのレンズがこちらを睨んでいた。サトルはリホの表情を念入りに撮影しながら、さらに言葉を紡いだ。 ――できれば学校が休みになる前が望ましい。  それはつまり、あと一週間ほどで死ね、という意味になる。  リホもそのことを察しただろうに、顔色を変えることもなく、まるで遊びの誘いに応じるかのような気安い口調で、言葉を返した。 ――分かった。  目の前にいる少女が次の週末には死んでいるかもしれないなんて、まったく実感が湧かない。不謹慎であることを責める気にもならないし、ましてや悲しみも。  黙り込んでいると、サトルが背中を叩いてきた。早く移動をしようという意思表示だろう。確かに、ここらにはビルしかなく見るべきものが少ないので、場所を変えたほうが良さそうだ。承知した旨を伝えるため一つ頷き、それからリホの荷物を奪うように掴んで再びセンター街へと向かう。  雑踏に戻ってすぐ夕食にした。時刻は早かったけれどいくつかの飲食店がすでにディナータイムと書かれた看板を掲げていたので、適当に物色し、焼き肉屋に入って肉を頼まず石焼ビビンバを食べた。サトルは三脚にセットされたカメラに向かって、お疲れさん、と言い、一人で乾杯のポーズを取ってはビールをあおった。  本日の撮影は終了した。店を出て簡単な打ち合わせを済ませると、サトルが解散を宣言したのだった。リホがこちらに手を振る。サトルたちとは帰りの電車が違う。手を振り返すと、二人は背を向け、高架下にある改札へと肩を並べて歩き始めた。  その後ろ姿を、人込みに紛れて見えなくなるまで、じっと、目で追い続けた。
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